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町名0001  平安京の官庁街の名称と一致する町名

2019年06月24日 21時57分52秒 | 町名

 

昔・平安京の内裏の近くにある町名 二条城 付近に集まっている

 

中京区西ノ京式部町  町名0003  式部町  南式部町  中京区

平安宮015 平安宮 式部省跡

 

中京区式部町  昔の内裏から離れています

            和泉式部の寺 和泉式部 誠心院 真言宗泉涌寺派 に近いからついた町名かな

 

中京区西ノ京左馬寮町   町名0004  左馬寮町  


西ノ京右馬寮町    町名0005 右馬寮町



中京区西ノ京職司町   町名0002    職司町   中京区


上京区中務町     町名0006  中務町  



上京区主税町   町名0007  主税町


上京区西院町   町名0008 西院町


上京区正親町



関連記事 ⇒   平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

 

 

 


道標八幡0234 谷不動堂道

2019年06月24日 17時35分14秒 | 道標

 

 

宝暦4甲 戌7年吉日

道標 前回の記事 ⇒ 道標八幡0233 茶臼山古墳跡 三宅石碑

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祠八幡049 弁財天 

2019年06月24日 06時54分10秒 | 町内の小さな祠

 

 

 

 

祠 前回の記事 ⇒ 祠八幡048 金刀比羅

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道標八幡0233 茶臼山古墳跡 三宅石碑

2019年06月23日 09時09分29秒 | 道標

 

 

 

茶臼山古墳跡 右 足立寺 五丁

       左 南岩倉 三丁

 

茶臼山古墳

 

八幡市内で最も古い古墳です。大正4年(1915)に調査が行われた。当初は直径18m、高さ4.5mの円墳で、墳丘の上には埴輪が二重に巡らされ、葺石はなかったと報告されている。墳頂部には形象埴輪などがあった。頂上部には板状の石を積み上げて作った長さ4.3m、幅1.451.95m、高さ1.2mの竪穴式石室があり、その中に大きな石を刳り抜いて作られた舟形の石棺が収められていた。石室の上は4枚の板石でおおわれていた。発見当時すでに盗掘され、副葬品は散乱していたが、石釧2個、刀身2口、鉄鏃数個、金薄片1枚が残っていた。4世紀中ごろから5世紀の初頭にかけてのものである。南山城では椿井大塚山古墳に次ぐ最も古い古墳の1つ。


 

昭和二年十月 京都 三宅安兵衛依遺志建之

 

道標 前回の記事 ⇒ 道標八幡0232 豊蔵坊信海墓  三宅石碑

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

                    まとめ0029  古墳

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道標八幡0232 豊蔵坊信海墓  三宅石碑

2019年06月22日 18時21分13秒 | 道標

 

 

 

豊蔵坊信海墓

 

昭和二年十月 京都 三宅安兵衛依遺志建之

 

道標 前回の記事 ⇒ 道標八幡0231 和気清麻呂公旧跡 足立寺古跡  三宅石碑

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史跡八幡046 西山廃寺(足立寺跡) 三重塔

2019年06月22日 07時28分21秒 | 遺跡・遺物

 

 

西山廃寺(足立寺) 中世建物跡

西山廃寺(足立寺・そくりゅうじ)が建てられた当時の建物は、どのように並んでいたかはよくわからないが、三重塔の東側に残っていたこの建物は、一辺10mの基壇の上に、8.5m四方(3間×3)で、北側中央の間には階段がとりついていたらしく、南北朝時代の檜皮葺(ひわだぶき)のお堂である。元の寺とどのような関連があるのかよくわからないが、この建物の一層下には、奈良時代の礎石や、瓦が埋まっていたから、元の建物がこわれてからそのあとへ新しくこのお堂がたてらなおされたものと考えられる。

 

 

西山廃寺(足立寺)三重塔跡

江戸時代に作られた『山州名跡誌』などの記録によれば、石清水八幡宮の西南方の山中に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)をまつる寺と、和気清磨(わけのきよまろ)をまつる神社があったといい、この寺は、奈良時代に和気清磨が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の命で、九州の宇佐八幡宮へ行き、道鏡を追放せよという神託をそのまま報告したため、両足を切られて流刑にされたが、八幡宮の助けで両足が元通りになったので足立寺(そくりゅうじ)という寺を建てたと伝えられてきた。

