静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

西部・遠江国版の現地調査が始まりました

2013-02-28 05:43:48 | 報告、その他お知らせ

昨年7月に、『静岡県の城跡―中世城郭縄張図集成―』の(中部・駿河国版)が発刊されました。各地からの好評もあり、次の(西部・遠江国版)発刊はいつなのか、多くの問い合わせもありました。

実は、当会では創立40周年に合わせた「歴史シンポジウム・イン静岡」を11月23日・24日に開催しましたが、早くも翌12月からは遠江国である牧之原市の「龍限山城」、そして森町の「森之城」・「朝比奈氏屋敷」の現地調査を実施しています。ここでは、取分け興味深い森之城調査について紹介したいと思います。

森之城は、森町南域の森に存在し(森町役場南)、標高約110mの山城です。同城については本会により昭和61年に調査はされていましたが、今回の再調査により予想以上に広大であったことが判明しました。南北350m以上ある比較的痩せ尾根上に、堀切、削平地による4区の空間から縄張りされていますが、あくまでも自然地形の曲輪も多く、遺構も粗雑で臨時性の高い構造でした。

   

同城について『駿河志料』には、永正年間、今川氏親に与した大森泰守が在城したとあります。

しかし、これだけ広大な山城を機能・運用できるのは土豪層では考えられず、やはり古く一宮荘は、同荘代官の武藤氏の所領で、戦国期には武田氏に従属した影響も考えられます。相当数の兵員を収容できる空間からは、元亀3年(1572)以降の武田・徳川両氏による抗争期が、現況遺構から多いに導き出されるのではないかと思います。当該地域には、武藤氏の「真田城」近くに「伏間城」、「片瀬城」など同形態の山城が多く確認され、これからは戦国期抗争の実態を解明でき、多くの話題を提供してくれるビッグポイントといえるでしょう。

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第236回見学会のご案内

2013-02-24 22:23:07 | 見学会のお知らせ

※この見学会は、終了しました

下記のとおり、整備された国指定史跡長浜城(沼津市)と三津城・三津新城(沼津市・伊豆市)見学会を企画しました。(会員の皆様には、『のろし』第265号でもお知らせします。)

天候さえ良ければ、城跡の遺構とともに富士山、駿河湾、南アルプスの山々などを一望に見渡せる絶景スポットを巡る見学会となります。

一般の皆様の参加も大歓迎いたします。どうぞ、奮ってご参加ください!!【このブログを見て参加を希望される方は、当会の平井事務局長のメール hirai-kojyo@gol.com まで、3月12日(火)までにお名前、住所、電話番号(携帯電話のある方は携帯電話番号も)及び乗降希望場所をお知らせください。】

 

《第236回見学会》

整備された長浜城と三津城の縄張り

来たる見学会は、“日本一の景観美を誇る中世城郭”と言っても過言ではない、史跡整備されたばかりの長浜城と、本拠地・韮山城との間に屹立する発端丈山に、南北朝期から築かれ運用されていた城砦群〈三津古城・発端頂砦・三津新城〉を縦走見学します。

前回の「鎌倉切通巡り」と同様のハイキング形式ですが、駿河湾や富士山、南アルプス連峰、天城連山を眺めながら、稜線上に連なる縄張構造は「南北朝期か?天正期か?」あるいは「別郭一城か?」を、皆さんと一緒に観察したいと思います。 

春を満喫できる山城ウォークですので、どうぞ奮ってご参加ください。

■実施日:平成25年3月17日(日曜日)  *雨天の場合は、見学地を変更します。

■ 見学先:沼津市と伊豆市の境界山稜:益山寺・三津古城・発端頂砦・三津新城

     沼津市内浦:長浜城・大川家長屋門 〔脚力レベル: 4/5 ★★★★☆〕

■参加費:5,000円 当日バス内で集金 

■乗り物:市沢バス 〔集合場所:静岡駅南口・セブンイレブン付近で乗車〕

■身支度:ハイキング程度の服装・弁当飲物類・雨具

■担当者:平井事務局・乘松理事・水野会長

■締切り:3月12日(火)迄に必着。e-mailでお申込ください。

■日 程:

 8:00 静岡駅南口発 → 8:10東名・静岡IC → 8:50 愛鷹PA(トイレ休憩) →9:10 東名・沼津IC →(10:00〜市境の山稜ウォーキング)→  10:40~11:00益山寺  →(発端丈山ハイキングコース南口から登山)→  11:40 ~ 14:40 発端丈山の山頂で昼食後、三津古城・発端頂砦・三津新城を縦走見学  →(発端丈山ハイキングコース北口へ下山)→ 15:10~15:50 長浜城  → 16:00~16:20 大川家長屋門 →17:10 東名・沼津IC →17:15 愛鷹PA(トイレ休憩) → 18:15 静岡駅南口着 ※予定時間は多少変わります

 

◎見学先見どころ

【益山寺】標高280mにある真言宗寺院で、高野山の末寺。修善寺と同じ空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。見学コースとなる参道沿いには、数十メートル間隔で苔むした石仏が見られる。また、境内には県下最大の楓(カエデ)が見事な木肌を見せている(根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほど)。市指定の大イチョウとともに、本堂や石仏群と調和して千年余の歴史を醸している。

