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静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

第281回見学会「韮崎の城 ー白山城・新府城・能見城防塁ー」のご案内

2025-04-23 05:39:48 | 見学会のお知らせ

気が付けば4月も下旬にさしかかり、しばしば「夏日」となるような、暑さが身に応える季節となりました。我々にとっては、残念ながら「シーズン」も終盤になってまいりました。

さて、今回は静岡古城研究会、令和6年度最後の見学会となります第281回見学会“天正壬午の乱―若神子対陣・徳川編―”『韮崎の城』のご案内です。

天正10年6月、本能寺の変における織田信長の死を発端として北条氏と徳川氏の間で勃発した抗争、いわゆる“天正壬午の乱”。武田氏の旧領である甲斐・信濃の覇権を巡り北条方の布陣した城を特集した昨年の見学会に続き、今回は徳川方の布陣した白山城、新府城、能見城防塁の遺構を見学していきたいと思います。
会員の皆様は勿論、非会員の方のご参加も大歓迎です。たくさんの皆様のご参加をお持ちしております!

☆ 実施日    令和7年(2025)5月11日(日)
☆ 見学地    白山城・新府城・能見城防塁(山梨県韮崎市)
☆ 担当者    望月徹事務局長、大木一幸理事
☆ 参加費    会員6,000円、非会員7,000円
☆ バス      市沢さんのバス
☆ 脚力レベル  ★★★☆☆(3)
☆ 申込方法  お名前、電話番号(できるだけ携帯電話)を明記の上 s-kojouken@outlook.com まで
 ※今回の乗車場所は、JR静岡駅北口のみとなります
☆ 申込締切  令和7年5月7日(水)
☆ 定員28名
☆ 身支度    ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲物類
☆ 雨天決行  悪天候時、午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。

☆日程(予定)

8:00      JR静岡駅北口集合、バス出発
8:15           日本平久能山スマートIC → 東名高速道路
8:30      清水JCT→中部横断自動車道
9:15~9:25   増穂PA(トイレ休憩)
9:35      双葉JCT→中央自動車道→韮崎IC

10:00      武田八幡宮(韮崎市神山町)駐車場着

10:15~11:15  白山城見学
11:30      新府城駐車場着
11:45~13:30  新府城見学(昼食)
13:40      JR穴山駅駐車場着(トイレあり)
13:50~15:20  能見城防塁見学
15:30      JR穴山駅駐車場出発(トイレあり)
15:45~16:15  韮崎市民俗資料館(韮崎市藤井町南下条786-3)
16:30      中央自動車道韮崎IC→双葉JCT→中部横断自動車道
16:50~17:00  増穂PA(トイレ休憩)
18:00      東名高速道路清水JCT→日本平久能山スマートIC
18:20      JR静岡駅到着

 

(主な見学地概要)
【白山城】
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられ、後に青木氏から別れた山寺氏が領したという。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、開戦当初は諏訪口の監視、若神子対陣時には徳川軍の本営である新府城の背後を守る役目を担ったと思われる。
遺構は白山神社のある標高560mの山頂に築かれており、主郭、角馬出風な構造の北曲輪、枡形虎口など良好な保存状態で残る。


【新府城】
新府城は甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。標高521mの山頂の本曲輪を中心に、二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・両袖枡形虎口など武田氏特有の防御構造を今に見る事が出来る。本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。天正9年(1581年)1月の普請開始から一年足らずで完成し、翌天正10年(1582年)3月には武田氏の滅亡と共に灰燼に帰した数奇な運命の城であるが、同年6月、本能寺の変を発端として三河の徳川家康と相模の北条氏直が“主なき”武田氏旧領の甲斐・信濃の覇権を巡り侵攻。武田氏滅亡により役目を終えたと思われていた新府城は徳川勢の本陣となり、配下の軍勢が能見城など七里岩台上の城砦に布陣し、若神子城(北杜市)を本陣に展開布陣した北条勢と3ヶ月にわたりにらみ合う場となった。

