墓地は本堂の背後にあり、後陽成・後水尾各天皇の皇子皇女の墓、織田信長に密旨をつたえた立入宗継、信長の皇居造営に協力した山科言継、猿が辻で倒れた姉小路公知および幕末に奔走した玉松操 の墓がある。
2013年4月25日 境内で畳供養が行われている。
浄土宗八総大本山の1つ。浄華院ともいう。貞観2年(860)清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まる。後に後白河・高倉・後鳥羽の三天皇から帰依を得た法然上人が、この道場を賜り浄土宗寺院に改めたとされる。室町時代には皇室や公家・将軍家の帰依を得、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築いたが、応仁の乱により一時荒廃、天正年間に現在地へ移転した。その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には東山天皇母君敬法門院の他、皇子・皇女の墓が多数営まれている。
幕末には、御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本藩の宿所の1つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしている。山科言継、姉小路公知などの著名人の墓も多い。寺宝として普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)や「泣不動縁起」絵巻(重文)がある。大殿には法然上人像を安置、また境内の不動堂には「泣不動縁起」に由来する泣不動尊像を安置する。 京都市
松林院
松林院は、伏見天皇皇孫清浄華院第8世敬法上人が正親町室町の昭慶門院御所の敷地を賜り、法然上人の遺跡である白川禅房松林坊を移して創建されたと伝える由緒ある寺院である。清浄華院の筆頭塔頭として皇室や公家の帰依を受け、勅願別院とも称された。幕末には御所警備を担当した会津藩が文久3年末から寄宿し、藩主で京都守護職の松平容保公も池田屋事件の寸前まで半年ほどここに逗留した。会津藩の寄宿は慶応3年まで続き、寄宿者の中には後に京都府顧問として活躍する山本覚馬も居たとされる。会津藩預かりであった新選組隊士も容保公に召されて度々ここを訪れたとみられる。昭和以降本坊と兼帯が続き、平成15年になって本坊へ統合した。
現存する旧本堂は大正天皇御大典の饗応所の一部を下賜されたもので、法然上人800年大遠忌にあたって阿弥陀堂に改修された。平成25年4月 大本山 清浄華院
本堂
右 大方丈
石碑
天明の大火 横死者の墓 と 石柱
天明大火焼亡横死百五十人之墓
花崗岩製 高さ約3メートル 江戸時代 天明8年(1788)
天明8年(1788)正月30日、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の四条川端下ル付近)で発生した火事は、おりからの強風に煽られて鴨川を越え、京都市街の大半を焼き尽くす大火災になった。二条城や御所も類焼し、後世これを「天明の大火」と呼んだ。清浄華院もこの大火で伽藍のほとんどを焼失させてしまったが、同年3月24日から7日間、大火の犠牲者の供養のため、別時念仏と施餓鬼会をとり行った。この五輪塔はその際に建立されたもので、傍らにはその旨を記した石碑も建てられている。「150人」は幕府発表の死者数であるが、実際にはもっと多かったようである。清浄華院の記録には、2600人が焼死したという風聞が記されている。幕末に起きた蛤御門の変(1864)に伴う元治の大火の際にも、この五輪塔の前で天明の大火77回忌を兼ねた犠牲者供養法要が執り行われた。
石柱
南面
西面
東面
北面
墓 東から
西から
山王権現社
本堂
篤姫の 曽祖母の墓
実父 忠剛の曽母になる
桜
十三重塔
塔頭 龍泉院
河原町通の門に通じる道
塔頭 良樹院
河原町通に面した 東門
東門から 本堂を見る
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