2017年12月の記事
門が新しくなりました
2015年5月の記事
臨済宗 興聖寺派の本山
慶長8年(1603)古田織部正重然が、虚応和尚を開山として創建した臨済宗興聖寺派の本山で、のちには後水尾天皇の勅願所ともなったが、天明の大火に類焼した。現在の本堂はその後の再建で、内部須弥壇上には本尊釈迦如来像、脇壇に藤堂高虎の寄進とつたえる朝鮮達磨像や将軍地蔵坐像(鎌倉時代)を安置し、天井には元禄2年(1689)祖的の筆になる雲竜図が描かれている。また寺宝に絹本著色「兜率天曼荼羅図」は鎌倉時代の弥勒信仰によって作られたもので、兜率天宮の有様が細密に描かれている。江戸中期の画家曽我蕭白が描いた紙本著色「寒山拾得像」を蔵する。なお、境内には古田織部正重然、曽我蕭白の墓がある。
おりべ寺
千利休の七哲の一人、古田織部(1544~1615)が生前に、余生を送るつもりで、慶長8年(1603)に虚応円耳和尚を開山に建てた寺。寺には織部一族の墓が並ぶ、束帯姿の織部の木像のほか、織部百か条、黒茶碗、織部好みの茶室などゆかりのものが数多い。先代住職から織部流の家元を継いでいる。現在18代を数える。
織部は、七哲のうちで最も茶道に通じていなかったといわれるが、利休の死後、にわかに頭角をあらわし、将軍秀忠に茶湯を教えるほどの指導者になった。またたく間に頂点に立ったものの、織部もまた権力争いの狭間で非業の死を遂げてしまう。慶長19年(1614)大阪冬の陣。豊臣方が形成不利となって、織部は子重広とともに徳川方に寝返ったかに見せて徳川方を挟み撃ちにする陰謀を企てたが直前に発覚する。大阪落城とともに伏見の自邸で切腹し、5人の子供たちも父織部に殉じた。一時期を飾った織部流は、一族が九州で伝え継ぎ明治になって関東でも広めた。現在、一門は三百人という。
古田は6月11日、洛外木幡にて自刃、鳥居土佐守成次らが検死し、遺骸は大徳寺玉林院(現三玄院)に葬ったとある。三玄院の方が本墓のようです。なお、興聖寺門前、大応寺の境内には古田織部が勧請したとつたえる織部稲荷神社がある。
珍しい石仏もある
みどり が とてもきれいだ
関連記事 ➡ 大應寺 臨済宗相国寺派
寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0250 称念寺 ねこ寺 称念寺 では 猫は見かけなかった
川柳
できました 老人会の 青年部 /後藤
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車は通れません
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き上0666 こんなところに ガスメーターが・・・
五七五
金殿の灯火細し夜の雪 /子規
ことわざ
良薬口に苦し忠言耳に逆らう
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京都市下京区柿本町679
2017年12月の記事 1月に撮影
2015年5月の記事
寺院 前回の記事 ➡ 寺院下0286 了光院 日蓮宗
川柳
手をつなぐ 昔はデート 今介護 /金山
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仁丹でない 町名看板も たくさん あります
仁丹のは ホーロー焼きで 何年たっても さびにくいので きれいです
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0664 美術館の戸 正月の飾りつけ
五七五
石山の石にたばしるあられかな /芭蕉
ことわざ
類は友を呼ぶ
2017年1月 撮影
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0663 中央市場 賑いは終わりました 今 昼です
五七五
いざ子ども走りありかん玉霰 /芭蕉
ことわざ
蝋燭は身を減らして人を照らす
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京都市下京区柿本町680
2017年12月の記事 1月に撮影
2015年5月の記事
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0285 顕正寺 日蓮宗 天明義民 板屋市右衛門 墓所
川柳
喜寿だけど 恩師の前では 女子高生 /古曽部
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2017年12月の記事 (2017年1月撮影)
2015年4月の記事
都を災いから守るため 風水の考えから 東西南北に 東(青龍) 西(白虎) 南(朱雀) 北(玄武)の4神の霊獣が配置された
さらに、陰陽道の吉兆をつかさどる方位の神として 大将軍が置かれた
東は三条大橋の東の大将軍神社
西は当 大将軍八神社
南は藤森神社内の大将軍神社
北は今宮神社内の大将軍神社
が置かれた
1178年 11月22日 あの賢礼門院(寂光院)は息子の安徳天皇(壇ノ浦の合戦で亡くなる)の安産祈願のため、勅使を当社に派遣されている
応仁の乱(1467~1478)で焼失 1535年再建 1933年 社殿建立
収蔵庫には 木造大将軍神像 79体(平安~鎌倉)が納められている。数では日本一。
明治初年境内の竹藪の洞窟から発見された 現在重要文化財
宝船の版木があります
左・明治39年建立です
大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除守護神として造営されたのが始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。
大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者たちも当社を厚遇したといわれる。
当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「神像」百余体が所蔵されている。このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて80体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。
京都市
手水舎です
本殿前の狛犬です
方位を示しているのだろうか
本殿です
絵馬と扁額です
方徳殿 5月1日~5日 公開日です
大きな灯籠です
ここに、なぜ錨があるのでしょう
大杉大神
車石のようにも見えるのですが
蔵 と
豆吉明神 です
オガタマノキ
と 大きな灯籠 です
左より 大物主神、長者神、菅原道真公神、稲荷社、事大主神 です