【能見城防塁】
 能見城は新府城の支城として天正9年(1581年)に武田氏により築かれた。独立した城というよりも、能見城を含めた防衛ラインの中の主要な防塁と言った方が相応しい。新府城の外郭防衛ラインとなる能見城防塁は、東西幅約2kmの七里岩台地を複雑に屈曲しながら横断しており、数か所の防塁を有する。ただし、この七里岩を分断する長大な防塁については天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、同年6月2日の本能寺の変により空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領を巡り勃発した、いわゆる天正壬午の乱に際して、徳川軍によって築かれた防塁であるとする説もある。『家忠日記』では「新府城」と「新府山」を区別して記しており、この「新府山」が能見城の所在する穴山の小山を指していると考えられている。
七里岩を東西に分断する能見城防塁遺構は七里岩西端に西曲輪跡、能見城西側の住宅地に桝形虎口跡、能見城北側斜面に横堀と横矢枡形、その東側に中曲輪、邪曲輪跡、現在は尾名方神社の鎮座する東曲輪跡(黒駒砦)、七里岩東端を守る堂坂砦跡などを見る事が出来る。

 


第280回見学会「東三河・作手の城郭 -塞ノ神城・文珠山城・石橋城・亀山城・古宮城-」のご案内

2025-02-27 23:34:12 | 見学会のお知らせ

当会にとって第280回の節目となる3月の見学会は、下記のとおり、愛知県新城市作手の主要な城郭を巡ります。当会では平成19年(2007)以来の訪問となります。この地区には狭い範囲に武田氏、奥平氏による城郭が集中して存在し、当時の強い緊張状態が感じられる地域となっております。今回の見学会ではあらためて縄張から各城の位置づけ、機能などを考察してみたいと考えております。

なお、今回の見学会の日程は当初3月16日(日)を予定しておりましたが、諸般の事情により予定より1週間遅い3月23日(日)となりました。

会員の方は勿論、一般の方も大歓迎ですので、万障繰り合わせの上是非ご参加いただけますよう、申込みをお待ちしております。

☆ 実施日    令和7年(2025)3月23日(日)
☆ 見学地    塞ノ神城・文珠山城・石橋城・亀山城・古宮城(愛知県新城市)
☆ 担当者    澤田孝治理事、大木一幸理事
☆ 参加費    会員6,000円、非会員7,000円
☆ バス      市沢さんのバス
☆ 脚力レベル  ★★★☆☆(3)
☆ 申込方法  お名前電話番号(できるだけ携帯電話)乗車地(赤文字で記された場所)を明記の上、s-kojouken@outlook.com まで
☆ 申込締切  令和7年3月19日(水)
☆ 定員28名
☆ 身支度    ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲物類
☆ 悪天候時、午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。
 悪天候でも決行する場合は、長篠城址、設楽原歴史資料館などの見学に変更する。

☆ 日程(予定)
8:00        JR静岡駅北口集合、バス出発
8:10        静岡IC
8:45        小笠PA
9:10        三方原PA
9:20        三ケ日JC
            ↓
新東名高速道路
10:00       新城IC
10:10       道の駅「もっくる新城」 10分間休憩
            ↓
           国道150号線、県道21号線、国道301号線
11:10       道の駅「つくで手作り村」
11:40~12:05  塞ノ神城見学
12:35~13:15  文珠山城見学(昼食)
13:50~14:10  石橋城見学            塞ノ神城入口→亀山城は徒歩移動
            道の駅「つくで手作り村」
14:20~14:45  亀山城見学
15:00~16:00  古宮城見学
16:40~17:00  道の駅「もっくる新城」
             ↓
17:10       新東名高速道路 新城IC
17:50       三ケ日JC
18:00       三方原PA
18:25       小笠PA
19:00       JR静岡駅南口 解散


*雨天決行、悪天候の場合は、見学地、コースを変更する場合あり


☆(主な見学地の概要)

【塞ノ神城】
元亀年間に三河に侵攻した武田軍により築かれたとの説、武田氏と和睦した奥平氏が文珠山城とともに築いたとの説、さらに奈良時代に三河三大長者のひとりで作手郷開拓の祖といわれる米福長者によって築かれたとする説もある。武田方の拠点として築かれた古宮城と連携して作手往還をおさえる城として運用された。
築城年代は定かではないが元亀年間(1570年〜1572年)に奥平氏によって築かれたと推定される。


