静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

第278回見学会(1泊2日)「 鉢形城周辺と比企丘陵の城館 - 花園城と鉢形城、比企丘陵の城館をめぐる -」のご案内

2024-10-05 00:08:05 | 見学会のお知らせ

静岡古城研究会では、ここ何年か4月下旬または5月上旬に1泊2日見学会を実施していましたが、ここ数年の状況を見ると平均気温の上昇など、参加者の方からも「気候的に厳しい」とのご意見をいただく事もあり、今年から1泊2日見学会を11月に開催することとなりました。

今回は、関東を代表する技巧的な城が多く存在する埼玉県の鉢形城周辺及び比企丘陵の城館を巡る見学会です。

詳しい見学会内容、見学地の解説は以下のとおりです。

いよいよ城巡りに最高の季節の到来です!みなさんのご参加、お待ちしております♪

■実施日  令和6年(2024) 11月23~24日(土・祝~日)

■見学地 【1日目】花園城、鉢形城(寄居町)

     【2日目】松山城(吉見町)、小倉城(ときがわ町)、菅谷館、杉山城(嵐山町)

■宿泊地  東松山第一ホテル(℡ 0493-25-1515)(一部 ガーデンホテル紫雲閣東松山(℡ 0493-23-5151))

■担当者  望月保宏・望月 徹

■参加費  会員25,000円、一般27,000円(博物館入館料、懇親会費含む)

■申込み  令和6年10月30日(水)までにメールにてs-kojouken@outlook.comまで   ★申込み期間延長しました!

      氏名(フリガナをお願いします)住所連絡先(携帯電話をお持ちの方は携帯電話番号)

      希望乗車地赤文字で表記された場所) をお知らせください

■バス   市沢さんのバス

■身支度  ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■日程(予定)

【1日目】  7:30    静岡駅北口集合、出発

      7:45    日本平久能山スマートIC(→東名)

      8:10    富士川SA

        8:30~8:40 足柄SA(トイレ休憩)

     (東名→圏央道→関越道)(途中 狭山PAで休憩)

     11:00   花園IC

     11:15     寄居駅

       11:30~13:30  花園城見学(昼食)

     14:00~16:00   鉢形城見学(歴史館見学含む)

     17:00      ホテル着

     18:00~20:00  懇親会(東松山駅前「やきとりひびき」2時間飲み放題)

【2日目】  8:15      ホテル発

   8:30~10:00  松山城見学

  10:30~12:00    杉山城見学(昼食)

  12:30~14:00  小倉城見学

  14:15~15:30  菅谷館、埼玉県立嵐山史跡の博物館見学

  15:45      東松山IC

         (関越道→圏央道→東名)(途中 狭山PAで休憩)

  18:00~18:40  足柄SA(トイレ休憩)

   19:00      富士川SA

  19:25      日本平久能山スマートIC

   19:40      静岡駅南口着、解散

  *雨天決行、悪天候の場合又は時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります。

■脚力レベル ★★★★☆(4/5) 

 

(主な見学地概要)

【花園城】(大里郡寄居町大字城山

築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと伝わる。藤田氏代々の居城で、藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。

同氏は、室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力を伸ばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、用土城に隠棲し用土氏を名乗った。

城は以来小田原北条氏の属城となったが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城し、以後廃城となった。

城は荒川の北岸にあり、東西に伸びた丘陵の西側頂部に築かれている。

主郭は最高所にあり東西に長い曲輪で西端に石碑が建っている。この主郭を取り囲むように岩を垂直に切ったような空堀が巡っており、南側上部には石積みも残る。

また同城の特徴として竪堀と横堀を駆使しており、主郭から東の尾根に三条の堀切があり、そこから竪堀が南麓近くまで続いている。竪堀は途中で折れていたり、竪堀沿いに横堀や曲輪を配し、横矢を掛けるなど堅固に作られている。またこれらは通路を兼ねていたと思われるが、行き止まりとなっている部分があるなど、さながら迷路のようである。

 東側が特に堅固になっているが、主郭から西は低い切岸の帯曲輪や下段に広い曲輪がある程度で東に比べると弱い造りとなっている。

 

