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アートプラス京めぐり

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神社城陽0205 久世神社 本殿・重要文化財  久世廃寺跡

2019年12月06日 06時40分01秒 | 神社

 

久世神社西側の境内地にあたる。

以前からこの辺に布目瓦が散布し、古い寺院跡があることが伝わっていたが、昭和43年、測量が行われた結果、東西に並ぶ2ケ所の土壇があることが確認された。東は塔跡、西は金堂跡と推定され、講堂はこれより北に位置するものと思われたが、今のところ判明していない。

出土遺物は飛鳥様式の軒丸瓦や軒平瓦が多く、南門付近ではまた天平様式の見事な金銅仏(奈良時代)が出土した。寺域はほぼ1町(約108m)を占めるものとみられ、伽藍配置は平川廃寺とは逆に、いわゆる法起寺式であり、奈良時代前期に建立された寺院であることが判明した。寺名については明らかでなく「久世廃寺」と称している。

 

塔跡は、東西13.7m、南北13.4mの瓦積基壇と推定されています。

金堂跡は、東西26.7m、南北21.3mの瓦積基壇です。

講堂跡は東西23.5m、南北13mの瓦積基壇で、基壇上には7間(21m)×4間(10.5m)の四面庇をもつ建物があったことが確認されています。

南門跡は、南北4.3m、東西8m以上の基底部が確認されています。

南門跡北側の瓦溜まりからは、像高6.9m(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しています

また東側の市道沿いでは、補修用瓦を焼いたと考えられる瓦窯跡が見つかっています。

発掘調査により、奈良時代前期に創建され、8世紀中ごろに建物が整備され、11世紀前半に廃絶したと考えられています。

寺域北東側の丘陵上には、6世紀に築造されたと考えられている芝ケ原1~7号墳(前方後円墳2基、円墳5基)があります。

久世神社

旧久世村の産土神で、日本尊命を祭神としている。創祀年代は明らかでない。本殿の建物が室町時代末期の建築であることから、それ以前の鎮座であると思われる。もとは若王社といったが、明治維新のときに今の名に改め。明治7年(1874)郷社に列せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿 重要文化財

丹塗りの一間社流造、檜皮葺で、柱上部・組物・庇水引虹梁・庇蟇股などを極彩色に仕上げています。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣上部には幣軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を4枚たてています。内陣正面の板扉には扉2枚にわたり大きな松を描き、左右の脇羽目板にも草花を描いています。

内陣正面の欄間中央に巴紋、左右に6弁の花紋を飾っています。

外陣正面には透彫り欄間をいれ、単純化した唐草文様を柱一間分にわたって彫刻した中に、中央に菊、左右に各2個ずつ計4個の桐を配しています。

建立年代は明らかでありませんが、室町時代中期とされています。

 

 

 

関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0204  出世稲荷神社

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神社右0047  福王子神社

2019年12月02日 21時31分58秒 | 神社

2019年11月9日 記事追加 画像は 2018年11月28日のもの

 

福王子神社

 

第58代光孝天皇の皇后斑子皇后がおまつりしてあり斑子皇后は仁和寺の開山祖 宇多天皇の御母君であらせらるところから古くより仁和寺の鎮守神であります。この御神殿は寛永21年今から330年前3代将軍徳川家光公と仁和寺法主覚深親王が仁和寺大伽藍と共に新たに御造営された社殿でそれ以前は深川神社(本社末社共)と申し上げ平安朝時代からあった神社で延喜式の社号がございました、が応仁の戦乱で惜しくもすっかり焼失してしまいました。現在の福王子神社はこの深川神社の後身であり御再建以来、仁和寺歴代親王の崇敬あつく今日も尚お祭りには奉幣の儀が行われています。又、御祭神斑子皇后は至極お気軽なお気持ちの方でその御神徳をお慕い申し上げ、古くから東紙屋川、西廣沢大沢池畔、嵯峨野、南三條辺まで産土の大神として厚く尊崇を

