金沢に暮らし始めて40数年.。この街で「見たものは、見た」。最近は「軒端に冬の山晴れて見ゆ」って心境に。
金沢暮らしの日々 ~努力は時々 報われる~
金沢の今と “あの頃” ~ 人三春の行楽に
小生が始めて金沢に来たのは、45年ばかり前の、まだ雪の残る3月初めでした。
当時、駅前には都ホテルはもちろんありましたが、駅前全体がずいぶんと寂れた印象を持ちました。でも頭の中は、この後に控えている入学試験のことで頭はいっぱいで、とても街の風景を楽しむどころではありませんでした。
駅から歩いて柿ノ木畠までゆき、大学の入試係が斡旋してくれた旅館に入りました。当時はまだビジネスホテルなんてものはなく、普通の旅館の和室に4人ばかりの相部屋でしたね。
今の、受験に親がついてくる時代からすれば、見ず知らずの受験生が相部屋で雑魚寝っていうのは、「ありえな~い」でしょうが、なにぶん大学の入学試験というものは、この時が最初で最後の一回こっきりだったので、「これが普通なんだ」と思っていました。
その4人のうち一人とは、入学後、城内で再会することができ、合格を祝いあったものです。「入学後」と言ったけど、当時はまだ入学式は城内の体育館でしていました。していたのですが、小生、入学式は出ていません。その時間帯は、町の加登長でカレーライスを食っていました。
入学当初はひと月4万円で生きてゆこうと真剣に考えていました。この先どうなるんだろうと不安感の方が大きかったです。なので青雲の志云々なんてもんではなく、旧制高校の寮歌よろしく、なんかもの悲しい感じでした。そのせいかどうかわわかりませんが、「北の都に」より、短調の「南下軍の歌」の方が好きです。今も。
森繁久彌の南下軍の歌
0:47からの昭和40年頃の金沢の街並みを
背景に吟じる森繁節が、泣ける。
花は御室か嵐山
人三春の行楽に
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翌年から晴れて金大生となりました。石引に住んでいたので石引通りの飲食店が主な行先でした。第七ギョウザには週一は必ずお世話になりました。
その後、時々は金沢に来ています。家族を連れて、城内キャンパス(その時はすでに公園になっていましたが)を案内したときは本当にうれしかったです。ただ、石引通りをはじめ、寂れたり、様変わりしており、少しさびしさもあります。金沢駅も昔の駅から夜行列車で帰省する時のあの風情も忘れられず、懐かしいです。
また、ブログを楽しみに拝見させていただきます。
(一方的な自分語りでスミマセンでした)
卒業して、金沢を離れた人も残った人も、金大時代って、いつまでも心の中で、輝いていますよね。
ぼくも、今もたまに城内に行きます。そうすると“思い出”と言う奴が「元気にしてるか?」と声をかけてくれます。
「自分語り」超大歓迎ですよ~。また来てくださいね。
ニュースでは連日、北陸の大雪の報道がありますが、いかがでしょうか?
金沢大時代、当初は長町に住んでいました。当時は県立体育館横の急坂を登って通学していました。雪の日に何度も遭難しそうになりました。でも「登城」感がありました。(今はその坂は通れないようですが)
今後もよろしくお願いします。