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まち歩き中1675 京の通り・高倉通り 北へ NO71 御所八幡宮

2021年04月07日 05時47分31秒 | まち歩き

 

記念碑 皇太子殿下御成婚

2019年

本殿

由緒

鎌倉時代の弘安元年(1278)10月13日二条内裏焼失により翌11月8日の夕、

後宇多天皇(第91代)が前内大臣中院通成の三條坊門萬里小路邸に行幸あり、

しばし内裏となり俄に四足門を造立せられたることは「増鏡」に記すところである。

 

【この地は第77代後白河天皇(1155)の皇子で平家の横暴を懲らしめようと

源氏の一族に令旨を下し挙兵を(久寿・保元の乱)要望された

高倉宮以仁王の邸が三條高倉にあったので高倉殿とも呼ばれていた。】

 

村上源氏の一門である中院氏が源氏の氏神である。

石清水の若宮を邸内祠として、いつの世にか勧請奉斎していたことは当然であるが、

この行幸にて御帝が親しく八幡宮を祝いまいらせたる社としてその後は御所八幡宮と名付け奉斎してした。

 

建武の大乱以後南北朝に入るに及んであたりの光景は一変せられ

この故地に足利尊氏の弟で副将軍の直義が邸を構えて高倉殿と呼んでいた 

正平7年・文和元年(1352)鎌倉において尊氏に毒殺されてより後、

清和源氏の流れを汲む尊氏は直義の邸を取払い、

その地に往古より鎮祀されていた石清水八幡の若宮を境内四町四方 

本殿八棟造りの善美を盡した殿舎を再興造営 

足利氏鎮守の社とし尊氏の称号にちなみ等持院御所八幡宮 又は高倉八幡宮、三條坊門八幡宮ともいわれた。

 

その後は皇室のご尊崇と貴神武門の崇敬は誠に深甚にして特に足利将軍家累代の社参

など朝家の敬仰篤く神賑を極めていたが、

応仁の大乱後戦国時代を経て足利幕府の滅亡(1573)するに至り衰えその極に達し降って

江戸時代には御池通り(元の三條坊門)の南、堺町(高倉と万里小路の中間)の西、

高倉の間に境内を占める有様となり

明治に入って御所八幡宮として村社の列に入り

昭和の時代には戦時中の強制疎開により狭隘なる現在地に鎮座の止むなきに至り、

往昔の盛観はこれを偲ぶ由もないが世の移り変わりにその尊崇する姿も変わったが

概ねその鎮座の位置をその昔と変わることなく厳存し、

今では初音学区とその近在の守護神として汎くお池の八幡さんと親しまれ崇敬され今日に至っている。

 

明治42年 建立

 

明治44年建立

北からの望む

三宅八幡

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