清和天皇の第6皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。
その後、260余年を経た承応元年(1222)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて凡刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したといわれる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。
足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に務め、元禄年間には今の六孫王神社
が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。
明治44年(1911)には旧国鉄の用地となり逼塞した。
本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女竜王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚寺置文二巻、阿仏尼真蹟、阿佛塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。
下寺町の本覚寺は、遍照心院内に建立された一宇を移したものとつたえ、今も本覚尼像を安置しているが、その墓については現在不明となっている。
阿仏尼
我が子に歌道家を継がせるためにはどんな苦労もいとわない。自分を捨てた恋人を恨み、当時は女の命といわれた髪を切る程の激情に身を任せる半面、賢くて、しっかりと子供を教育していた。そんな女性だった。
「十六夜日記」の著者として知られる阿仏尼の墓、門内右手にある。
大きな自然石の上に置かれた小五輪石塔である。またその傍に建つ高さ2m余りの円柱状の石碑には、墓の修復について説明が漢文体で書かれている。「北林の阿仏尼の墓は久しく荒れたままになっていたが、寛延2年(1749)冷泉為村卿によって修復された。はじめ木札を以って表記されていたが、銘文の磨滅するのをおそれ、石に刻み写し、宝暦7年(1757)大通寺の衆等によって建立した」云々としるされている。阿仏尼の墓は、はじめ東寺の北、八条町に源実朝夫人本覚尼(遍照心院願主)の墓と共にあった。俗に゛安井塚゛という。寛延2年(1749)歌道家元の冷泉為村が墓の荒廃を歎き、成就院(遍照心院塔頭)の僧心源西堂とはかって修理したとつたえる。その後、塚は明治28年(1895)西北の西八条の総墓地に移されたが、明治44年(1911)国鉄梅小路貨物駅の建設にともなって取り払われ、墓は大通寺とともに現在の地に移したとつたえるが、本覚尼の墓の行方は分からない。
阿仏尼は平度数の養女。若くして安嘉門院(後堀川天皇準母)に仕え、安嘉門院四条または右衛門佐と呼ばれた。30歳を過ぎた頃、藤原為家の側室となり、為相(冷泉家祖)・為守を生んだ。嵯峨小倉山の山荘に住んでいたが、為家の没後、先妻とのあいだに生まれた為氏とのあいだに所領に関する争いが起こり、建治3年(1277)その訴訟のために鎌倉へ行った。
この折りの紀行文が「十六夜日記」である。しかし採決ははかどらず、弘安6年(1283)4月8日、鎌倉で客死または帰路後没したともいわれ、また享年60歳とも75歳との説もあってよく分からない。
また阿仏尼の墓が大通寺に存在する理由も明らかでない。
因みに六波羅蜜寺の東あたりに阿仏尼が住んでいたといわれる阿仏屋敷があったと伝わるが、詳しいことは分からない。
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