長福寺
仏殿・方丈・鐘楼・表門
長福寺は仁安4年(1169)、梅津氏によって創建された寺院で、嘉応2年(1170)上京安居院の澄憲を導師として落慶供養が行われた。後に天台宗から禅宗へ改められ、観応元年(1350)には勅願寺となって興隆した。応仁の乱により一時荒廃したが、山名宗全によって再興された。文禄元年(1592)には諸山に列せられ、さらに江戸時代には御朱印寺として350石を受けていた。享保17年(1732)「大梅山長福寺全盛古大図」によると、伽藍は山門・仏殿・法堂・方丈などを整えて東西に28の塔頭を配し、さらにその東には堀と土塁で囲まれた門前集落がみえており、盛時の姿をうかがうことができる。現在は江戸期に属する建築遺構として仏殿・方丈・鐘楼・表門が残る。
境内地のほぼ中央に南面して建つ仏殿は上梁銘札より、中井家配下の棟梁のもとに元禄8年(1695)に完成したことが判明する。桁行3間、梁行3間の身舎の四周にもこしをまわした本格的なつくりで近世中期における京都の禅宗様三間仏殿を代表するものの1つである。
仏殿の後方に南面して建つ方丈は寛文8年(1668)の造営と伝え、様式的にもその頃の建築と考えられる。六間取方方丈形式で、後列中央間の仏間には本尊阿弥陀如来が安置されている。このほか鐘楼、一間薬医門の表門も様式等からそれぞれ17世紀に遡るものと考えられ、仏殿・方丈とともに近世中期における禅宗諸山の寺院景観をつたえている。平成4年 京都市
表門の横にある 地蔵堂
油掛地蔵菩薩とあります
たしかに 油掛けされたような形跡がうかがえます
安居院の澄憲の関連記事 ➡ 西法寺 由緒ある寺