【文珠山城】
亀山城主の奥平氏が一夜にして築いたとも伝えられ一夜城とも呼ばれている。
標高661mの山頂に築かれており、現在は公園として整備され櫓を模した展望台が設置されている。奥平氏の居城である亀山城の北西、武田氏の拠点といわれる古宮城の南西、同じく武田氏の砦と伝える塞之神城とは尾根続きの山である単郭の城で、東西に長い楕円形の主郭には土塁と帯曲輪が巡らされている。

【石橋城】
築城年代は定かではないが応永年間に石橋弾正久勝によって築かれたと伝わる。 石橋久勝は奥平氏二代奥平貞久の二男で、この地に屋敷を構え石橋氏を称したという。
天文6年(1537年)石橋弾正繁昌は主君への謀反が露呈し、奥平貞勝の命を受けた土佐定雄によって攻められ郎党四十人余が討ち死にした。
石橋城は現在の慈昌院の境内となっており、境内の北から東側にかけて土塁と堀が残っている。

【古宮城】
古宮城が同時代の史料に全く登場しないため、城史については明らかではないが、『三河国二葉松』によると元亀2年(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたとある。独立丘陵を丸ごと全て削工を加えた遺構は圧巻で、随所に武田氏の築城技術が盛り込まれた姿を見る事ができる。街道上の要衝に立地し、当時武田氏が抗争していた三河の徳川氏攻略の拠点として築城されたと考えられ、『二葉松』によると小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守が在城したと記されている。廃城の時期についても明らかではないが、天正3年の設楽原の戦いで武田氏の勢力が大きく後退した時期の可能性が高い。
三河国北東部の山間地にある作手盆地の中央部に立地する。城のすぐ西には作手盆地を南北に縦貫する作手街道が走り、また城の南側には作手街道から分岐した街道が東に伸びるなど、山間部の交通の要衝といえる位置にあり、また、城は周辺からの比高30メートルほどの小さな独立した丘にあり、作手街道を挟んで西側には塞ノ神城のある本城山が迫っている。


第279回見学会「青梅の城と新発見の城郭遺構」のご案内

2024-12-30 01:51:07 | 見学会のお知らせ

 年明け令和7年の新春初の見学会のお知らせです。 当初 1 月 19 日に予定しておりました第 279 回見学会ですが、諸般の事情により一週遅れの 1 月 26 日の 開催となりました。突然の変更となりましたことをお詫び申し上げます。


 今回のテーマは「青梅の城と新発見の城郭遺構」です。今井城・藤橋城・勝沼城、新発見の「日向和田要害山城」の縄張りから読み取れる時代背景・築城主体等について、15 世紀後半~16 世紀後半の武蔵 多摩地方の争乱(享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、北条氏と両上杉氏・上杉謙信との抗争)との関係性も絡めながら考察していきます。会員・非会員を問わず、皆さんのご参加をお待ちしております!

(静岡古城研究会の公式ホームページ  https://skk-noroshi.jp も参照してください)

☆  実施日          令和7年(2025)1月 26 日(日)
☆  見学地          日向和田要害山城、勝沼城、藤橋城、今井城(東京都青梅市)
☆  担当者          望月保宏、稲垣雅一
☆  参加費          会員 6,000 円、非会員 7,000 円
☆  バス               市沢さんのバス
☆  脚力レベル     ★★★☆☆(3)
☆  申込方法     お名前電話番号(できるだけ携帯電話番号)乗車地(赤文字で記された場所)を明記の上、s-kojouken@outlook.com  まで
☆  申込締切     令和 7 年 1 月 22 日(水)
☆  定員 28 名
☆  悪天候時、当日午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。
  悪天候でも決行する場合(積雪等で東名高速道路が通行不能の場合など)は、長浜城、 三津城、三津新城などの見学に変更する。

