紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

2008年に聴いたコンサート(3)

2009-03-12 00:32:39 | 音楽・コンサート評

さて何といっても昨年聴いたコンサートのメインはベルリン・フィルの来日公演である。ベルリン・フィルを生で聴くのは、カラヤン時代の来日公演以来なので、実に24年ぶりだった。間にクラシックをほとんど聞かなかった時期があったせいもあり、それだけ空いてしまった。ベルリン・フィルはカラヤン時代も今も世界最高のオーケストラという呼び声が高く、非常に高価なチケットもほとんど即日完売である。ウィーン・フィルのように毎年来日せず、今回も3年ぶりだったということもあるし、関西で2公演するのも珍しいので、贅沢だとは思ったが関西初日の1129日(於 シンフォニーホール)と30日(於 兵庫県立芸術文化センター)の両方に行ってみた。

 まずシンフォニー・ホールでの曲目は、ハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」(独唱 マグダレア・コジェナー)、そしてベートーヴェンの交響曲第6番「田園」である。現在の音楽監督は、サー・サイモン・ラトル53歳のイギリス人指揮者である。クラシックを聴き始めた中学生のころ、ラトルといえばカーリーヘアの若者というイメージだったが、今は大分貫禄が出てきた。ベルリン・フィルという伝統のオーケストラで、ジャズを演奏したり、現代音楽の曲目を増やしたりとレポートリーを広げる一方で、バロックなどの古楽にも造詣が深い才人指揮者である。ただ才人が聴衆を満足させるとは限らないので、カラヤン的な絢爛豪華でかつ分厚いサウンドを求めるファンには批判されることも少なくない。カラヤン自身もある意味でフルトヴェングラーの「亡霊」との戦いを強いられたから、それが名門ベルリン・フィルの音楽監督の宿命なのかもしれない。

今回のハイドンは、ラトルらしい選曲かつ演奏で、小規模で風通しの良い演奏だったが、室内楽を聴いた気分で、やはりせっかくベルリン・フィルだからフルオーケストラを聴きたいという気持ちは押さえられなかった。続くマーラーは、チェコ出身のメゾ・ソプラノ、コジェナーのホール全体に響き渡る中低音が素晴らしかった。物憂げなマーラーの旋律をラトルは絶妙に伴奏していった。後半は、ベートーヴェンの『田園』で、やや聞き飽きた感もあって私の場合は、普段はあまり聞かない曲だ。往年のブルーノ・ワルターやカール・ベームのよる定番のCDを聴き返してももはや何の発見もないので、むしろ奇抜な演奏を聴きたい。ラトルへの期待もそこにあった。しかしラトルの演奏は、「都市部の近郊の郊外を早歩きで散歩するようだ」と評されたカラヤンの『田園』よりも、むしろワルター&ベーム的な落ち着いたテンポの伝統的演奏で、かつ随所に瑞々しい響きを引き出していて、とても良かった。伝統的なベルリン・フィルを期待する日本人聴衆も満足したことと思う。東洋人女性がトロンボーンを吹いているので、そんなメンバーがいたかと思い調べてみたら、清水真弓さんというベルリン・フィルアカデミーの学生さんがサポートで入っていたようだった。

関西2日目は、兵庫芸術文化センターで、この日の席は3階席だった。3階席でも「S席」として売れるのはベルリン・フィルくらいだと思うが、芸文センターは3階からでもステージがよく見える作りになっていた。ただ音は下から上がってくる感じになってしまい、「風呂場」のような余計な残響が聞こえてしまうのが難点だ。この点は音響のいいシンフォニーホールに聞き劣りがする。初日の公演で残念だったのは、日本人コンサート・マスターである安永徹を初め、テレビで知っているベルリン・フィルの顔ぶれがほとんど見当たらなかったことだ。しかし2日目の公演では、安永はもちろん、清水直子(ヴィオラ首席)、エマニュエル・パユ(フルート首席)、ラデック・バボラック(ホルン首席)、サラ・ウィリス(ホルン)など、中継やDVDで知っている顔ぶれを見つけることができて、ミーハーな言い方だが、初日と違って「本物の」ベルリン・フィルを聴いている気になった。

