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寺院南0427  東寺境内

2018年02月27日 17時25分23秒 | 寺院

 東に位置する 慶賀門 にて

東寺真言宗の総本山で、「教王護国寺」という。創建以来、一度もその位置が変わっていないこと、また密教美術に関する多数の宝物を有する。当寺は桓武天皇が平安京造営に際し、国家鎮護のため、羅城門をはさんで朱雀大路の東西に建立された官寺の1つ。東寺では弘仁14年(823)弘法大師空海が補された。大師は天長2年(825)、仁王護国の本尊を安置して教王護国寺と称し、ながく真言密教の根本道場とした。大師が在世中に竣工したのは講堂だけで、五重塔は50余年後の元慶7年(883)に竣工した。平安時代には延暦寺とならんで顕密二教といわれ、わが国宗教界に君臨する大寺となった。鎌倉時代初期に源頼朝が文覚上人のすすめで復興に着手した。次いで後白河天皇の皇女宣陽門院が霊夢に感じて東寺に帰依し、荘園を寄進されてより面目を一新した。以後弘法大師信仰の1つの中心となった。

さらに後宇多法皇は徳治元年(1306)、前大僧正禅助より灌頂をうけ、6ケ条の事書をしたため、当寺の興隆を誓われたから、多数の塔頭子院が増加した。

文明18年(1486)の土一揆には、東寺は本拠となり、創建以来初めての大規模な火災にみまわれた。

天正19年(1591)豊臣秀吉によって新しい寺領が交付され、徳川氏も庇護につとめた。毎月21日には大師入滅の3月21日に因んで市が出される

食堂

昭和5年(1930)12月の失火後の再建で、堂内には本尊として千手観音立像(重文)を安置していたので、観音堂ともよばれたが、今は聖衆文殊菩薩、地蔵菩薩立像とともに宝物館に移されている。

東寺真言宗の総本山で、「教王護国寺」という。創建以来、一度もその位置が変わっていないこと、また密教美術に関する多数の宝物を有する。当寺は桓武天皇が平安京造営に際し、国家鎮護のため、羅城門をはさんで朱雀大路の東西に建立された官寺の1つ。東寺では弘仁14年(823)弘法大師空海が補された。大師は天長2年(825)、仁王護国の本尊を安置して教王護国寺と称し、ながく真言密教の根本道場とした。大師が在世中に竣工したのは講堂だけで、五重塔は50余年後の元慶7年(883)に竣工した。平安時代には延暦寺とならんで顕密二教といわれ、わが国宗教界に君臨する大寺となった。鎌倉時代初期に源頼朝が文覚上人のすすめで復興に着手した。次いで後白河天皇の皇女宣陽門院が霊夢に感じて東寺に帰依し、荘園を寄進されてより面目を一新した。以後弘法大師信仰の1つの中心となった。

さらに後宇多法皇は徳治元年(1306)、前大僧正禅助より灌頂をうけ、6ケ条の事書をしたため、当寺の興隆を誓われたから、多数の塔頭子院が増加した。

文明18年(1486)の土一揆には、東寺は本拠となり、創建以来初めての大規模な火災にみまわれた。

天正19年(1591)豊臣秀吉によって新しい寺領が交付され、徳川氏も庇護につとめた。毎月21日には大師入滅の3月21日に因んで市が出される。

 

毘沙門堂 江戸時代

天慶2年(939)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されてた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978)7月9日大風にて羅城門が倒壊の後、当寺に移し食堂に安置したりしたが、文政5年(1822年)現在の堂を建立してお祀りした。創建1200年の事業で平成6年(1994)に修復された。

 

金堂

南面している。創建は延暦15年(796)と伝わる。文明18年(1486)に焼亡した。今のは慶長8年(1603)豊臣秀頼の再建である。入口は正面に3ケ所、両側面に1ケ所。背面に1ケ所。昭和15年(1940)解体修理の際、創建当初の礎石が発見され、金堂の位置および規模がおおよそ昔のままであることが確認された。

 

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紙ぶすま折目正しくあはれなり /蕪村

京ことば ドンツキ 突き当たり。「そのこドンツキ

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