京都市伏見区石屋町521
かましきさん
平成22年8月佛歓喜日 第24世 慈譽俊明代
由緒
安養山 往生院 勝念寺と号する浄土宗知恩院末の寺院。
織田信長公が深く帰依した貞安上人によって天正15年(1587)に開創されました。
天正10年本能寺の変で信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所で自刃しました。正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、貞安上人は信忠自刃の地である御池御所を賜り、信忠の法名に因んで大雲院という寺院を開創しました。同時に、時の天下人豊臣秀吉の城下町である伏見丹波橋に布教の拠点とするべく一寺を開創し、勝念寺と号しました。
織田信長公より賜った仏様が伝わっています。「身代り釜敷地蔵尊」は御丈3尺(鎌倉時代作)、地獄で釜茹での責めに苦しんでいる人の身代わりとなって、自ら煮えたぎった釜の中に入り、地獄とこの世で苦しむ人の苦を取り除き、幸せへと導いてくださるお地蔵さまです。身代わりとは「代受苦」「抜苦与楽」ともいい、他人の苦しみを抜き除いて楽にしてあげることです。古来どれだけ多くの母親が危篤のわが子の枕元で、自分の生命と引き換えでよいから、どうぞこの子を救って欲しいと神仏に祈ったことでしょう。まさに代受苦の願いです。この母の心を我が心とされた仏様こそ、身代り釜敷地蔵尊です。「かましきさん」として江戸時代より信仰を集めています。文政年間に作られた、両像の御影の版木が伝わり、多くの人々に御影のお札が配られ、遠くからも熱心な信者のお参りがあり、往時には縁日に屋台が出て賑わったと聞きます。例年、4月8日には、釜敷地蔵尊供養会が10時10分より開かれ、御札が授与されます。
「閻魔法王自作霊像」は御丈一寸八分、手のひらに握れるほどの小像であり、他の多くの閻魔像が念怒の相を表すのに対して珍しく穏やかな感非の相を表しています。これは摂津の国の清澄寺(現 宝塚清荒神)の慈心房尊慧という僧が承安2年12月21日に頓死し、閻魔庁の法会に招かれた時、閻魔法王より世の多くの人が「善因善家 悪因悪果」の因果の道理を信ぜず、平気で悪いことを行い、地獄へと落ちていくことを深く憂い、善い行いをして皆が極楽に行くことを願うという、閻魔の真の心を表すために、閻魔法王自ら松の木の枝に穏やかな慈悲の相に彫り、慈心房尊慧に授け、翌日蘇生
した時、手に握り締めていました。その後、この像が世に伝わり、織田信長公の手に入り、開山貞安上人に授けたと伝える、珍しい像です。「多羅観音菩薩」(金銅天竺仏坐像)は御丈六寸三分、苦しみの中にいる衆生のあまりの多さに、人々を救い切れない観音菩薩が失意の中で瞳から流した涙から蓮華が生え、そこから多羅菩薩が生まれました。
女性の姿をして、ふくよかな胸を示し、左手は親指と薬指を捻じ、右手は手の平外に向け膝に垂れ、蓮華座に座し、苦しむ衆生を直ちに救済に行けるように右足を前に出しています。多羅観音は多羅仏母、救度仏母ともいわれ、親しみやすく、小さな悩みごとも打ち明けたくなる母性溢れる仏様です。当寺の多羅観音は多ではあまり見られない珍しい観音様です。
当寺の門前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の碑が建っています。これは勝念寺の檀家である柴屋伊兵衛が、天明年間、当時の伏見奉行 小堀政方の悪政により伏見の町が衰退するのを憂いて、文殊九助ら他の義民と共に直訴の計画に加わり、遂には捕えられて天明7年9月23日に京都町奉行所東役所にて牢死しました。
当寺が義民柴屋伊兵衛の菩提寺であることが知られ、門前の碑が建てられました。碑には柴屋伊兵衛墓所とありますが、伊兵衛のお墓は当寺には在りません。当時直訴は大罪であり、伊兵衛は罪人として他所に葬られました。しかし柴屋伊兵衛
は、直訴にあたり死を覚悟して、永代回向料とし藪地を当寺寄進し、両親と先祖の墓を当寺に残しました。両親の墓の裏には「永代常回向並墓所花弁為糧藪地寄附之」と書かれています。
最近、境内に20数種約百株の萩が植えられ、9月には赤紫、白、ピンクの萩が庭一面に咲きこぼれ、見頃には道行く人にも萩を振る舞う「萩振る舞い」として門を開放しています。
織田信長公賜
閻魔法王自作霊像
身代り釜敷地蔵尊
天明義民柴屋伊兵衛墓所
大正5年9月發見建立
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川柳
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