「本日のシュール」と「私ではない誰か」について。
「シュルレアリスムなのではないか?」と思われるかもしれませんが、無意識ではなく、意識して描いています。仮に無意識があったとしても、それを意識化できるまであたためています。
作品の投稿頻度が多いですが、オートマティスムではなく、描く前の段階で制作意図を何時間かあたためて決めた後に、自動記述的ではなく、いっていの意図した規律に基づいて描いています。
厳密な意味での「シュール」ではないかもしれませんが、「事実確認を問われるような現実を描いているのではない」程度に受け取って頂けるとありがたいです。
「私ではない誰か」は、似顔絵をアートしようとしている方からはお叱りを受けるかもしれませんが、似顔絵でもない、自画像でもない、と「…ではない」を突き詰めて、その残った像を絵にしようとしているシリーズです。
ですので、一見無意識で描いているようにも思えますが、「比喩としての像」以外を意識化して描いています。
結論から描く方法ではなく、描いていく過程のなかで「何か(人物画ですが)」へ向かっていくので、自分でも何を描くのかは「分かっていない」です。
自由ではない、面白味のない不自由な絵かもしれませんが、私は組織に属していないので、なんでもありの絵になってしまう危険性があり、そうならないためにも自身で規律をつくって描いています。
「シュルレアリスムなのではないか?」と思われるかもしれませんが、無意識ではなく、意識して描いています。仮に無意識があったとしても、それを意識化できるまであたためています。
作品の投稿頻度が多いですが、オートマティスムではなく、描く前の段階で制作意図を何時間かあたためて決めた後に、自動記述的ではなく、いっていの意図した規律に基づいて描いています。
厳密な意味での「シュール」ではないかもしれませんが、「事実確認を問われるような現実を描いているのではない」程度に受け取って頂けるとありがたいです。
「私ではない誰か」は、似顔絵をアートしようとしている方からはお叱りを受けるかもしれませんが、似顔絵でもない、自画像でもない、と「…ではない」を突き詰めて、その残った像を絵にしようとしているシリーズです。
ですので、一見無意識で描いているようにも思えますが、「比喩としての像」以外を意識化して描いています。
結論から描く方法ではなく、描いていく過程のなかで「何か(人物画ですが)」へ向かっていくので、自分でも何を描くのかは「分かっていない」です。
自由ではない、面白味のない不自由な絵かもしれませんが、私は組織に属していないので、なんでもありの絵になってしまう危険性があり、そうならないためにも自身で規律をつくって描いています。