【鉢形城】(大里郡寄居町大字鉢形)

 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた天然の要害の平山城である。その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。

この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点。鉢形城は文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられる。

その後、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在みられるような規模となった。北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担った。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、小田原北条氏の重要な支城として氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開したが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、程なく城は廃城となった。

城跡の保存状態は良好で、昭和7年(1932)に「鉢形城跡」として国の史跡に指定された。昭和59年(1984)からは寄居町による保存整備事業が開始され、発掘調査により様々な遺構・遺物が検出された。現在は鉢形城公園として整備され、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。

 

【松山城】(比企郡吉見町大字南古見・北吉見)

比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年(1925)に県指定史跡となる。平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、「比企城館跡群」として国指定史跡となる。 

城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。

松山城の築城は、室町幕府の要職にあった関東公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏による関東の動乱を背景に、扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。歴史的には、公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。

天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、そこには、扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。

 

【杉山城】(比企郡嵐山町杉山)

 市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。

この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。

同城跡では、平成14年(2002)〜18年(2006)にわたってトレンチを用いた範囲確認調査が5次にわたって行われ、遺構面は1面(すなわち1層)のみで時期差をうかがわせる層位は確認されなかった。

本郭で、土塁及びそれに伴う溝、本郭の東虎口に平坦な石を用いて石列がつくられていた。東虎口から郭内へは「ハ」の字状に広がる構造になっていて、幅1.8mの石積みが確認された。石積みは43cmの高さで残っていた。東虎口の西側には石積みを崩したことによって発生したと考えられる礫が多量に検出された。本郭から南側へ「コ」の字状に張り出した先に西向きに南虎口があって、石列が確認された。挽き橋が西方向に井戸郭へ向かって架けられていたと考えられる。

本郭南虎口の対岸にあたる井戸郭の東側部分には8m×6mの長方形で、周囲との比高差1.2mの台状遺構が確認された。東側の堀に平行に柵ないし柱の跡と思われる穴(ピット)が検出されている。南2の郭では、南虎口に関連する施設(柵ないし柱か)の跡と思われる穴(ピット)が2基確認されている。建物跡は確認されなかった。南3の郭でも建物跡は発見されなかった。部分的であるが石敷き状に礫が敷き詰められている状況が確認された。

平成29年(2017)4月6日、「続日本100名城」(119番)に選定された。

 

【小倉城】(比企郡ときがわ町大字田黒)

 小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えている。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えている。

 小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。

 同城は外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害に築かれている。城の位置取りは、槻川―都幾川―古荒川水系を基幹に陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(八王子城―鉢形城を結び上州へ抜けるルート)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっている。

その縄張りは、本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並列して配置し(並郭式)、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設けている。郭5は独立して井戸沢と呼ばれる谷に面することから「水の手郭」と判断される。

また城内には随所に折れ曲がった導線と虎口を設置し、鍵の手状の横堀と縦堀が組み合わされた大堀切、櫓台、二重堀切、連続縦堀など多彩な技法により普請されている。同城跡の最大の特徴が、全国的にも珍しい石積み遺構である。平成11年~18年(1999~2006)まで実施された調査で、まず郭3をコの字型にかこむ最大高約5m、総延長120mあまりの大規模な石積普請が発見された。また、現在は埋め戻されているが、郭1の東虎口から南虎口を結ぶ土塁内側には三段の雛壇状に構築した石積みが確認された。その他に、郭1の東腰郭に高さ3.5mの石積みが普請されている。

 

【菅谷館(菅谷城)】(比企郡嵐山町大字菅谷)

鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡として伝わる。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。

元久2年(1205)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死した後は畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。

長享2年(1488)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。

その後は、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した小田原北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。

館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好である。 

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秋のミニ見学会「今川氏親の遠州侵攻 シリーズ①美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城」のご案内

2024-08-26 01:15:36 | 見学会のお知らせ

当会では、昨年度に引き続き今年度も、まだ残暑厳しいこの時期でも比較的楽に見学できる近場の山城を巡る「ミニ見学会」を企画しました。

内容は下記のとおりです。会員の方のみならず一般の方のご参加も大歓迎です。皆様、奮ってご参加ください。

 

■実施日:令和6年(2024年) 9月15日 (日) 9:30出発

※中止・延期の場合、前日18:00に決定し、ホームページ(https://skk-noroshi.jp)にて告知

※バス乗車場所が変更となる場合も前日18:00にホームページにてお知らせします

■見学先: 美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城   脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員3,000円/一般4,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR掛川駅南口ロータリー(*北口から変更になりました!)