 

とられています。

 

因みにこの地は一説によれば御祭神斑子皇后の御陵墓かとも言い伝えられています。

 

平安朝時代毎夏洛北氷室より御所宮中へ氷を献上する習わしあり、氷を運ぶ役夫がこの辺で疲労のため力尽き息絶ゆその霊をまつり、人々の安全を祈願いたしました。昭和48年この社殿の技法が何れも古式豊でよく神社建築の正しい手法が守られているところから重要文化財に指定されました。 昭和49年




2015年4月28日 の記事

嵐電 宇多野 下車 北へ200m 福王子神社です

ここは、福王子交差点  右へ行くと 300mで 仁和寺へ行きます

 

標柱は明治42年 建立  鳥居は 重要文化財指定

 

鳥居前の狛犬です

 

拝殿です  これも重要文化財指定

ここに掲げられていた 扁額は鳴滝砥石で作られています

(現在は本殿内に保存されています)

 

 

 

 右は 道標

 

 

 

末社 と 絵馬

 

 

狛犬です

 

本殿です

 

愛宕灯籠です

大正15年建立

関連記事 ⇒  まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物

  神社 前回の記事 ➡  神社西0046  三宮神社 

 


神社左0204  出世稲荷神社

2019年11月29日 15時07分45秒 | 神社

 

 

出世稲荷神社

天正15年(1587)に関白太政大臣、豊臣秀吉公が聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請しました。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授けたという。

聚楽第取り壊しの後も元の場所に鎮座していたが、寛文3年(1663)に二条城西方の千本通沿い(千本旧二条付近、京都市上京区千本通竹屋町下ル)に遷座しました。開運出世の神として大名・公家から庶民までの崇敬を受けた。江戸時代後期には庶民が寄進した三百本を超える鳥居が立ち並んでいたという。近代に入ると千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進した。

2012年(平成24年)6月に京都市上京区より左京区大原に移転した。

御神徳

1     開運出世の福

2     衣食住の福

3     地位名望の福

4     衆人愛敬の福

5     農工商其の他一切の生業に大繁盛の福

6     延命長寿と病気平癒の福

7     千客万来の福

8     武運長久の福

9     善智識の福

10  金銀財宝の福

 

 

 

 

 

 

 

 

新門辰五郎 寄進の狛犬


天明6年建立の鳥居 (1786年)

 

平成30年11月27日 撮影

 

 

大正15年 建立

 

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社左0203 梅之宮神社   石碑左0209 大原小学校創立跡

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神社左0203 梅之宮神社   石碑左0209 大原小学校創立跡

2019年11月24日 22時27分09秒 | 神社

 

 

 

梅之宮神社

大原八箇町の産土神である江文神社(左京区大原野村町)の境外摂社で、祭神は木花咲耶姫、江文神社の妻女を祀ったと伝わることから、姫宮とも呼ばれている。

毎年5月5日に行われる大長瀬祭は当社の例祭で、大原八箇町の輪番によって、太鼓を伴った神輿一基が、素襖で正装した氏子に担がれ町内に出御する。4日の江文神社例祭(太原祭)に引き続いて催行されるが、昭和30年頃までは15日が大原祭、16日が大長瀬祭であった。延宝4年(1676)の『日次記事』によれば、当時は梅宮祭と称して旧暦3月3日に神輿出御、5日に還幸があった。

山中に鎮座する江文神社に対し、里の中に鎮座する当社は、姫宮という性格とあいまって、小社ながら大原の人々に長く親しまれてきた。大原は江文、梅之宮の両社に守られてきた地域と言えるであろう。

 

 

大原小学校創立跡  明治8年5月18日(1875年)

 

