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静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

花沢城(焼津市)の現地説明会に行ってきました

2018-10-07 00:29:55 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)

10月6日(土)、ただ今発掘調査が行われている焼津市の花沢城の現地説明会に行ってきました。

花沢城は、永禄11年(1568)12月に武田信玄が駿河に侵攻し今川氏真が駿府を追われた後も、今川氏の家臣大原資良により今川方の城として武田軍に対抗し続け、永禄13年(1570)1月に武田軍の猛攻により落城した城郭です。落城後は武田氏や徳川氏など、後から駿河を支配した大名により使用された記録はなく、今川氏の城郭の特徴を知る重要な手掛かりになるかも知れない城の一つです。

調査は雨天にたたられて一の曲輪(本曲輪)と二の曲輪の間の堀切にトレンチを入れて調査している最中とのことでしたが、堀切の斜面はしっかりと削られ人為的に急斜面にしている形跡が確認できました。

発掘調査は今後更に続けられ、2週間後の10月20日(土)にも現地説明会を行うとのことで、更なる成果が期待できると思います。(但し、私は仕事のため、残念ながら20日の説明会には行けませんが・・・)

なお、発掘調査もさることながら、一の曲輪から三の曲輪に至る主要な曲輪は草木の伐採が行われて、過去に花沢城を訪れた時より格段にきれいになっており、遺構が観察しやすくなっています。一の曲輪からは焼津・藤枝方面を一望に見渡すことができ、焼津市教育委員会と地元の方々が城跡の整備に意欲的に取り組み始めているのが伝わってきました。

       

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興国寺城跡の発掘調査現地説明会に参加しました

2016-12-18 22:04:59 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)

12月11日(日)、沼津市の興国寺城跡の発掘調査現地説明会が行われ、参加してきました。今回は、二の丸と三の丸の接続部分と、三の丸東大手口付近の発掘調査が行われており、この2ヵ所の説明が行われました。

先ず、二の丸と三の丸の接続部分ですが、ここからは土橋に伴う石積みが東西に2列ずつ確認されました。石積みは土橋の東西の端を固める石積みとして築かれ、それが後に拡幅されたことがうかがえる遺構でした。石積みの中に詰まっていた土は自然堆積の様相を示し、調査担当者の説明では、堀に溜まった土を残して両端を石積みで固め土橋を築いたのではないか、とのことでした。そのような例はあまり聞いたことがないので、また類例がないか、調べてみたいと思います。

   

また、三の丸東大手口付近ですが、曲輪と外堀(泥田堀)の境目が確認でき、地山が盛り上がっている部分=土塁の基盤跡も確認することができました。興国寺城北東部の境目がほぼ確認できたということで、なかなかの成果があったと思います。

興国寺城は今後史跡整備の作業が逐次行われ、次年度以降は当分大きな発掘調査はない、とのことですが、どのような復元整備が行われるのか、楽しみなところです。

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諏訪原城跡(二の曲輪東馬出)現地説明会に参加しました

2016-02-29 00:03:33 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)

2月27日(土)、島田市(旧金谷町)の諏訪原城跡で今年度の発掘調査現地説明会が行われ、13時からの午後の部に参加しました(10時からの午前の部に参加した人の方が多かったようで、新聞によれば合わせて約160人の方が見学会に訪れたようです)。

今年度は、城域の南部にあたる馬出が複雑に重なり合う部分(二の曲輪東内馬出、二の曲輪南馬出、二の曲輪東馬出)の一つである二の曲輪東馬出の部分を調査しているということですが、今年度の見どころは、写真に示させていただいたように、堀と曲輪内から出土した門の礎石でした。

堀は上端幅約9.5m、底部幅約1m、深さ約7.5m(現況)のいわゆる「薬研堀」で、法面の傾斜は約50°~55°、法面には堀を掘削した時の足場の跡のようなテラス状の遺構も検出されました。25年以上前に大手外馬出の内側の堀が調査されましたが、その際に確認された形状と類似しているようです。

