爛漫日記

インターネット古書店 独楽知の、春爛漫ではなくて、秋爛漫?の日記です。

『70年代マンガ大百科 別冊宝島288』

2006-02-05 16:35:20 | 新着本
PART 1 馬鹿の時代 から抜粋。

流れる汗を拭おうともせず、大袈裟な身振り手振りで何かを叫ぶ男ー。70年代マンガの主役には、そんな印象があった。野球の試合で死ぬ。パチンコ勝負に命をかける。恋愛さえも戦いと言い切ってしまう。「そこまでやるか!?」と言いたくなるような過剰な一生懸命さは、しかし一種の美学に貫かれていたように思う。やりすぎの熱血マンガを、畏敬の念を込めてここでは「馬鹿」と呼ぼう。70年代は、馬鹿の時代だった!


PART 2 敗れ去る未来
PART 3 SEXという青春
PART 4 少女は憧れているか?
PART 5 挑戦する魂
PART 6 70年代を知りたい 
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『学校の先生には視えないこと』

2006-02-05 16:28:10 | 新着本
「はじめに」から抜粋。

本書は、学校ではたらく「先生」以外のひとたちのインタヴュー・ルポである。(中略)しかし、取材が進むにつれ、この方々は、「先生」にはない視点を持っていることにわたしは気づいていく。その視点は、生徒を評価しないということに根ざしており、言い換えれば、生徒と利害関係にないことに担保されていた。「学校の先生には視えないこと」を、わたしはこの方々によって教えていただいた。



「おわりに」から抜粋。

高い学歴を得てきた、学校のなかで「良き子ども」であったはずの人間が必ずしも「良き大人」にはならず、逆に自らが身を置く機構のなかで疑問を感じることができないで、公共のために生きるという理想から果てしなく離れた地平で堕落していったことか。学校的勝者は必ずしも「良き人間にならず、良き社会もつくらない」といったことが証明された、とわたしは考えている。本書に登場していただいた方々のメッセージを「視えない」「視ようとしない」学校の「先生」たちは、破綻した教育システムの補完者になるだけである。
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「無言館」の坂道

2006-02-04 11:35:07 | 新着本
本文の<「無言館」懺悔録>から抜粋。

 娘さんは絵を私に渡すとき、
「この一点の絵だけが大江さんがこの世に生きていたただ一つの証なんです」
 そういった。
 私が涙を流したのは、そのときふと、絵を描く者だけがもつ人間の幸福というものを考えたからだった。それはいいかえれば、戦没した画学生たちが抱いていた、絵を描くことへの無垢な歓びであったといっていいかもしれない。日野病院の娘さんのいわれるとおり、この絵が「無言館」にあるかぎり大江正美という一画学徒の生の存在を人は忘れないだろう。また、そういった若い感性の芽を無惨にももぎとった「戦争」という過去の暦をも忘れないだろう。

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『「森のイスキア」で話したこと』

2006-02-04 00:16:06 | 新着本
題名のとおりに、佐藤初女さんと宮迫千鶴さんが、「森のイスキア」でずうっと、ストレートに話合ってる本。
「カトリックについて」
「母性と女性性について」
「男と女の人生について」
「暮らしについて」
「食について」
「死と看取りについて」


(宮迫千鶴・あとがき)から抜粋。

「森のイスキア」に行った人はおわかりであろうし、映画をごらんになった方は一目瞭然であろうが、すべての人とともにおいしい食べ物を囲んで団欒すること、その「ともにあること」をいとおしみ、大切に生きている女性なのである。おそらく「食卓」が初女さんにとっての楽しい祭壇だろう。それが普段着のシャーマンなのである。
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