☆  日程(予定)
8:00                 JR 静岡駅北口集合、バス出発
8:15               日本平久能山スマート IC →  東名高速道路
8:40                 富士川 SA
9:10~  9:20      足柄 SA(トイレ休憩)
(東名高速道路→圏央道  日の出 IC)
10:45                JR 青梅線宮ノ平駅(関東方面からの参加者合流)
11:00~12:30    日向和田要害山城見学、昼食
13:00~14:00    勝沼城見学  *バスは勝沼城下の光明寺(またはセブンイレブン)駐車
14:15~14:45    藤橋城見学(徒歩)*バスは藤橋城近く(北側の田園地帯)で待機
15:15~16:00 今井城見学
16:15     JR 八高線金子駅(関東方面からの参加者解散)
(青梅 IC  圏央道→東名高速道路)
18:20~18:30 足柄 SA(トイレ休憩)
19:00     富士川 SA
19:25     日本平久能山スマート IC
19:40     JR 静岡駅到着
*雨天決行、悪天候(積雪等)の場合は、見学地、コースを変更する場合あり


(主な見学地の概要)
【日向和田要害山城】
令和2年(2020)、田中俊輔氏により発見された城郭遺構である。築城主体・年代等については不明で あるが、尾根上に堀切や曲輪状の遺構が見られる。


【勝沼城】
三田谷(現青梅市域周辺)を勢力範囲とした国衆の三田氏により築かれた、比高約 30mの平山城。築 城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16 世紀半ば過ぎまで用いられた。 永禄6年(1563)三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改めら れた。詳しい廃城時期は不明だが、天正 18 年(1590)  豊臣秀吉による小田原攻めの後に廃城になったと 考えられている。
同城は加治丘陵端の尾根上に占地し、本曲輪を中心に、尾根方面に三の曲輪、丘陵端方面に二の曲 輪を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の曲輪には東面及び南面に馬出 しが設けられている。また、二の曲輪及び三の曲輪には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る 構造となっている。

【藤橋城】
江戸時代に記された『武蔵名勝図会』によれば、北条氏照の家臣・平山越前守が居城を構えたとある が、築城時期等それ以上の経歴は不明である。
城跡は霞川の南側、河岸段丘の一段高くなった場所の端に存在しており、比高は5mほどである。現 存する遺構は、東西約 70m×南北約 60mの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀等であるが、南西側と 北東側に隣接する場所にも曲輪が存在したと考えられている。現在は、藤橋城址公園となっている。


【今井城】
多摩川の北岸、加治丘陵の南辺にあり、入間川の支流、霞川沿いの低地に臨む比高約 10mの舌状台 地上に築かれており、現在も土塁や空掘が良好な状態で残されている。地元では、この城は今井氏が城 主であったと伝えられている。
城跡からは、発掘調査の際に板碑(青石塔婆)や宝篋印塔等が城跡内西側の土塁の中から打ち捨てら れたような状態で発見されている。板碑に刻まれた大永2年(1522)の年号等から、16 世紀前半にこの地 を治める勢力の交替があったと考えられている。
現在残る城跡の遺構は、主郭が四方に土塁を巡らした方形館の形状を呈し、その北側・西側に曲輪・ 土塁・堀が設けられており、16 世紀半ば以降に改修されたものと考えられている。遺構の様子から、この 改修には戦国大名・北条氏が関わっていた可能性が指摘されているが、改修の目的や廃城時期などは 不明である。


第278回見学会(1泊2日)「 鉢形城周辺と比企丘陵の城館 - 花園城と鉢形城、比企丘陵の城館をめぐる -」のご案内

2024-10-05 00:08:05 | 見学会のお知らせ

静岡古城研究会では、ここ何年か4月下旬または5月上旬に1泊2日見学会を実施していましたが、ここ数年の状況を見ると平均気温の上昇など、参加者の方からも「気候的に厳しい」とのご意見をいただく事もあり、今年から1泊2日見学会を11月に開催することとなりました。

今回は、関東を代表する技巧的な城が多く存在する埼玉県の鉢形城周辺及び比企丘陵の城館を巡る見学会です。

詳しい見学会内容、見学地の解説は以下のとおりです。

いよいよ城巡りに最高の季節の到来です!みなさんのご参加、お待ちしております♪

■実施日  令和6年(2024) 11月23~24日(土・祝~日)

■見学地 【1日目】花園城、鉢形城(寄居町)

     【2日目】松山城(吉見町)、小倉城(ときがわ町)、菅谷館、杉山城(嵐山町)

■宿泊地  東松山第一ホテル(℡ 0493-25-1515)(一部 ガーデンホテル紫雲閣東松山(℡ 0493-23-5151))

■担当者  望月保宏・望月 徹

■参加費  会員25,000円、一般27,000円(博物館入館料、懇親会費含む)

■申込み  令和6年10月30日(水)までにメールにてs-kojouken@outlook.comまで   ★申込み締切りました!