曲目は、ベルリン・フィルの日本公演の定番、ブラームス「交響曲第1番」と「交響曲第2番」である。24年前に聞いたカラヤンのコンサートもブラームスの交響曲第1番だったから、その意味では感慨深かった。シンフォニーホールでは、ハイドンやマーラーの、ある意味でフルオーケストラ全開で演奏しない曲目が中心だったので欲求不満が残ったが、この日のラトルは、最初から全力投球でブラームスの分厚い響きをベルリン・フィルから引き出した。フルートのパユのようにベルリン・フィルのメンバーはそれぞれがソリストとして活躍できる技能を持ち合わせているから、まさに「多様性の中の統一」を地で行くオーケストラで、ラトルは激しく盛り上げるところは盛り上げ、各楽器のソロを引きたてる場面ではうまく引き立てていく。ウィーン・フィルの時に感じた不満とは違って、ベルリン・フィルは日本公演でも持てる力を全て出して、最高の演奏力をもつ集団であることを実証したと思う。その印象は、ブラームスの1番でも2番でも変わらなかった。2番は5月に聞いたフランクフルト放送交響楽団も名演だったが、ベルリン・フィルの演奏は、大きな室内楽とでもいうべき各奏者の個性を生かしたブラームスになっていた点が良かったと思う。

年末最後に聞いたコンサートは、1225日の「レニングラード国立歌劇場管弦楽団」の公演(於 シンフォニーホール)で、曲目は、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ ウラジミル・ミシュク)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番(「革命」)だった。このコンサートはあらゆる意味で「反則」の連続だった。まず「レニングラード国立歌劇場」というのが、日本公演向きの名称で、本当の名前はミハイロフスキー・オペラ・バレエ劇場だが、往年のファンには前述のムラヴィンスキーの威光があり、レニングラード亡き今も「レニングラード」の名称を使い続けている。またピアノ協奏曲のソリストのミシュクの演奏がお粗末だった。1990年チャイコフスキーコンクール2位と書いているのが疑わしいほどで、難しい箇所になるとすぐにテンポを落とすので、バックのオーケストラの方が、ちょうどNHKのど自慢で、お年寄りが歌う時にバックバンドが伴奏を遅くしたり早くしたり歌に合わせるように、苦労しながらピアノに合わせていた。5月のグリモーのミスタッチなどは可愛いもので、この「皇帝」は難しい曲なのだなと改めて実感した。最も「反則」だと思ったのは、ショスタコーヴィチでこの曲の演奏時には3-4割日本人のサポートメンバーを増員していた。いわば半分くらいは日本の別のオーケストラ団員が演奏していた感じである。それで来日公演といえるのだろうか?演奏自体は水準以上で、大音響で心おきなく激しい演奏をするという意味ではストレス解消になるものだった。カレル・ドゥルガリヤンというアルメニア出身の指揮者はよく頑張って、謎の「混成」オケを指揮していたと思うし、メンバー表によるとアレクサンダー・キムという東洋系のティンパニー奏者はセンターでなかなか存在感がある、いい音を出していた。7月に聞いたルツェルン交響楽団と比べると割高な気がした演奏会で、バレエにしてもオペラにしても自称「レニングラード国立歌劇場」は避けた方がいいと思った。最後は締まらなかったが、ウィーン・フィル、サンクトペテルブルク・フィル、そしてベルリン・フィルと今秋は世界のトップ・オーケストラを堪能できて、また読売日響のような日本でも実力のあるオーケストラの演奏も楽しめて、良かった。(写真はベルリン・フィル)。


2008年に聴いたコンサート(2)