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長、平井 登副会長、望月 徹事務局長

■締切日: 9月12日(木)までにメールにて s-kojouken@outlook.comまで(今回は途中乗車・下車は原則ございません)

■日 程: 9:30JR掛川駅北口出発 → 10:00~11:00美人ヶ谷城→11:15~12:30滝ノ谷城(昼食)→12:40 ~13:00新東名掛川PA(下り)トイレ休憩→13:30~14:30松葉城→15:30JR掛川駅(解散)

■見学地概要

①美人ヶ谷城(掛川市上西郷字美人ヶ谷)

 城に関する文献資料は無いが、城跡周辺を地元では「シロノダン(シローダン)」と呼んでいる。また山麓には「殿垣戸(トノガイト)」、「保戸垣戸(ホトガイト)」、「旗垣戸」、「太鼓櫓」と呼ばれる地名が残っており、江戸時代に編纂された『掛川誌稿』では「殿垣戸」と云所は石谷氏の宅趾とも云う……、山頂を櫓の趾といひ……」と記され、石谷氏の居館跡と伝えられている。

 倉真川とその支流である滝ノ谷川の合流点から北方へ600mの、南へ延びる尾根上の東西約100m、南北約250mの範囲に築かれた連郭式の山城である。同城の縄張構造及びその規模から、室町~戦国前期の今川氏親による遠江侵攻時の地域の混乱に際し、遠江西郷氏または石谷氏と推定される在地の豪族によって築かれた可能性が高いが、後世に改修を受けた可能性も否定できない。

なお、地名の「美人ヶ谷」とは、『掛川誌稿』によれば、山の禿げた状態を称する「ビンゼ谷」が転訛したものであると記されている。

②滝ノ谷城(掛川市上西郷)

 史料がないため、確かな城史は不明である。江戸時代後期の地誌・『遠江国風土記伝』や『掛川誌稿』などにも記述が無い。ただ、「ジョウヤマ」の地名が残され、城跡であるとの伝承はあったようである。南の美人ヶ谷城とは800mほどの距離にあり、城の西直下を峠を越えて原谷川流域の孕石方面に抜ける道(現・県道39号線)が通り、交通の要衝であるなど立地は類似するが、構造が大きく異なり、築城または改修の時期、もしくは築城者・築城目的が相違する可能性も指摘される。現存する遺構から考察すると、切岸の高さや虎口の状況は高度な技術を要し、近くに集落も無いことから、村や土豪の城とは考えにくく、「石ヶ谷氏(西郷氏)の城」よりも大規模な勢力による組織的な軍事行動の中で作られたものと推測される。

③松葉城(掛川市倉真字松葉・城山)

 佐野郡山口郷であった掛川市倉真字松葉に本拠を置く川井蔵人成信の居城松葉城は、島田市横岡にある志戸呂城から、大代、粟ヶ岳北麓を経て掛川へ至る山間地ルート上に位置している。現在は北側に新東名が通る。存在する倉真川南岸の丘陵上は東西500mと広大であるが、極めて痩せ尾根地形のため小規模な連郭式山城である。

 明応二年(1493)四月に勃発した、管領細川政元のクーデターと言われる「明応の政変」。細川氏に呼応した伊勢新九郎盛時(宗瑞)は堀越御所に足利茶々丸を攻めるも取り逃がしてしまう。

