アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院上0133  慈眼寺  佐々成政の菩提  神沢杜口 、山本梅逸 の墓所 藤の花

2019年08月04日 07時49分52秒 | 寺院

平成30年4月16日 撮影

紫がきれいだ











2016年7月12日 の記事

曹洞宗 佐々成政の娘や、その娘 (徳川家光の正室)が創建、再建に尽力

佐々成政は 厳冬の北アルプスのさらさら越え で有名です

 

 

 

慈眼寺

 

福聚山と号する曹洞宗の寺である。天正16年(1588)に鷹司信房の北の方(妻)・嶽星院が、父の熊本城主・佐々陸奥守成政の菩提を弔うため、織田信秀(信長の父)り伯父に当たる曹洞宗の高僧・大雲永瑞を開山として建立した。当初、西陣の地に建てられたが、後に寺町丸太町に移され、寛文3年(1663)にこの地に再建された。嶽星院の娘で、徳川三代将軍家光の正室となった本理院(鷹司孝子)が、再建に大きく力を注いだ。成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功を立てた。信長没後の天正15年(1587)、肥後国(現在の熊本県)の新領主となったが、検地に際して国人の反乱を招き、その責任を問われ豊臣秀吉により切腹に処せられた。昭和12年(1937)に再建された本堂は、禅寺の代表的な建造物で、成政夫妻の位牌をはじめ、嶽星院、本理院、鷹司信房、その息子信尚らの鷹司家の位牌が祀られている。境内墓地には、成政夫妻の五輪塔が歴代住職の墓と並んで現存しているほか、京都町奉行の与力で『翁草』二百巻を著した神沢杜口や江戸時代末期の画家・山本梅逸の墓がある。京都市

 

 

 

 

 

南画家  山本梅逸の墓所

 

 

神沢杜口が晩年書いたもの 

「翁草」 200巻の随筆集 室町時代から江戸時代までの諸事を記録論評したもの。

第117巻の「流人の話」は作家 森鴎外の「高瀬舟」の素材とされた

 

以下 追加 平成28年7月9日

神沢杜口

江戸時代後期に生きた「物知り老人」と云われている。見聞きした事柄を、

永年にわたって刻明に筆録し、それを『翁草』と題する本にまとめ上げ、後世に残した。

杜口は浪花の生まれ、本姓入江氏。名は貞幹、通称与兵衛といった。

11歳の時、伯父の神沢弥十郎貞宜の養子となり、

京都町奉行所与力の職を継ぎ、在職20年に及んだ。

しかし、病弱のため辞任し、その後はもっぱら俳諧の道にいそしんだ。

はじめ爪木晩山に学び、のち松木淡々について京都を中心とする俳壇の人々と広く交わった。其蜩と号したのはそれか「その日くらし」の宛字であったからで、ここにも杜口の人柄がしのばれる。『翁草』は、彼が晩年に編述した二百巻からなる随筆集である。

はじめの百巻は明和9年(1772)63歳の時に成ったが、さらに百巻を書き加えたところ、天明8年(1788)の京都市中の大火に遭遇し、その大半を焼失したので、

さらに頑張り、寛政3年(1791)82歳のときに完成した。

その内容は、室町時代より江戸時代寛政の頃までの世話・武功談・奇事・逸話

などを記録論評したもので、また著者自身の見聞雑話をも付記している。

橘南渓は晩年の杜口を訪ね「世間を憚らず、何事にも真実を記すように」諭され、

深く感動したように、杜口は己の是とするところを直言して憚らぬ強い態度があって、

これが同書の高く評価される理由である。

中でも同書巻117所収の「流人の話」は、作家森鴎外がこれを素材とし、

名作「高瀬舟」を執筆したことでさらに倍加した。

晩年は聴力を失い、人との対話には筆談をもって応じたが、

なおよく長寿を得、寛政7年(1795)2月11日、86歳で没した。

 

墓は慈眼寺(曹洞宗)の境内墓地中央南寄りにあって、

南面する。位牌型の墓石の表面右端の「可々斎実道無参居士」とあるのが杜口、

左端の「香春院風室貞暁大姉」は杜口室の法名である。

またその右側面には「辞世とは即ち迷ひ只死なん、

八十有六杜口其蜩」との辞世の句がきざまれている。

なお、杜口墓より東数基をへだてて、江戸時代の南宋画家・山本梅逸の墓がある。

 

関連記事 ➡ 高瀬川一の船入

 

 寺院 前回の記事  ➡ 寺院西0132   正覚寺  浄土真宗 本願寺派

 

 



最新の画像もっと見る