2009-03-12 00:28:04 | 音楽・コンサート評

2008年後半に聞いた最初のコンサートは、9月15日のリッカルド・ムーティ指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団大阪公演(於 フェスティバル・ホール)だった。ウィーン・フィルを生で聴くのは実は今回が初めてで、毎年元日にテレビでニューイヤー・コンサートの中継を見たり、中学生のころから数知れないLPやCDで聞いてきたオーケストラを生で聴けるのは感慨深かった。イタリア出身の67歳のムーティは、ズービン・メータやダニエル・バレンボイム、小澤征爾などと同世代で、ニューイヤ―コンサートも4回指揮し、ウィーン・フィルとの来日も今回で4回目と関係が親密である。この世代の指揮者は、現在のクラシック演奏の主流となりつつあるピリオド奏法(作曲された時代の楽器や奏法をなるべく忠実に再現しようとする奏法)を採用することなく、20世紀前半までのように現代楽器を使いながら、大人数でベートーヴェンやモーツァルト、さらにはバッハやハイドンといった古典派を演奏するのが特徴的だ。個人的には今まであまりピンとくる指揮者ではなかったが、今回は、ヴェルディの珍しい曲目とチャイコフスキーをウィーン・フィルで聴きたいということもあって行ってみた。

ステージの右端の最前列の席だったので至近距離でムーティの指揮やウィーン・フィルの演奏を聴くことができた。一番印象的だったのは、日本人にもおなじみのコンサート・マスターのライナー・キュッヒルのヴァイオリンの音色がまるでソリストのようにはっきり聞き取れたことだった。ムーティの指揮は、楽団員の自発性を尊重しているようで、細かい指示はあまり出さず、振らない時もあったりしながら、要所要所は締めて、盛り上げるというような余裕を感じさせた。 曲目は、前半はヴェルディの『ジョヴァンナ・ダルコ』序曲、『シチリア島の夕べの祈り』からバレエ音楽「四季」で、どちらもムーティは録音しているが他にはCDはほとんどない珍しい演目で、もちろん今回初めて聞いた。前者はジャンヌ・ダルクを、後者は1282年のフランス人支配者によるシチリア島民の虐殺を描いたオペラということでテーマとしては悲劇的な史実を含んでいるようだが、音楽的にはムーティ得意のイタリア・オペラで、ウィーン・フィルの柔らかく優美な響きがマッチしてよかった。前半を聞く限りはさすがに世界トップレベルのオーケストラだと感心した。

後半は慣れ親しんだチャイコフスキーの交響曲第5番で、こちらは率直に言って、最高の出来とは言えなかった。金管でミスも少なくなかったし、ウィーン・フィルの特徴といえば特徴だが、エッジが甘いというか、ソフトフォーカスというか、もともとチャイコフスキーのムード音楽的なところがウィーン・フィルの緩い演奏で悪い意味で強調されてしまった感があった。アンコールは、ムーティが2000年のニューイヤー・コンサートで取り上げたヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「マリアの思い出」で、これも珍しい演目で、最後にウィーン・フィルによるウィンナー・ワルツを聞けて、聴衆一同大満足だった。

 9月21日は、東京芸術劇場で読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はポーランド出身のスタニスラフ・スクロヴァチェススキーで85歳と高齢ながら、テンポの速く、スマートな演奏で人気の巨匠である。彼のベートーヴェン交響曲全集やブルックナーの全集は、カラヤンとはまた違うが同様に現代的でスマートな魅力あるセットだ。今回の演目は、前半が、ブラームスのピアノ協奏曲第1番(ピアノ ジョン・キムラ・パーカー)、後半がブルックナーの交響曲第0番だった。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、ブラームスが25歳の時の作品で、クララ・シューマンとの恋愛やその夫で恩師のロベルト・シューマンの死、自分自身の作曲家としての将来に悩んでいた時期の作品で、ブラームスとしては情熱的で若々しい、制御しがたい感情をストレートに表現したものである。ブラームスの曲ではあるが、ある種、ロック的な要素を含んだ名曲で、若いクラシック・ファンにも人気がある曲だと思う。今回のピアニストのパーカーは、49歳の日系カナダ人でジュリアード音楽院出身。まさに肖像画のブラームスを連想させる髭と堂々たる風貌で、とても男性的な迫力のあるピアノを聞かせてくれた。もともと「ピアノ付き交響曲」と評されるように、オーケストラの部分が伴奏ではなく、主役級の扱いになっており、その一方でピアノにも高度な技巧とパワーが求められる曲なので、コンサートで聴く機会はそれほど多くないが、パーカーのパワフルで情熱的な演奏は、この曲に求められる諸条件を全てクリアしていた。

