平成27年4月26日 9時ごろ
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0298 この道なんで分かれているの 仕切りは何のため
川柳
飲み代が 酒から薬に かわる年 /岡武
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平成27年4月26日 9時ごろ
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川柳
飲み代が 酒から薬に かわる年 /岡武
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今は、そのあとに石碑が建てられました
石碑 前回の記事 ➡ 石碑中0084 名医 吉益東洞 宅蹟
川柳
「お年です」 それが病気か 田舎医者 /松浦
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京都市中京区四坊大宮町189
本堂 珍しい 造りです
寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0243 超勝院 浄土宗
川柳
目には蚊を 耳には蝉を 飼っている /中村
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京都市中京区四坊大宮町188
寺院 前回の記事 ➡ 寺院中0241 善想寺 浄土宗 泥足地蔵 池坊家墓所 豪商野々口家墓所 石仏
川柳
未練ない 言うが地震で 先に逃げ /廣川
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安産祈願、病気平癒、入試合格祈願など
この寺は、想阿善悦上人が天文11年(1542)にはじめられ、上人の名前から善想寺と名付けられました。戦国の兵火に焼亡したが、秀吉の命により、天正10年(1582)再興された。江戸時代にも天明の大火で罹災し、また再建されて今日にいたる。境内墓地の入口に石肌がなめらかで美しい石仏があります。高さ160cm、幅120cm、厚さ70cm。鎌倉時代後期の作といわれ、最近まで北向きであったが今は東向きに安置されている。阿弥陀如来は厚みのある光背を負い、定印を結び東向きにすわって西方極楽浄土を拝んでおられます。またこの寺は華道家元池坊家32世専如をはじめ専定、専正など池坊歴代宗匠の墓があります。また、豪商野々口家の立派な墓石群、織部灯籠一対がある。
毎月23日が地蔵の縁日とし、祈願成就を祈るならわしがある
地蔵尊は、信仰心があつく、しかも困っている人の苦悩を代わって受けるということは経文にもしばしば説かれているが、泥足地蔵もその一例である。像は高さ30cmほどで右手に錫杖、左手に宝珠をささげ、右足を曲げ、左足を垂れ下げた半跏像で、蓮華座上に座している。寺伝によれば、伝教大師自作の像といわれ、初めは江州坂本に祀られていた。
あるとき、ひでりで田植えができず、村の農民たちが困っていると、日頃から地蔵尊を信仰する作兵衛という農夫が3日3晩にわたって雨乞い祈願をしたところ、たちまち雨が降り出し、田を潤すに至った。よろこんだ農民たちはわれ先にと植え付けに励んだが、作兵衛は折悪しく腹痛を起こし田植えができなかった。しかるに翌朝田んぼへ行ってみると、きれいに田植えが済んでいるではないか。聞けば昨夕一人の僧が植え付けをしたいというので、不審に思って地蔵堂に行ってみると、地蔵尊の腰から下、足にかけて一面に泥にまみれているのをみて、びっくり仰天、さては地蔵尊が自分の身代わりとなって田植えをしてくれたこと知り、いよいよ信仰を深めるに至った。またこの話を伝え聞いた人々は、それより「泥足地蔵」または「田植地蔵」と呼ぶようになったという。
その後、この地蔵尊は天正15年(1587)、当寺の開山・正誉上人によって坂本から当地に移され、境内の地蔵堂に安置された。しばしば奇瑞があって、世の信仰をあつめるにい至った。それは文化5年(1808)、中京の堺町に住む勘兵衛という人が、妻の難産に当たって当地蔵尊に詣で、一日一夜安産祈願につとめたところ、無事出産のしらせを受けた。そこで改めて地蔵尊にお礼を申し上げようとして、顔を拝すると、玉のような汗が流れていた。これを見て、さては地蔵尊が産婦に代わって、その苦しみを受けてくれたことを知り、深く感動を覚えるに至った。世人もまたこれを伝え聞き、それより「汗出地蔵」と称するようになったという。当寺は毎月23日を地蔵の縁日とし、願い事を書きしるした紙片を読みあげ、祈願成就を祈るならわしがあり、今も多くの崇敬者のお詣りが絶えない。
洛陽 第6番 泥足地蔵尊
賽銭口
寺院 前回の記事 ➡ 寺院中0240 真蓮寺 真宗 大谷派