石碑 前回の記事 ⇒ 石碑木津川0209 木津町役場跡

神社 前回の記事 ⇒ 神社木津川0202 木津川 天王神社

関連記事 ⇒ 神社左0132 江文神社

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神社木津川0202 木津川 天王神社

2019年11月23日 07時33分52秒 | 神社

 

 

社号標 

天王神社

昭和3年10月建立

 

石柱  上と下に穴が開いてます 国旗を立てていたかもしれない

南大路町 

皇紀2600年 建立

 

 

 

天王神社

当社の創建は應永年中(1394~1428)と伝えられ京都八坂神社を勧請して祭神は牛頭天王(スサノオノミコト)なり、一般にギオンと云われるのは貞観11年下河原に住む僧の円如が播磨 の広峰 から牛頭天王を勧請し祇園荒町に精舎を建て祇園天神堂と名づけ後ギオン八坂神社と云われるようになった。神話では英雄の神、農業の神、山地の神、勇知にたけた神、悪病払いの神と伝えられ毎年7月の夏祭りには貞観11年都にはやった悪病払いのため宮中神泉苑で御霊会を行われたのが始めと云われ、この祭の形式が中世以降全国各地に祇園会天王祭として流れ行き夏祭りの祇園祭には無病息災、平安祈願、家内安全を祈願のため当社天王神社も近郷より多数の参拝人があり賑わう。本社の建物は室町時代後期のものと推定される。

 

 

 

 

 

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0201  岩倉 梅ノ宮神社

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神社左0201  岩倉 梅ノ宮神社

2019年11月20日 20時11分21秒 | 神社

 

 

 

梅ノ宮神社

中村(現中村)は往古下鴨中村郷にあり村民は下鴨社の神人として仕えてきたが度重なる賀茂川氾濫の被害を受け後水尾天皇の時代(1611~29)禁裏御陵であった現在地に移住してきたと伝えられる。梅ノ宮社は以前東北100mの位置にあったが、明治9年現在地に遷社、大正9年に東向きを南向きに改め昭和53年宗教法人の認可を受け、昭和60年6月社殿を改築現在に至る。梅ノ宮社の由緒等については、不詳であるが中村郷より共に移り来たものと思われる。なお神社は「ながいきの神様」としてあがめられ大祭を5月3日(祝)に執り行われ神前で子供ずもうが奉納される。

 

 

大正6年 の建立

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0200 岩倉 長谷八幡宮 

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神社左0200 岩倉 長谷八幡宮 

2019年11月18日 13時55分56秒 | 神社

 

 

 

長谷八幡社

当神社は惟喬親王の御請願に依り、八幡大神並びに惟仁親王を御歓請し天安元年(857)この洛北の地に御鎮座された古社である。

皇位から艮(うしとら)位の方向に当たることから、国家鎮護の神と申し伝えられてきた。

山城名跡巡行志には「鳥居は西向、一ノ鳥居は人家の傍に在りの二ノ鳥居は社の前、又花園方に在り、拝殿社南向き、惟仁親王の観請と伝える」とある。

元和年中(1615年~1624)社殿大破を憂いられた後水尾天皇の皇女東福門院が御修理再興せられたものが現在の社殿と伝えられている。

長谷村、花園村、中村、三宅村の岩倉四ケ村一円に亘る広大な地域の氏神として崇敬されてきた。毎年秋の大祭日に神輿を奉じ氏子区域を巡行し、三宅町の御旅所まで渡御が盛大に行われる。

移り変わり激しき世と共に近来人口も増加する中にあって、格式ある社殿及び伝統行事を守るべく努力が重ねられている。

まっすぐに西に延びる300mもある参道は馬場として、昭和20年代まで競馬が行われていた

 

区民の誇りの木 モミの木

 

 

 

元禄の文字が見える

 

 

絵馬の数々

 

 

 

 

 

明治27年

 

 

土の荒れたところは イノシシのためかな

 

 

 

 

苔むした 狛犬

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0199 岩倉 元八幡宮 

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神社左0199 岩倉 元八幡宮 

2019年11月15日 06時06分59秒 | 神社

 

