紅旗征戎

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取れる責任、取れない責任-柄谷行人『倫理21』を読んで

2007-08-31 19:04:50 | 思想・哲学・文明論
昨今、「責任」という言葉がなにかとクローズアップされている。3年前にイラクで日本人が人質になった時、「自己責任」という言葉が話題になった。現在、アフガニスタンでタリバン勢力に拘束されている韓国人宣教師たちにもついても似たような議論が韓国内で行なわれているようである。「アカウンタビリティ」という専門用語が「説明責任」と訳され、メディアを通じて、一般に広まった。そんな世の中の動きを反映してか、今年、卒論を指導している学生のうち、二人が、これも近年の流行語である「企業の社会的責任(CSR)」をテーマとして取り上げている。「責任」とは、いったい何を意味するのか、どこまでが「責任」の範囲なのか、自ずと考えさせられる機会が増えてきた。

政治学を少しでも学んだことのある人間にとって、「責任」をめぐる有名な議論は、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』(1919年)に出てくる、「責任倫理」と「心情倫理」の話である。ヴェーバーは、政治家は、「結果に対する責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間である」べきだとして、目的による手段の正当化に陥りがちな心情倫理の問題点に目を向けさせた。小学校以来、さんざん聞かされてきた、「悪気はなかったから」、「一生懸命やったんだから」といったような典型的な「心情倫理」的な正当化を一刀両断にする、ヴェーバーの議論は大学生の時に読んで、新鮮だった。

一方、法律用語としての「責任」は、例えば英米法では、責任(liability)は、「あることをなし、またなさないことを法的に義務付けられている状態」(田中英夫編『英米法辞典』東大出版会、p.515)と定義されており、一般に「責任」に当たる英語として考えられるresponsibilityは、「責任能力などliabilityの根拠となる事由が存在することを指す」(同書、p,727)となっている。つまり一般に「責任感が強い」といった場合は、ともすると何でも引き受け、何でも口出すような人の意欲の旺盛さを指すこともあるのだが、法律用語としての「責任」は、法的「義務」の有無とそれを遂行する「能力」の有無を問うことで、責任の所在や範囲を明確にしようとしている。

しかし日常用語としての「責任」は、心情倫理と責任倫理を峻別しようとしたヴェーバーとは違い、むしろ「罪悪感」や「後悔」といった心情の部分にまで踏み込んで、無原則に拡大されて使われている。歴史や戦争責任をめぐる議論にもその傾向が顕著に見られる。法的議論では回収しきれない「責任」論をどう捉えたらいいか、考える一つの材料を提供してくれたのが、柄谷行人氏の『倫理21』(平凡社ライブラリー、2003年)である。

柄谷氏の「責任」についての講演をまとめた本書の議論は、犯罪者の親の「責任」から天皇の戦争責任、生者の死者に対する責任まで、多岐に渡っており、全体を通じて、必ずしも一つの明確な方向性を示すには至っていないが、考える論点をわかりやすく提示しているので、それらを紹介しながら、考えてゆきたい。

柄谷氏は、道徳と倫理という言葉を区別し、前者を共同体的規範の意味でもちいて、倫理を「自由であることを要請する義務」という意味で使っている。柄谷氏の用語法はカントに従っており、柄谷氏が述べているように道徳を主観的なものとし、倫理を習俗規範としたヘーゲルと正反対の用語法になっている。

英米系の功利主義の哲学では、幸福(快)の実現を善と捉え、「最大多数の最大幸福」を実現することを目指し、共同体が個人の幸福の実現に干渉するようなことはできるだけ避けるべきだと考えられている。それが今日の資本主義社会を支える基本原理になっていることも確かだが、個人が自分の幸福を追求するといっても、その幸福なり利益なりは、個人の心の中から自発的にできてきたものというよりも、多くの場合、他者が欲するから自分も欲するというものに過ぎない。また他人に迷惑をかけない限り、法に触れない限り、何をやってもいいというエゴイズムに陥りがちであるし、自分の幸福のために他者を「手段」として扱うという問題も生じる。自律的な倫理を重視したカントはこうした功利主義を批判すると同時に、伝統的な共同体的な規範についても「他律的」であるとして批判している。

共同体的規範の問題点は、例えば会社という「共同体」が不正を働いていた場合に、一会社員としては組織防衛上、それを隠蔽することを求められたりするが、社会全体にとっては正しいことにならない。それは「共同体」の単位を国まで広げても同じことである。カントは、共同体的規範が世界市民的なレベルで共有できる場合にのみ「倫理」として肯定できるとしている。その倫理とは、「自由であれ」という至上命令であると柄谷氏はまとめている。

柄谷氏はまたニュルンベルク裁判の際にドイツの哲学者カール・ヤスパースが展開した罪責論を引用し、戦争犯罪を、刑事上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪の4つの見方でとらえることを紹介している。罪を「責任」と言い換えれば責任論になるが、戦争責任は国際法の問題として決着をつけるしかなく、国際法は、実際にはどこかの強国の「暴力」によってしか実現されず、強国の利害に従属してしまいがちで、例えば帝国主義そのものは当時の国際法的には「違法」ではなかったので、国際法だけでは、二つの世界大戦のより根本的な原因であり、罪でもある帝国主義の責任を問えないことになってしまう。したがって責任論は上に挙げた4つの位相のうちで、最後の形而上的な責任のレベルで考える必要が常に出てくることになる。

柄谷氏が繰り返し強調しているのは、カントの「他者を手段としてのみならず、目的として扱え」というテーゼである。このテーゼを現代の世界に当てはめれば、他者を手段にし、発展途上国を手段にし、低賃金労働者を手段にし、また地球環境を手段として破壊して、増大している現代のグローバル経済が「倫理的」要請に反しており、それをどう考えるかがまさに責任論ということになってくる。柄谷氏はマルクス主義の立場から最後は、資本制からコミュニズムへの発展は歴史的必然からではなく、「自由であれ」、「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という倫理的な義務からのみ生じる、とまとめているので、結局、カントとマルクスへ帰れということになってしまうのか、とその点は大いに引っかかるのだが、個人、共同体、そしてより普遍的な規範の三者の関係を、現在生きている人間だけでなく、死者やこれから生まれてくる新しい世代も視野に入れて議論している点が説得的で、考えさせられることが多かった。

柄谷氏はヤスパースの4類型で言えば、責任を現実世界でまず決着させるためには刑事上の責任、言い換えれば法的責任のレベルで決着せざるを得ないが、責任を考える上では最後の形而上的責任のレベルまで考えなければならないということで、その中で一番大切なのは、「他者を手段として扱ってはいないか?」「他者の自由を尊重しているのか?」ということに敏感に配慮することになるのだろう。

哲学者の議論として説得的であったが、同時にやはり結局、法的責任以外は問うことはできないし、法的責任が問われない限り、何もやってもいいという功利主義的な道徳観がはびこっている日本や世界の現状を大きく変えることができないだろうと思わざるを得なかったのも正直なところである。哲学者の議論であるだけに、現実世界でどう実践していくかについての処方箋が乏しいのはやむを得ないかもしれない。

しかし企業が最近よく使い出した「コンプライアンス(法令遵守)」や「企業の社会的責任(CSR)」という概念は、狭義の刑事的責任を超え、例えば地球環境問題への対応やグローバル資本主義の弊害に対する修正など、柄谷氏がいうような形而上の責任を含む広がりを持ち始めているだろう。個々人の「責任」と「責任」がどのようにぶつかりあい、それが社会全体、世界全体でどのような関係になっているのかを根源的に考えさせられる点で、わずか200ページの本だが、示唆的な本だった。