倉庫 です
関連記事 ➡ まとめ005 車石 のあるところ
神社 前回記事 ➡ 神社下0035 火除天満宮
五七五
宿かりて名を名乗らする時雨かな /芭蕉
京ことば アカン だめだ。いけない。効果がない。役立たない。「それ食べたらアカン」
2017年12月の記事 2017年1月に撮影
庭園は署員の南面につくられている 枯山水の庭園で、信長の作庭とつたわる。長方形の地割に築山をつくって石組を配し、板状の小石を敷き詰めて、水の流れを抽象的に表現している。
2015年5月の記事
京都市下京区柿本町677
天正4年(1535)日映上人が創建した本圀寺の塔頭の1つで、
天正5年(1536)天文の法難によって焼失したが、永禄3年(1560)頃に再建された。
永禄11年(1568)10月に将軍 足利義昭が入洛の時、
織田信長は当院にて、出迎えたと伝わる。
庭園 枯山水の庭園、織田信長の作庭と伝わる。昭和24年移転した後、
造園家 重森三玲によって復元修理された。
庭内には、義昭の銘と言われる瓜実灯籠、烏帽子石、呼子の手水鉢がある。
関連記事 ➡ 有名人ゆかりの地・織田信長
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0283 栄運院 浄土宗
川柳
老一人 家電ブザーに 返事をし /森下
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2017年12月の記事
島原の大門は、道筋(どうすじ)と呼ばれていた中央の道の東端に位置し、かつては島原の正面でした。
島原は、寛永17年(1640)に六条三筋町から移されたわが国最初の公許遊郭で、四周は堀と塀で囲まれており、門は当初、その東辺北寄りに設けられていました。この門は、享保17年(1732)に西門が開かれるまでは島原の唯一の門で、明和3年(1767)に道筋正面の現在地へ付け替えられました。
当初の門の形態は不明ですが、享保14年の「洛西島原絵図」には、冠木門とその前に柳、道の両側には垣が描かれており、この時すでに門・柳・垣から構成されていたことがわかります。その後何度か建て替えられて、現在は慶応3年(1867)に再建されたものが残っています。『角屋』より
大門は、高麗門形式で東面し、親柱を棟まで立ち上げて柱間を冠木で固め、その上に蟇股を2つ置いて、切妻造、本瓦葺の屋根を載せています。大門の南と北には本瓦葺の袖塀が付き、南袖塀には潜戸が設けられています。北袖塀のもう一方の端からは屋根塀が斜めに延び、その前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて、当時の趣を伝えています。
この大門は、島原の地区を区切っていた門であり、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重です。
2015年9月の記事
むっ この島でなく 嶋を 山と鳥に 上下に分けて書いてある
原の 中 小 でなく 水 になっている 泉だ
昔のあった地の 町名の柳馬場と因んで柳が植えられている
島原
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。
その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子という。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、
中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。京都市
建物 前回の記事 ➡ 建物下007 輪違屋・わちがいや かつて置屋だった
五七五
宿かさぬ火影や雪の家つづき /蕪村
ことわざ
禍独り行かず
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皇紀二千六百年記念
東藥園町
昭和15年11月建立
発起人の名前が 何人か書かれています
前回と関連記事 ➡ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額
五七五
古道と聞かばゆかしき雪の下 /蕪村
ことわざ
破れ鍋に綴じ蓋
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2017年12月の記事 (2017年1月に撮影)
11面観音の御開帳
平成27年4月7日の記事
洛陽33ケ所観音巡礼 第30番札所 11面観音
洛陽48願所地蔵尊 第12番 鋤形地蔵尊
天野屋利兵衛の墓(赤穂浪士の時に活躍)
夜半亭巴人 墓所
豊臣秀吉からの5色八重散椿
キリシタン墓碑
などが有名
右の家では昔 椿餅を売っていたが 今は店を閉めている
平成27年3月30日 撮影
地蔵院(椿寺)
正しくは昆陽山地蔵院という浄土宗の寺で、「椿寺」の愛称で親しまれている。神亀3年(726)に、行基が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりといわれる。その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作のものと伝えられる。地蔵堂背後の板扉はもと北野天満宮にあった多宝塔の遺構とされる。書院の前庭には、北野大茶湯の縁により秀吉から当寺に寄進されたといわれる「五色八重散椿」があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約120年の2世が本堂前に花を咲かせている。薄桃色や白に咲き分ける5色の八重椿で、花ごと落ちず、花びらが1枚ずつ散るのを特徴とする。境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛のものといわれる墓や、与謝蕪村の師にあたる夜半亭巴人の墓などもある。洛陽33所観音霊場の第39番札所である。 京都市
散椿です
中央 上部に鳥がいます 蜜を吸っているのでしょう
豊國大明神 と書いてあります 右は
手水舎
鋤形地蔵尊
世継地蔵尊
地蔵尊の裏にある 地蔵
この右手に天野屋利兵衛の墓がある
キリシタン 墓碑です
観音様です
弁財天、椿大神、鎮守社 です
10月10日 11面観音菩薩 御開帳
たまたま 通りがかったら 御開帳になっていました
平成29年6月8日 画像追加 (撮影日 平成28年11月28日) 駐車場になるのかな
前回の寺院記事 ➡ 寺院右0032 称念寺 浄土宗
五七五
ぼた餅の来べき空なり初時雨 /一茶
京ことば アガル(上がる) 南北の通りを北へ行く 「河原町をアガッて、少し行ったとこ」