      氏名(フリガナをお願いします)住所連絡先(携帯電話をお持ちの方は携帯電話番号)

      希望乗車地赤文字で表記された場所) をお知らせください

■バス   市沢さんのバス

■身支度  ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■日程(予定)

【1日目】  7:30    静岡駅北口集合、出発

      7:45    日本平久能山スマートIC(→東名)

      8:10    富士川SA

        8:30~8:40 足柄SA(トイレ休憩)

     (東名→圏央道→関越道)(途中 狭山PAで休憩)

     11:00   花園IC

     11:15     寄居駅

       11:30~13:30  花園城見学(昼食)

     14:00~16:00   鉢形城見学(歴史館見学含む)

     17:00      ホテル着

     18:00~20:00  懇親会(東松山駅前「やきとりひびき」2時間飲み放題)

【2日目】  8:15      ホテル発

   8:30~10:00  松山城見学

  10:30~12:00    杉山城見学(昼食)

  12:30~14:00  小倉城見学

  14:15~15:30  菅谷館、埼玉県立嵐山史跡の博物館見学

  15:45      東松山IC

         (関越道→圏央道→東名)(途中 狭山PAで休憩)

  18:00~18:40  足柄SA(トイレ休憩)

   19:00      富士川SA

  19:25      日本平久能山スマートIC

   19:40      静岡駅南口着、解散

  *雨天決行、悪天候の場合又は時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります。

■脚力レベル ★★★★☆(4/5) 

 

(主な見学地概要)

【花園城】(大里郡寄居町大字城山

築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと伝わる。藤田氏代々の居城で、藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。

同氏は、室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力を伸ばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、用土城に隠棲し用土氏を名乗った。

城は以来小田原北条氏の属城となったが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城し、以後廃城となった。

城は荒川の北岸にあり、東西に伸びた丘陵の西側頂部に築かれている。

主郭は最高所にあり東西に長い曲輪で西端に石碑が建っている。この主郭を取り囲むように岩を垂直に切ったような空堀が巡っており、南側上部には石積みも残る。

また同城の特徴として竪堀と横堀を駆使しており、主郭から東の尾根に三条の堀切があり、そこから竪堀が南麓近くまで続いている。竪堀は途中で折れていたり、竪堀沿いに横堀や曲輪を配し、横矢を掛けるなど堅固に作られている。またこれらは通路を兼ねていたと思われるが、行き止まりとなっている部分があるなど、さながら迷路のようである。

 東側が特に堅固になっているが、主郭から西は低い切岸の帯曲輪や下段に広い曲輪がある程度で東に比べると弱い造りとなっている。

 

【鉢形城】(大里郡寄居町大字鉢形)

 荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた天然の要害の平山城である。その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。

この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点。鉢形城は文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられる。

その後、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在みられるような規模となった。北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担った。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、小田原北条氏の重要な支城として氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開したが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、程なく城は廃城となった。

城跡の保存状態は良好で、昭和7年(1932)に「鉢形城跡」として国の史跡に指定された。昭和59年(1984)からは寄居町による保存整備事業が開始され、発掘調査により様々な遺構・遺物が検出された。現在は鉢形城公園として整備され、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。

 

【松山城】(比企郡吉見町大字南古見・北吉見)

比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年(1925)に県指定史跡となる。平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、「比企城館跡群」として国指定史跡となる。 

城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「松山城」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予松山城)・岡山県(備中松山城)に存在することから、他の松山城と区別して「武州松山城」「武蔵松山城」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。

松山城の築城は、室町幕府の要職にあった関東公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏による関東の動乱を背景に、扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。歴史的には、公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。

天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、そこには、扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。

 

【杉山城】(比企郡嵐山町杉山)