 

皇孫御誕生記念 と刻されています    2019年で94歳 誰のことでしょう。

 

 

 大正 14年 だと思われます

 

幡の文字が難しい

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0198  天満宮  鳥居は享保年間の建立

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神社八幡0198  天満宮  鳥居は享保年間の建立

2019年11月09日 22時30分34秒 | 神社

 

 

 

 

享保(1716~36) の文字が 読めます 300年前です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0197 八幡神社  戸津村

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神社八幡0197 八幡神社  戸津村

2019年11月07日 06時15分36秒 | 神社

 

 

 

 

八幡神社

慶応3年(1867)12月王政復古の大号令が発せられると、鳥羽・伏見の戦いがおこり、京都方と幕府軍との戦いが始まった。まもなく淀城が京都方に降伏し落城すると政府軍は橋本陣屋に滞在し、この為八幡への砲撃は避けられず、八幡宮を守る事態が生じた。八幡大神は 難を避け慶応4年(1868)正月6日辰ノ刻(午前10時頃)に 御鳳賛にて社務所司や武装した諸神人に警固され男山を下山し大住村(現綴喜郡田辺町大住)の奥坊拝殿へ奉安された。

しかし幕府軍の敗走により八幡・橋本での戦火が鎮まると 京都方の長州・因州の兵が大住村奥坊へ赴き 翌8日の征討将軍仁和寺宮の八幡宮参拝の旨を告げ7日中に御鳳賛が還行することを命じた。この命に従い早速還幸の準備が進められて大住村を出発した御鳳賛は 途中戸津村にて一時の御休憩をとられた この地は 八幡神とともに村人より尊崇されていた産土神を祭る小さな社があったところである。

一説によると この産土神の御祭神もわからず 八幡大神の御休憩の地となったご縁から 社格の高い石清水八幡宮への直接の参詣を憚っていた村人一同の願いにより 八幡宮の御分霊が勧請され 現在の戸津八幡神社となったということである

御社殿の創建については 記録が伝わらず詳細は判明しないが 社名より相当古いものである。 このように戸津村と石清水八幡宮との御縁は深く村人の厚い崇敬により現在に至っているのである 昭和62年4月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ライオン みたいな

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0196 若宮八幡宮

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神社八幡0195 内神社

2019年11月01日 17時46分35秒 | 神社

 

 

 内里はもと有智郷村といい、木津川の氾濫原に位置する農耕集落である。今は八幡市になっているが、古くは「綴喜郡有智郷」(和名抄)に属し、内臣(うちのおみ)一族の居住地であった。内氏は大和国宇智郡より来住したといわれ、『古事記』孝元段によれば、内色許男(うちしこお)の娘は孝元天皇の后となり、比古布都押乗信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。同命の子が味師内宿禰(うましうちのすくね)といい、のちに内臣の祖となったという。当社は内臣とその祖神を祀った氏神社で、その創祀年代ははっきりしない。もとは村の東南にあったが、室町時代の大永の乱に荒廃し、天正年間(1573~92)の今の地に移ったといわれ、旧地は今なおお古宮とよんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内神社

平成13年から2年間にわたり行われた「内神社造営事業」の際、現本殿の鎮座地よりこの地に移築保存された。

建立年代は海老紅梁の伸びやかさや、蟇股の肩の盛り上がり、また足の伸び等から江戸中期の建築物と伝えられてはきたが、この度の造営事業の折に行われた調査で、外陣右側腰板から、寛保3年(1743)の墨書銘が発見されたことにより、ある程度の建築年代の特定がなされた。

京都府登録有形文化財


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正7年(1918年)

 

 寛保3年9月(1743年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0194 八幡 石田神社 石田社

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神社八幡0194 八幡 石田神社 石田社

2019年11月01日 14時56分27秒 | 神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0193 石田神社

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