 翌明応三年八月、宗瑞は茶々丸を支援する遠江守護斯波義寛配下の原氏など国人衆を牽制するために遠江三郡に攻め込む。明応五年に入りそれを好機とみた今川氏親は遠江へ侵攻し、『円通松堂禅師語録』では九月に佐野郡山口郷(掛川市東部)を支配する松葉城主の川井(河井)蔵人成信が戦死したと伝えている。『掛川誌稿』では、島田市横岡の志戸呂城主鶴見播磨守が「明応五年九月十日、佐野郡倉真村松葉ノ城ヲ襲テ、城主河井蔵人成信カ為ニ討ル」とあり、今川軍侵攻に混乱した国人衆の争乱の中で討たれた事を伝えている。

 

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第277回見学会(1泊2日)「『越前朝倉氏の山城』-一乗谷城と成願寺城、戌山城、越前大野城をめぐる-」開催のご案内

2024-03-30 06:47:28 | 見学会のお知らせ

今年も当会恒例の一泊二日見学会の季節がやってまいりました。

今回のテーマは『越前朝倉氏の山城』と題し、朝倉氏の本拠地の一乗谷城をはじめ、成願寺城、戌山城、そして“天空の山城”越前大野城をめぐります。現在の福井県北部にあたる旧越前国を五代約100年間にわたって支配した朝倉氏一族が築城または整備したこれらの城を訪ね、朝倉氏の城郭の縄張りの特徴と変遷について考察していきます。

 健脚向きのコースとなっておりますが、多くの皆さまのご参加をお待ちしております!会員以外の一般の方の参加も大歓迎です!

■実施日:令和6年(2024年)5月11日 (土)~12日(日)

※雨天決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

■見学地:  【1日目】一乗谷城、一乗谷朝倉館、一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井市)

【2日目】成願寺城(福井市)、戌山城、越前大野城(大野市)

■脚力レベル ★★★★★(5/5)※健脚コース

■参加費: 会員 26,000円/一般 27,000円

■宿泊地: 東横INN福井駅前(☎ 0776-29-1045)

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、日本坂PA、小笠PA、三方原PA

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長・稲垣雅一理事

■締切日: 4月10日(水)までにメール、s-kojouken@outlook.comまで

        ※必ず希望乗車地を明記してください

■日程

【1日目】  7:30 静岡駅北口ロータリー出発

7:40 東名静岡 IC

7:50 日本坂 PA

8:20 小笠 PA

8:40 三方原 PA

(東名→名神→北陸道)(昼食はバス車内で)

       12:00 福井 IC

       13:00~15:00 一乗谷城見学

       16:00~17:00 一乗谷朝倉氏遺跡博物館見学

       18:00 ホテル着

       19:00~21:00 懇親会(ホテル近く「くずし割烹ぼんた」120分飲み放題)

 

【2日目】  8:15 ホテル出発

9:30~10:30 成願寺城見学

11:00~11:15 道の駅 一乗谷あさくら水の駅(トイレ休憩)

12:00~13:30 戌山城見学(昼食)

14:15~15:00 越前大野城見学

15:30 荒島 IC

(中部縦貫道→東海北陸道→東名)

18:30三方原 PA

18:50 小笠 PA

19:20 日本坂 PA

19:30 東名静岡 IC

19:40 静岡駅南口着、解散

※悪天候、または時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります

 

■主な見学地概要

【一乗谷城】(福井市城戸ノ内町)

戦国大名朝倉氏の本拠地一乗谷の詰城である。軍記物である『朝倉始末記』では、文明三年(1471)に7代朝倉孝景(英林)が居所を一乗谷に移したとあるが、今日では3代貞景の代の15世紀前半には、すでに一乗谷を根拠としていたと考えられている。

山上の詰城がいつごろ築かれたのかは詳らかでない。天正元年(1573)8月13日、浅井氏の小谷城救援に出陣した朝倉軍は、大嶽砦の失陥などを受けて撤退を図ったが、織田信長軍に追撃を受けて潰走した(刀根坂の戦い)。同月15日、朝倉義景はほうほうの体で一乗谷に帰還したが、留守の将兵は大半が逃散しており、翌16日に大野郡へ逃れた。同月18日、織田軍は一乗谷に攻め入って火を放った。一乗谷城(一乗谷山城)も、さしたる抵抗もなく落城・炎上したものと推測される。