また、曲輪西寄りから検出された門の礎石と思われる2つの礎石ですが、今までに発見された礎石よりはかなり大きめのものでした。門は四脚門だったようで、北側の堀に面した礎石は後世の植林の際に撤去されたのか残っていませんでしたが、反対側の二の曲輪北馬出の門の構造と共通する構造だったことがうかがえました。

曲輪の遺構面は、この礎石が残存していた面と下層にもう一面の遺構面があったということで、単純に考えれば下層=武田期、上層=徳川期ということになるかも知れませんが、考古学的な調査の上ではなかなかそこまで断定するのは難しいようです。ただ、今回調査された地点では45個の鉄砲玉が出土しているそうで、東海道に面したこの部分で武田・徳川の激戦が行われたことが推定されます。

まだまだ整備が続く諏訪原城。当面毎年発掘調査が行われるようで、目が離せませんね。

    

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興国寺城跡(二の丸虎口)の発掘現場を見学しました

2014-11-30 22:53:18 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)

11月30日(日)、沼津市の興国寺城跡にある穂見神社の祭典に合わせて同城の発掘現場の一般公開が行われたので、行ってきました。

今年度は三の丸から二の丸に入る虎口の部分を調査していましたが、写真のように南北→東西方向にL字形に折れ曲がった石垣遺構が検出され、昨年度東側で検出された石垣に続くものであり、近世の絵図に描かれた虎口の形状がほぼ正しいものであることが確認されました。

この石垣の遺構は戦国時代末~江戸初期のものであろうと推測され、同城が慶長12年(1607)に廃城になる直前の天野氏時代のものか、その前の中村氏家臣河毛重次時代のものなのではないかと推測されます。

今年度の興国城跡の発掘調査はこれで終了、とのことですが、今後の史跡整備に向けて目が離せない城跡の一つではないでしょうか。

 

いささか余談になりますが、その後箱根を越えて小田原市の遺跡調査発表会に途中から参加し、小田原城三の丸や御用米曲輪の調査報告を聴いてきました。特に御用米曲輪の庭園遺構の威容には改めて感嘆させられました。やはり、先週見てきた津久井城や今日見た興国寺城とは「格」が違いますね。

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旧鈴木家屋敷跡(万斛西遺跡)の現地説明会に行ってきました

2014-11-23 22:59:19 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)

浜松市東区中郡町にある旧鈴木家屋敷跡(万斛西遺跡)では、現在史跡公園整備のための発掘調査が行われており、11月15日(土)に現地説明会が開催されました。

鈴木家は、江戸時代、浜松藩内でも藩主への拝謁を許されている有力な「独礼庄屋」として地域に君臨し、徳川家康の側室阿茶局と深い関わりがあったとされる由緒ある豪農の家柄です。昨年度第1次調査が行われ、戦国時代~江戸時代の土器を含む、南北方向に掘削された溝を確認したとのことですが、今回の調査でも、屋敷の西側で南北方向に掘削された溝の遺構を確認しました。

江戸時代に描かれた鈴木家の家相図などから、同家の屋敷地は、母屋を中心とした二重の区画に分かれていたことが推測されていましたが、今回の発掘調査でその構造がある程度明らかになってきた訳です。溝の年代は、戦国時代後期~江戸時代のものとみられ、鈴木家が徳川家康と結びついて力を蓄えていたことをうかがわせるものでした。

また、屋敷地北側では、鎌倉時代に掘削されたとみられる複数の溝を確認しており、鈴木家の屋敷地が形成される以前に何らかの人工的区画が存在していたことも明らかにされました。また、発掘された土器をはじめとする遺物は、奈良時代(8世紀)から近代に至るまで多岐にわたっており、古くから人間が生活していた痕跡が確認できました。

旧鈴木家屋敷跡は、土塁は痕跡らしき高まりが認められるだけではっきりした遺構は認められませんが、南側の水田が「堀」の痕跡とみられ、相当規模の戦国期土豪屋敷の名残りをとどめています。今後の調査が楽しみな遺跡の一つです。

    

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