 市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。

この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。

同城跡では、平成14年(2002)〜18年(2006)にわたってトレンチを用いた範囲確認調査が5次にわたって行われ、遺構面は1面(すなわち1層)のみで時期差をうかがわせる層位は確認されなかった。

本郭で、土塁及びそれに伴う溝、本郭の東虎口に平坦な石を用いて石列がつくられていた。東虎口から郭内へは「ハ」の字状に広がる構造になっていて、幅1.8mの石積みが確認された。石積みは43cmの高さで残っていた。東虎口の西側には石積みを崩したことによって発生したと考えられる礫が多量に検出された。本郭から南側へ「コ」の字状に張り出した先に西向きに南虎口があって、石列が確認された。挽き橋が西方向に井戸郭へ向かって架けられていたと考えられる。

本郭南虎口の対岸にあたる井戸郭の東側部分には8m×6mの長方形で、周囲との比高差1.2mの台状遺構が確認された。東側の堀に平行に柵ないし柱の跡と思われる穴(ピット)が検出されている。南2の郭では、南虎口に関連する施設(柵ないし柱か)の跡と思われる穴(ピット)が2基確認されている。建物跡は確認されなかった。南3の郭でも建物跡は発見されなかった。部分的であるが石敷き状に礫が敷き詰められている状況が確認された。

平成29年(2017)4月6日、「続日本100名城」(119番)に選定された。

 

【小倉城】(比企郡ときがわ町大字田黒)

 小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えている。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えている。

 小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。

 同城は外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害に築かれている。城の位置取りは、槻川―都幾川―古荒川水系を基幹に陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(八王子城―鉢形城を結び上州へ抜けるルート)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっている。

その縄張りは、本丸に相当する郭1と二の丸に相当する郭2を並列して配置し(並郭式)、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設けている。郭5は独立して井戸沢と呼ばれる谷に面することから「水の手郭」と判断される。

また城内には随所に折れ曲がった導線と虎口を設置し、鍵の手状の横堀と縦堀が組み合わされた大堀切、櫓台、二重堀切、連続縦堀など多彩な技法により普請されている。同城跡の最大の特徴が、全国的にも珍しい石積み遺構である。平成11年~18年(1999~2006)まで実施された調査で、まず郭3をコの字型にかこむ最大高約5m、総延長120mあまりの大規模な石積普請が発見された。また、現在は埋め戻されているが、郭1の東虎口から南虎口を結ぶ土塁内側には三段の雛壇状に構築した石積みが確認された。その他に、郭1の東腰郭に高さ3.5mの石積みが普請されている。

 

【菅谷館(菅谷城)】(比企郡嵐山町大字菅谷)

鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡として伝わる。畠山氏は、重忠の父畠山重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まりである。

元久2年(1205)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で戦死した後は畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明である。

長享2年(1488)、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と扇谷上杉家が激戦を繰り広げ(須賀谷原合戦)、その前後に山内上杉顕定の命を受けた太田資康が扇谷上杉方の拠点である河越城に対するおさえとして、菅谷の旧城を再興した。やがて、「長享の乱」と呼ばれた一連の戦乱は山内上杉方の勝利に終わり、敗れた扇谷上杉朝良が一時菅谷城に幽閉された。以後、16世紀前半まで山内上杉家の拠点として使われる。

その後は、天文15年(1546)の河越夜戦以降にこの地域に進出した小田原北条氏によって戦国末期まで使われ、小泉掃部助が城代となって守備している。

館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好である。 


秋のミニ見学会「今川氏親の遠州侵攻 シリーズ①美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城」のご案内

2024-08-26 01:15:36 | 見学会のお知らせ

当会では、昨年度に引き続き今年度も、まだ残暑厳しいこの時期でも比較的楽に見学できる近場の山城を巡る「ミニ見学会」を企画しました。

内容は下記のとおりです。会員の方のみならず一般の方のご参加も大歓迎です。皆様、奮ってご参加ください。

 

■実施日:令和6年(2024年) 9月15日 (日) 9:30出発

※中止・延期の場合、前日18:00に決定し、ホームページ(https://skk-noroshi.jp)にて告知

※バス乗車場所が変更となる場合も前日18:00にホームページにてお知らせします

■見学先: 美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城   脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員3,000円/一般4,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR掛川駅南口ロータリー(*北口から変更になりました!)