一乗谷城の遺構は、一乗谷朝倉氏館群の東背後に聳える標高443mの一乗山上に築かれている。

北側の大手からは千畳敷・観音屋敷・宿直・月見櫓として広大な郭群が区画されており、南の尾根筋に一の丸、二の丸、三の丸と遺構が連なっている。一の丸から三の丸は堀切で区切られ、側面には幅2、3mの短い畝状竪堀群が広がっている。千畳敷・観音屋敷が主郭と考えられ、低土塁で区切られており、奥深い山中とは思えないくらい広い削平地が同城の見所の一つとなっている。

(佐伯哲也『越前中世城郭図面集Ⅱ-越前中部編(福井市・越前町・鯖江市)-』(桂書房)より)

 

【成願寺城】(福井市成願寺町)

 築城年代等の詳細は不明で、『朝倉始末記』には朝倉氏重臣の居城であったと記されている。

東郷槙山城(福井市小安)とともに朝倉氏の本拠地である一乗谷の西方を守備する出城として機能したとされ、東郷槙山城を二ノ丸、成願寺城を三ノ丸と称していたほどの重要な軍事拠点であった。

しかし、城主の前波吉継は越前に侵攻してきた織田信長に内通し、朝倉氏を滅亡に追いやった一因をつくった武将であった。吉継は、朝倉氏滅亡後は織田信長に越前国守護代を任され、一乗谷城へ入城。名も桂田長俊と改めたが、天正2年(1574)に加賀一向一揆が起こり、桂田長俊は一揆勢と結んだ富田長繁により自刃に追い込まれ滅亡した。その後、成願寺城も廃城となったと考えられる。

成願寺城は成願寺町の北背後に聳える標高214.0mの山に築かれている。成願寺城は三角点のある山頂(上の城)とそこから西へ伸びた尾根先にある下の城がある。

成願寺城の上の城は三角点のある山頂部に堀切を挟んで東西二郭あり、東の主郭は分厚い土塁で囲まれた小さな曲輪である。この東西二郭の主郭部を東は二重堀切、西は弓形状になった堀切と竪堀、南側面には畝状竪堀群を設けるなど厳重に遮断している。

主郭部から東へ続く尾根には古墳の周濠と堀切が混ざりながら続いている。西尾根も同様であるが、土橋の架かった大きな堀切、北へ続く尾根の先端には堀切が確認できる。

主郭部の南下には波着寺跡があり、山岳寺院の上に中世山城が存在している。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

【戌山城】(大野市犬山)

築城年代は定かではないが、南北朝時代の康暦2年(1380)頃に越前守護斯波義種によって築かれたといわれる。義種は越前守護斯波高経の子(斯波義将の弟)で大野郡を賜って戌山城を居城とし、大野斯波家(大野氏)の祖となった。以降、『城跡考』によれば、同城には斯波氏→大野氏→朝倉氏が居城し、朝倉孫八郎景鏡が亥山城(大野市日吉町)に居城を移すまで、大野郡の主城として機能したという。その後、天正元年(1573)朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、金森長近が大野郡を領して戌山城に入ったが、亀山の地に大野城を築城して移ったため廃城となった。

戌山城は飯降山から北東に派生した標高約325mの山に築かれている。遺構は北端最高所に主郭を置き、そこから北西、北東、南の三方に伸びた尾根に曲輪を配し、南の標高300mの所に南曲輪群を配している。

主郭はそれほど広い曲輪ではないが、三方に伸びる尾根を大堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群をビッシリ配して厳重に防御する。主郭の北西尾根にも小さな曲輪があり、ここも周囲を大堀切と畝状竪堀群によって防御する構造である。主郭から北東に伸びる尾根には小さな堀切や二重堀切があり、先端に小曲輪群、側面には連続竪堀と一部横堀状の遺構がある。南曲輪群は主郭から300m程離れた南峰にあり、ここも各尾根を堀切で遮断しているが、こちらは畝状竪堀は見あたらない。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

 

【越前大野城】(大野市城町)

 天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて大野郡の一向一揆を収束させ、その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めた。