 

このあたりに古代寺院跡があることは早くから知られていたが、造成開発のため、昭和43年から48年にかけて何度か発掘調査を行った。元の位置はここから西南50mの所で、海抜35mから60mの急な傾斜面を削って東に堂、西に塔が建てられていたが、遺構はすべて役3mの厚い砂の下に埋まっていた。

塔は一辺10mの基壇の上に、5.2m四方(3間×3)の大きさで、周りの礎石はほぼ原形をとどめており、大きさからみて高さ25mぐらいの三重塔であろう。中央の三角形の巨大に石は、塔の心柱を支える塔心礎(とうしんそ)で、直径36cmの枘穴(ほぞあな)があり、北側に突出した小さいくぼみは舎利孔(しゃりこう)である。こうした形式の心礎は全国で唯一の珍しいもので、貴重な文化財である。

ここから出土したものは、奈良時代前期(白鳳時代8世紀中ごろ)から、平安時代後期(12世紀)までの瓦で、大部分は奈良時代末から平安初期のもので、塼仏(せんぶつ)、二彩壺(にさいつぼ)なども出土している。

出土品からみて、この寺は和気清磨よりも100年も古いころにこの地方の豪族によって建立され、平安時代の終わり頃土砂の下に埋まったことがわかる。

 

 

 

奈良時代の瓦窯(半地下式平窯)

西山廃寺が作られた頃には、この周辺に瓦や土器を焼いた窯が築かれていたが、この窯は、そのうちもっともよく残っていた瓦窯を復元したものである。

手前の舟底形の部分は燃料をもやす所(燃料部)で、たき口には2つの石をたててせばめている。奥の一段高い所が焼成部で、燃焼部との間は窓のついた障壁で区分されている。床には7本のロストルがあって、製品をこの上にのせて、燃焼部からくる炎はロストルの間の煙道を通って奥壁の下にある3つの煙突から外へでていくようになっている。三方の壁には古い瓦を小口積みにしてさし込み、天井は焼きあがった瓦を取り出すときに、こわしたままになっていた。瓦を焼くときは、ロストルにまたがるように瓦を立てて並べ、一時に400枚ぐらいを約一週間かかって焼き上げた。そのうち約20%が不良品になったと思われる。この寺には全体で数万枚の屋根瓦が使われていたと推定される。

この窯は、奈良時代末から平安時代の初めにかけてのもので、3本の煙突をもつ構造は全国でも珍しいものである。

 

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡045 小野頼風塚

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神社八幡0179  和気神社

2019年06月21日 17時45分27秒 | 神社

 

 

 

 

 

 

 

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 神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0178 稲荷神社

 

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道標八幡0231 和気清麻呂公旧跡 足立寺古跡  三宅石碑

2019年06月21日 06時44分27秒 | 道標

 

 


和気清麻呂公舊跡 足立寺古跡

 

左 浄瑠璃姫墓 五丁

 

昭和二年十月 京都 三宅安兵衛依遺志建之

 

右 茶臼山 二丁

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

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 道標 前回の記事 ⇒ 道標八幡0230 長柄人柱地蔵尊講田寺  三宅石碑

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神社八幡0178 稲荷神社

2019年06月20日 17時26分16秒 | 神社

 

 

 

 

 

 

 

稲荷神社 

稲荷神社の創建について、詳しいことはわかっていませんが、往古は荒神社・辨天社とあわせて四人山(よんにんざん)の守り神として、この地にお鎮まりになられたもので、古図にも見えていることにより、かなりしっかりしたお社であったようです。

荒神社と辨天社は現在なくなってしまいましたが、この地は、山の上の方にあるために、毎年日照りが続くと米が稔らず、村人がこの地に集まって毎夜雨乞いの祈りをしたのです。その祈願が終わる日の夜、白髪の老人が現れ、「私は御食津神(みけつかみ)と言います。私は食物を支配する神ですから、この地に私を大切にまつれば、百年の間は水に悩まされることはなくなるでしょう」と申され、姿を消してしまわれました。