後半のブルックナーの交響曲第0番は、単一楽章でも20分を超えるような長い交響曲ばかり書いたブルックナーとしては短い、全体で45分程度の習作で、ベートーヴェンの第9番の影響を強く感じさせる点では、ブラームスの第1番に似たところもある。敬虔なカトリックのオルガン奏者だったブルックナーについて、日本の音楽評論家は何かと「神への祈りが…」、「森での逍遥を連想させる云々」といった、ある種のステレオタイプ的な方向性から演奏の良しあしを論じがちである。しかしブルックナーはもともとはドラマティックなワーグナーの影響を強く受け、現代的な管弦楽法を用いて、華やかな演奏効果を持つ部分も多い。スクロヴァチェフスキーの演奏はむしろ「都会派」の演奏とでもいうべきで、素直にオーケストラの技術の高さとブルックナーの管弦楽としての面白さをテンポよく表現するものだった。読売日響も練習やリハーサルを念入りに行ったことが推測されるような安定した、実にプロフェッショナルなアンサンブルを保っていて、安心して聴けた。

10月に聞く予定だったアイスランド交響楽団は、珍しいアイスランドのオーケストラを聴けるのを楽しみにしていたところ、金融危機によるアイスランドの銀行口座の凍結という事態で来日中止となった。シンフォニーホールに払い戻しに行ったついでにまだ良い席が残っていたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団のチケットを買った。今回、聞いたのは11月2日の公演で、チャイコフスキーの交響曲第4番と第5番というチャイコフスキー・チクルスの一環だった。サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団は、往年のクラシック・ファンにはソ連のレニングラード・フィルとして名高かったオーケストラの後継楽団である。ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルは、鉄壁のアンサンブルと重厚なブラス・セクションで鳴らしたオーケストラで日本にも何度か来日し、おそらくはまだソ連信仰が健在だった1960-70年代には半ば神格化された存在だったようだ。残っている録音はソ連録音が多いため、音の状態も貧しく、生で接した人しかおそらくは真の姿は知ることはできないが、DVDやCDでも十分、その「凄さ」を理解できる面もある。チャイコフスキーやショスタコーヴィチといった専門のレパートリーはもちろん、ベートーヴェンやブラームスといったドイツものでも、贅肉をそぎ落とした、ストイックで鋭角的な演奏が魅力的だ。

現在の音楽監督は、70歳のコーカサス生まれのロシア人指揮者ユーリ・テミルカーノフでレニングラード音楽院出身、ムラヴィンスキーの正統な後継者だが、前任者が偉大すぎたことや、ちょうどソ連崩壊の混乱期にオーケストラを率いなければならなかったことで、「レニングラード・フィルを西欧化させて、『普通』のオケにしてしまった」などと批判されることも少なくないようだ。 今回、実際に演奏に触れてみるとそんな先入観は一気に吹っ飛んでしまった。ソ連のプロパガンダを背負った、ムラヴィンスキーは「西欧人指揮者による軟弱で、センチメンタルなチャイコフスキー演奏をいかに否定するか」を自分のアイデンティティとしていたようだが、テミルカーノフにそんな力みはない。しかし9月に聞いたムーティ&ウィーン・フィルには絶対に出せない、ロシアの「大地の歌」とでもいうべき、地響きのようなブラスや低弦を聞かせてくれた。「本場の演奏」という形容は安直で嫌いなのだが、まさに「ロシアのチャイコフスキー」としか言いようがない交響曲第4番と第5番を堪能できた。いいオーケストラの場合でも本番では、弦セクションはいいけど、金管がいま一つといったことや、反対に金管は上手いが、コンサートマスターなどの弦のソロがよくない、という風にバランスを欠く場合がむしろ多いが、どちらも不満なく、調和が取れていた点も往年のレニングラード・フィルに引けを取らない水準にテミルカーノフが鍛えていることがよく伺われた。アンコールは予想に反して、なぜかエルガーの「愛のあいさつ」、さらに定番のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からトレパックをやってくれた。席はところどころ空席も目立ったが、最後は聴衆が一体となって盛り上がった。(写真はテミルカーノフ)