当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていた。 その石垣は、石を立てず横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で築いた石垣である。

同城は長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に彼が飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わった。 江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めた。

 天守を中心とする建物は、江戸時代に幾度となく火災に見舞われたが、安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)にようやく再建された。 その後明治維新を迎え明治4年(1871)廃藩となると、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残された。

現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものである。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されている。

 

 

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第276回見学会「天正壬午の乱ー北条編-『異形の城』」開催のご案内

2024-03-03 10:35:27 | 見学会のお知らせ

2024年に入ってから気が付けば3月になっておりました。

昨年末以来すっかり投稿をサボってしまい、今年最初の投稿となります。遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。

さて、今回はきたる3月17日(日)に開催される、276回目となります見学会、『天正壬午の乱—北条編—「異形の城」』についてご案内いたします。今回は山梨県北杜市にある獅子吼城、旭山砦、谷戸城の3城をめぐる見学会です。いずれも天正10年(1582)、本能寺の変を機に武田氏旧領の領有をめぐり勃発したいわゆる“天正壬午の乱”において北条軍が布陣した城で、各々が特異な縄張りを有しております。これらを現地で皆さんと楽しく考察していきたいと考えております。

下記のとおり開催いたしますので、皆様ふるってご参加ください。勿論、会員以外の方も参加も大歓迎いたします。

■実施日:令和6年(2024年)3月17日 (日)

※小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

 ※中止・延期の場合、当日AM6:00に決定して連絡

■見学先: 獅子吼城、旭山砦、谷戸城  脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員6,000円/一般7,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月 徹事務局長

■締切日: 3月13日(水)までに メール、s-kojouken@outlook.com まで

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 日本平久能山スマートIC→中部横断自動車道→

 9:30増穂PA(トイレ休憩)→ 中央自動車道→10:30~12:00獅子吼城見学(昼食)→12:15

北杜市高根体育館駐車場着→(徒歩1.5km)→旭山砦見学→(徒歩1.5km)→14:00体育館出発

→14:20北杜市考古資料館・谷戸城見学→16:00資料館出発 帰途へ→18:00JR静岡駅南口

(解散)

 

■見学地概要

【獅子吼城】

築城時期は定かではない。応永年間(1394-1428)には江草兵庫助信泰が居城していたといわれ、豊富に散在する石材を利用した縄張が特徴。

武田氏支配の頃には信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として、また塩川沿いの狼煙中継点として機能した。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、その後の本能寺の変で織田信長が死去すると武田氏遺領を廻り、徳川氏と北条氏の間で抗争が勃発(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、獅子吼城には北条勢が立て籠もったが九月、家康配下の服部半蔵、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲を掛けて落城させた。その後和睦が成立し、甲斐が徳川領となると獅子吼城は廃城となった。

【旭山砦】

甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。
武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたとある。佐久往還を抑える要衝であり、佐久経由の部隊を駐留させる目的と考えられるが、完成を見ずして放棄された。

縄張に同時期に築かれた御坂城と共通する疑問点などが見られ大変興味深い。

【谷戸城】

築城年代は定かではないが鎌倉時代に逸見清光によって築かれたと云われる。

八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近。地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群。東西を東衣川、西衣川に画され、北側は尾根に通じ三方は急崖に囲まれている。

土塁の内側に穿たれた横堀などきわめて稀な縄張構造が特徴。

 天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、織田氏の勢力下となったが、織田信長が本能寺の変に倒れたことにより、徳川氏と北条氏が甲斐に侵攻して草苅り場となる。この天正壬午の乱で谷戸城は北条氏方の城となり、この北条氏によって城が改修されたとされる。

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第275回見学会「武蔵西部・湘南方面の城をめぐるー小机城、早川城と大庭城-」開催のご案内

2023-12-27 01:29:23 | 見学会のお知らせ

2023(令和5)年もあと数日を残すのみとなりました。

当会では、新年1月21日(日)に下記のとおり、第275回見学会を企画しました。

第275回見学会では、「武蔵西部・湘南方面の城をめぐる」と題し、小机城、早川城、大庭城の3城を見学します。

3城の縄張りから読み取れる時代背景、築城主体等について、15世紀後半~16世紀前半の武蔵西部・相模の争乱(享徳の乱・長尾景春の乱・長享の乱・北条氏と両上杉氏の抗争)との関係性を絡めながら考察していこうと考えております。皆さんのご参加をお待ちしております!