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長、平井 登副会長、望月 徹事務局長

■締切日: 9月12日(木)までにメールにて s-kojouken@outlook.comまで(今回は途中乗車・下車は原則ございません)

■日 程: 9:30JR掛川駅北口出発 → 10:00~11:00美人ヶ谷城→11:15~12:30滝ノ谷城(昼食)→12:40 ~13:00新東名掛川PA(下り)トイレ休憩→13:30~14:30松葉城→15:30JR掛川駅(解散)

■見学地概要

①美人ヶ谷城(掛川市上西郷字美人ヶ谷)

 城に関する文献資料は無いが、城跡周辺を地元では「シロノダン(シローダン)」と呼んでいる。また山麓には「殿垣戸(トノガイト)」、「保戸垣戸(ホトガイト)」、「旗垣戸」、「太鼓櫓」と呼ばれる地名が残っており、江戸時代に編纂された『掛川誌稿』では「殿垣戸」と云所は石谷氏の宅趾とも云う……、山頂を櫓の趾といひ……」と記され、石谷氏の居館跡と伝えられている。

 倉真川とその支流である滝ノ谷川の合流点から北方へ600mの、南へ延びる尾根上の東西約100m、南北約250mの範囲に築かれた連郭式の山城である。同城の縄張構造及びその規模から、室町~戦国前期の今川氏親による遠江侵攻時の地域の混乱に際し、遠江西郷氏または石谷氏と推定される在地の豪族によって築かれた可能性が高いが、後世に改修を受けた可能性も否定できない。

なお、地名の「美人ヶ谷」とは、『掛川誌稿』によれば、山の禿げた状態を称する「ビンゼ谷」が転訛したものであると記されている。

②滝ノ谷城(掛川市上西郷)

 史料がないため、確かな城史は不明である。江戸時代後期の地誌・『遠江国風土記伝』や『掛川誌稿』などにも記述が無い。ただ、「ジョウヤマ」の地名が残され、城跡であるとの伝承はあったようである。南の美人ヶ谷城とは800mほどの距離にあり、城の西直下を峠を越えて原谷川流域の孕石方面に抜ける道(現・県道39号線)が通り、交通の要衝であるなど立地は類似するが、構造が大きく異なり、築城または改修の時期、もしくは築城者・築城目的が相違する可能性も指摘される。現存する遺構から考察すると、切岸の高さや虎口の状況は高度な技術を要し、近くに集落も無いことから、村や土豪の城とは考えにくく、「石ヶ谷氏(西郷氏)の城」よりも大規模な勢力による組織的な軍事行動の中で作られたものと推測される。

③松葉城(掛川市倉真字松葉・城山)

 佐野郡山口郷であった掛川市倉真字松葉に本拠を置く川井蔵人成信の居城松葉城は、島田市横岡にある志戸呂城から、大代、粟ヶ岳北麓を経て掛川へ至る山間地ルート上に位置している。現在は北側に新東名が通る。存在する倉真川南岸の丘陵上は東西500mと広大であるが、極めて痩せ尾根地形のため小規模な連郭式山城である。

 明応二年(1493)四月に勃発した、管領細川政元のクーデターと言われる「明応の政変」。細川氏に呼応した伊勢新九郎盛時(宗瑞)は堀越御所に足利茶々丸を攻めるも取り逃がしてしまう。

 翌明応三年八月、宗瑞は茶々丸を支援する遠江守護斯波義寛配下の原氏など国人衆を牽制するために遠江三郡に攻め込む。明応五年に入りそれを好機とみた今川氏親は遠江へ侵攻し、『円通松堂禅師語録』では九月に佐野郡山口郷(掛川市東部)を支配する松葉城主の川井(河井)蔵人成信が戦死したと伝えている。『掛川誌稿』では、島田市横岡の志戸呂城主鶴見播磨守が「明応五年九月十日、佐野郡倉真村松葉ノ城ヲ襲テ、城主河井蔵人成信カ為ニ討ル」とあり、今川軍侵攻に混乱した国人衆の争乱の中で討たれた事を伝えている。