これを聞いた村人たちは、この白髪の神の申されたとおりに、祠を作り、稲のなる社として「稲荷神社」と名付け、この地の氏神として大切にまつり、現在に至っているのです。

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0177 猿田彦神社

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寺院八幡0594 講田寺 曹洞宗  油かけ地蔵

2019年06月20日 06時00分50秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0593 感応寺  法華宗・真門流  標石に本祥寺

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地蔵尊057

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道標八幡0230 長柄人柱地蔵尊講田寺  三宅石碑

2019年06月19日 17時12分11秒 | 道標

 

 

長柄人柱地蔵尊講田寺

北 橋本 八町

昭和3年春 京都三宅安兵衛依遺志建之

南 楠葉 十三町

 

 

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

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道標八幡0229 南岩倉  三宅石碑

2019年06月19日 05時56分09秒 | 道標

 

 

 

南岩倉  右 加法經塚 五丁

     左 橋本 三丁

 

昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之

 

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

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神社八幡0177 猿田彦神社

2019年06月18日 17時40分32秒 | 神社

 

 

 

 安永元年 (1772年)     徳川将軍 10代家治13年目

 

猿田彦神社の由来

猿田彦神社には猿田彦命が祀られている。八幡大神が男山に登られる際に山崎の地にて一夜御休憩された。翌朝山崎を出発され、猿田彦神がお伴をして大神を男山の峰にご案内申し上げた。その出迎え場所が現在の猿田彦神社であり、そこに猿田彦神を祀る神社が建設された。その後、平野山の守り神として今日に至っている。境内の森には二カ所の大きな宮があり、これを「夫婦岩」「岩倉」と称している。

岩倉とは、神が降臨される神聖な所である。

猿田彦神社は、家内安全・夫婦円満・交通安全の神様として常に多くの方々がお参りされている。

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 神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0176 狩尾神社  本殿・重要文化財  紀元2600年碑

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神社八幡0176 狩尾神社  本殿・重要文化財  紀元2600年碑

2019年06月18日 05時58分27秒 | 神社

 

 

 怖いくらい 急な階段

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石清水八幡宮 摂社 狩尾神社 本殿 重要文化財  慶長6年 (1601年)

 

 神社境内からの眺め

 

 紀元2600年の鳥居

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0175 飛行神社 

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       京都府の重要文化財・国宝 建物

       まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額 

 

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道標八幡0228 湯澤山茶久蓮寺跡  三宅石碑

2019年06月17日 17時46分28秒 | 道標

 

 

京阪電車 橋本駅 

橋本渡舟場三丁 山崎停車所 十丁  長岡一里

        柳谷観音一里廿丁  粟生一里半

                  善峯二里

昭和二年十月 京都三宅安兵衛依遺志建之

京大坂街道  右 八幡御幸橋八丁

       左 楠葉 八丁

       南 志水近道 廿丁

 

 

湯澤山茶久蓮寺跡

 

豊臣秀吉と八幡

 

山崎の合戦に勝利した秀吉は、天王山に城を築き1年ほどとどまりました。そして、千利休を呼び寄せ城下に茶室をつくらせ茶を楽しみました。茶を楽しみながら、天下統一の計画をねったのでしょう。茶室「待庵」は、国宝として、JR山崎駅前にある妙喜庵に残されています。

 

 ある時、秀吉は橋本の常徳寺というお寺に立ち寄ってお茶を所望しました。すると、寺の者は「茶人でも名高いお方に下手なお茶をさしあげるわけにはいかない」と悩み、白湯を出しました。何度お茶をたのんでも白湯ばかり出てくるので、秀吉は「湯沢山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)」と名づけたとのことです。「湯沢山茶久蓮寺跡」の石碑は京阪橋本駅前にあります。


前回の道標 記事 ⇒ 道標八幡0227 舊 橋本寺 西遊寺  三宅石碑

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

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