■実施日:令和6年(2024年)1月21日 (日)

※小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

 ※中止・延期の場合、当日AM6:00に決定して連絡

■見学先: 小机城、早川城、大庭城   脚力レベル★★☆☆☆(2)

■参加費: 会員6,000円/一般7,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、富士川SA、足柄SA(トイレ休憩)

  ※関東方面からご参加の場合、小机城根古谷広場にて合流、帰りはJR辻堂駅にて降車

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長、望月 徹事務局長

■締切日: 1月18日(木)までにメール s-kojouken@outlook.com まで

※1月9日現在、申込者数がバスの定員(28名)まであとわずかとなったため、誠に勝手ながら申込みの締切りを1月10日(水)に繰り上げさせていただきます。ご了承ください。

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 日本平久能山スマートIC→ 8:40富士川SA9:10~9:20足柄SA(トイレ休憩)→10:20小机城根古谷広場→10:30~12:00小机城見学(昼食)→12:45~13:30早川城見学→(県道)→14:00~15:30大庭城見学→15:45JR辻堂駅(小机城から参加の方、降車)→17:00足柄SA→17:30富士川SA→18:15JR静岡駅(解散) *基本的に赤字の所で乗車又は集合

 

【見学地概要】

【小机城】

永享の乱(1438~1439)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。

この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち文明10年(1478)に起きた攻守戦である。山内上杉家の家宰であった長尾景春が、父の死後に家宰職を相続できなかったことに端を発し、主家に対する反乱を起こした。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃をし、道灌は約2か月かけて同城を落城させたとされる。

その後は廃城となったが、この地域が小田原北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、家臣の笠原信為が城主として配置され、小机衆が組織された。笠原氏は、小机城を中心に付近の村に僧侶を招き寺を建立するなど城下の整備に力を注いだと見られ、江戸時代になってもその子孫は代々この地の付近に住んでいた。その後、城主は北条氏堯、北条氏政の弟三郎、北条氏光と替わっている。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原合戦の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。

城跡は西側が「第三京浜」道路により破壊されているものの、東郭・西郭を中心とする主要部分や堀・土塁跡等がよく保存されており、「小机城址市民の森」として整備されている。

【早川城】

綾瀬市役所から約700m西の、相模川の支流目久尻川左岸の舌状台地南端部に立地する。鎌倉時代の御家人・渋谷重国の築城と伝わるが、史料に乏しく実態は不明という。平成元~6年(1989~1994)にかけて6回の発掘調査が行われており、曲輪、堀、土塁、物見塚、ピット(柱穴)、溝などの遺構や、かわらけ、火舎などの遺物が出土した。築城年代は伝承の通りなら12世紀代となるが、前述の発掘調査では14世紀から15世紀代の利用のみ確認されたという。

【大庭城】

大庭城は、平安時代後期(12世紀頃)の武将である鎌倉権五郎景政の子孫がのちに大庭姓を名乗り、源平合戦で有名な大庭三郎景観が居城したのが始まりと言われるが、明らかな記録はなく、 室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったと伝えられている。

その後、永正9年(1512)、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて落城し、以後、小田原北条氏の支配下に入ったが、同氏は玉縄城(鎌倉市)を主要な支城として整備し、大庭城はあまり使用されることはなかったようである。そして天正18年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、大庭城は廃城になったと考えられる。

城は土塁と空堀によって南北に連なる4つの曲輪に大きく区分され、南端部が主郭であったと考えられている。

昭和43~46年(1968~1971)に行われた発掘調査を経て、城跡南半の主要部分は城址公園として保存整備されている。現在、城址に残る土塁や空堀は、近年の研究や発掘調査等により、小田原北条氏により改修された可能性もあるものの、扇谷上杉氏の築城術を色濃く残すものと考えられている。

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