静岡古城研究会では、ここ何年か4月下旬または5月上旬に1泊2日見学会を実施していましたが、ここ数年の状況を見ると平均気温の上昇など、参加者の方からも「気候的に厳しい」とのご意見をいただく事もあり、今年から1泊2日見学会を11月に開催することとなりました。
今回は、関東を代表する技巧的な城が多く存在する埼玉県の鉢形城周辺及び比企丘陵の城館を巡る見学会です。
詳しい見学会内容、見学地の解説は以下のとおりです。
いよいよ城巡りに最高の季節の到来です!みなさんのご参加、お待ちしております♪
■実施日 令和6年(2024) 11月23~24日(土・祝~日)
■見学地 【1日目】花園城、鉢形城(寄居町)
【2日目】松山城(吉見町)、小倉城(ときがわ町)、菅谷館、杉山城(嵐山町)
■宿泊地 東松山第一ホテル(℡ 0493-25-1515)(一部 ガーデンホテル紫雲閣東松山(℡ 0493-23-5151))
■担当者 望月保宏・望月 徹
■参加費 会員25,000円、一般27,000円(博物館入館料、懇親会費含む)
■申込み 令和6年10月30日(水)までにメールにてs-kojouken@outlook.comまで ★申込み期間延長しました!
氏名(フリガナをお願いします)、住所、連絡先(携帯電話をお持ちの方は携帯電話番号)
希望乗車地(赤文字で表記された場所) をお知らせください
■バス 市沢さんのバス
■身支度 ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
■日程(予定)
【1日目】 7:30 静岡駅北口集合、出発
7:45 日本平久能山スマートIC(→東名)
8:10 富士川SA
8:30~8:40 足柄SA(トイレ休憩)
(東名→圏央道→関越道)(途中 狭山PAで休憩)
11:00 花園IC
11:15 寄居駅
11:30~13:30 花園城見学(昼食)
14:00~16:00 鉢形城見学(歴史館見学含む)
17:00 ホテル着
18:00~20:00 懇親会(東松山駅前「やきとりひびき」2時間飲み放題)
【2日目】 8:15 ホテル発
8:30~10:00 松山城見学
10:30~12:00 杉山城見学(昼食)
12:30~14:00 小倉城見学
14:15~15:30 菅谷館、埼玉県立嵐山史跡の博物館見学
15:45 東松山IC
(関越道→圏央道→東名)(途中 狭山PAで休憩)
18:00~18:40 足柄SA(トイレ休憩)
19:00 富士川SA
19:25 日本平久能山スマートIC
19:40 静岡駅南口着、解散
*雨天決行、悪天候の場合又は時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります。
■脚力レベル ★★★★☆(4/5)
(主な見学地概要)
【花園城】(大里郡寄居町大字城山)
築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと伝わる。藤田氏代々の居城で、藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
同氏は、室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力を伸ばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、用土城に隠棲し用土氏を名乗った。
城は以来小田原北条氏の属城となったが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城し、以後廃城となった。
城は荒川の北岸にあり、東西に伸びた丘陵の西側頂部に築かれている。
主郭は最高所にあり東西に長い曲輪で西端に石碑が建っている。この主郭を取り囲むように岩を垂直に切ったような空堀が巡っており、南側上部には石積みも残る。
また同城の特徴として竪堀と横堀を駆使しており、主郭から東の尾根に三条の堀切があり、そこから竪堀が南麓近くまで続いている。竪堀は途中で折れていたり、竪堀沿いに横堀や曲輪を配し、横矢を掛けるなど堅固に作られている。またこれらは通路を兼ねていたと思われるが、行き止まりとなっている部分があるなど、さながら迷路のようである。
東側が特に堅固になっているが、主郭から西は低い切岸の帯曲輪や下段に広い曲輪がある程度で東に比べると弱い造りとなっている。
【鉢形城】(大里郡寄居町大字鉢形)
荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた天然の要害の平山城である。その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点。鉢形城は文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられる。
その後、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在みられるような規模となった。北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担った。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、小田原北条氏の重要な支城として氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開したが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、程なく城は廃城となった。
城跡の保存状態は良好で、昭和7年(1932)に「鉢形城跡」として国の史跡に指定された。昭和59年(1984)からは寄居町による保存整備事業が開始され、発掘調査により様々な遺構・遺物が検出された。現在は鉢形城公園として整備され、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。
【松山城】(比企郡吉見町大字南古見・北吉見)
比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年(1925)に県指定史跡となる。平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、「比企城館跡群」として国指定史跡となる。
城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。
松山城の築城は、室町幕府の要職にあった関東公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏による関東の動乱を背景に、扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。歴史的には、公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。
天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、そこには、扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。
【杉山城】(比企郡嵐山町杉山)
市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。
この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。
同城跡では、平成14年(2002)〜18年(2006)にわたってトレンチを用いた範囲確認調査が5次にわたって行われ、遺構面は1面(すなわち1層)のみで時期差をうかがわせる層位は確認されなかった。
本郭で、土塁及びそれに伴う溝、本郭の東虎口に平坦な石を用いて石列がつくられていた。東虎口から郭内へは「ハ」の字状に広がる構造になっていて、幅1.8mの石積みが確認された。石積みは43cmの高さで残っていた。東虎口の西側には石積みを崩したことによって発生したと考えられる礫が多量に検出された。本郭から南側へ「コ」の字状に張り出した先に西向きに南虎口があって、石列が確認された。挽き橋が西方向に井戸郭へ向かって架けられていたと考えられる。
本郭南虎口の対岸にあたる井戸郭の東側部分には8m×6mの長方形で、周囲との比高差1.2mの台状遺構が確認された。東側の堀に平行に柵ないし柱の跡と思われる穴(ピット)が検出されている。南2の郭では、南虎口に関連する施設(柵ないし柱か)の跡と思われる穴(ピット)が2基確認されている。建物跡は確認されなかった。南3の郭でも建物跡は発見されなかった。部分的であるが石敷き状に礫が敷き詰められている状況が確認された。
平成29年(2017)4月6日、「続日本100名城」(119番)に選定された。
【小倉城】(比企郡ときがわ町大字田黒)
小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えている。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えている。
小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。
同城は外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害に築かれている。城の位置取りは、槻川―都幾川―古荒川水系を基幹に陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(八王子城―鉢形城を結び上州へ抜けるルート)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっている。
その縄張りは、本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並列して配置し(並郭式)、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設けている。郭5は独立して井戸沢と呼ばれる谷に面することから「水の手郭」と判断される。
また城内には随所に折れ曲がった導線と虎口を設置し、鍵の手状の横堀と縦堀が組み合わされた大堀切、櫓台、二重堀切、連続縦堀など多彩な技法により普請されている。同城跡の最大の特徴が、全国的にも珍しい石積み遺構である。平成11年~18年(1999~2006)まで実施された調査で、まず郭3をコの字型にかこむ最大高約5m、総延長120mあまりの大規模な石積普請が発見された。また、現在は埋め戻されているが、郭1の東虎口から南虎口を結ぶ土塁内側には三段の雛壇状に構築した石積みが確認された。その他に、郭1の東腰郭に高さ3.5mの石積みが普請されている。
【菅谷館(菅谷城)】(比企郡嵐山町大字菅谷)
鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡として伝わる。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。
元久2年(1205)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死した後は畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。
長享2年(1488)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。
その後は、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した小田原北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。
館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好である。