 【三津古城・発端頂砦・三津新城】内浦湾はもとより駿河湾北部で動く軍船を高位置から俯瞰できる要所・発端丈山山頂(標高410m)から北に向かって城砦は連なっている。三津城の歴史は康安元年(1361)に、鎌倉公方足利基氏に背き挙兵した畠山国清により築かれたと云われ、国清は弟の義煕に三津城を守備させたという。畠山勢は修善寺城、金山城、三津城に立て籠り、鎌倉公方が差し向けた武州平一揆の軍勢を退けたが、関東から増援の兵が参着すると次第に劣勢となり、頼みとする狩野一族らにも見限られ、翌年には修善寺城が落城し国清は流浪の果てに死んだという。戦国時代になり、今川氏が滅亡すると駿河へ武田氏が侵攻し始め、その後武田水軍が編成されると天正7年(1579)に、三津の北条水軍の統括者として梶原備前守が長浜城に入る。北条軍は、武田水軍が内浦湾の長浜城や獅子浜城を攻略した場合に備え、畠山氏時代の古い三津城を改修整備して発端頂砦・三津新城を築城したと思われる。翌8年(1580)には武田水軍との間で海戦が行われている。天正18年(1590)の小田原の役で、小田原籠城が決まると当城は放棄されたと思われる。

  

 【長浜城】当城は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地・重須湊を守るための城と考えられている。後北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は明らかではないが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原沿岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民資料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。


 

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★静岡県総合文化振興策『ふじのくに ささえるチカラ』の団体として取材を受けました

2013-02-24 21:51:53 | 報告、その他お知らせ

『ふじのくに ささえるチカラ』」プロジェクトとは、静岡県の文化活動を支援 し、次世代の育成に尽力する人材・団体を、文化・芸術をささえる力として着 目。その活動基盤の強化を目指し、2011年にスタートした県の文化政策プロジェクトです。

県内において文化をささえる活動をしている人材・団体を、調査並びにインタ ビュー取材を行いデータベースを構築。 公式ウェブサイト「ふじのくに ささえるチカラ」を通じて、県内外に広く発信するものです。

今般、当会の長年の活動および実績が注目され、同プロジェクトの「伝統・歴史・地域」分野に取り上げられることになりました。
 
2月21日(木)午前10時半から午後2時までの間、水野会長、平井事務局長、各務理事の3名が当会旗上げの地「丸子城」に場所を選び、同プロジェクト受託業者 ㈱レ・サンクの取材に応じました。


取材内容は、当会の ①活動(研究)目的 ②活動範囲(エリア) ③沿革・実績 ④刊行物 ⑤地域とのかかわり ⑥研究成果と課題 ⑦今後の取組み事業  ⑧会員構成 等等多岐にわたりましたが、フィールドワークを基本スタイルとし ている関係で、“百聞は一見に如かず”とばかり全国に誇れる中世山城「丸子城」に記者・久保田さんをご案内しました。

山城遺構を詳しく見るのは初めてと いう久保田さんでしたが、見事に遺る三日月堀・土塁・横堀・切岸・虎口・大小の 馬出などを水野会長が丁寧に説明していくと、戦国時代にタイムスリップしたか のように感動され、また武田氏の究極的縄張りの見事さに圧倒されたようでした。

とりわけ、水野会長が調査作図した縄張図が、大手の看板に表示されていたり、本曲輪には、当会初代事務局長・故 長倉智恵雄さんが描いた縄張概要図が表示されていることに、静岡古城研究会の歴史と進歩を実感されたようでした。

地道ではありますが、歴史の真実の姿を捉えようとする当会の活動目的(理念)が、丸子城を案内することでストレートに伝わり、活動の意義をご理解いただいた、のではないかと思います。


なお、『ふじのくに ささえるチカラ』公式ウェブサイトには、3月中旬アップされる予定ですのでご期待ください。

   

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小田原城御用米曲輪の発掘調査現地説明会に参加しました

2013-02-17 22:33:13 | 県外の城郭の情報

小田原城(神奈川県小田原市)の御用米曲輪跡では、現在史跡整備に伴う発掘調査が行われており、2月16日(土)に現地説明会が開催されました。

当日は時折小雨や霰がぱらつくあいにくの天候でしたが、ざっと150~200人程度の多くの見学者が訪れ、当会からも水野会長、望月副会長らの会員が参加しました。

今回の調査では、近世に御用米を貯えたとされる蔵跡の他、その下の中世(戦国期)の地層から、礎石建物跡や石組の水路跡・竪穴状遺構、庭園状遺構などが検出されており、同曲輪跡が後北条氏時代においても重要な区域であったことが判明しました。

従来、後北条氏時代の小田原城の中心は、北側の丘陵上の八幡山古郭(現小田原高校周辺)だといわれていましたが、出土遺物の年代や遺構の状況等を考えると、既に氏綱~氏康時代には、小田原城の中心は、同曲輪跡周辺であったのではないか、という考え方が有力になって来ました。

先週とり上げた、韮山城の整備とも対比させて、今後も調査から目が離せない小田原城です。

     

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神奈川県伊勢原市No.123遺跡で、中世の大型建物&厩(?)跡が出土

2013-02-17 22:14:54 | 県外の城郭の情報

神奈川県伊勢原市の、新東名高速道路建設に伴うNo.123遺跡(伊勢原市子易)で、中世(鎌倉~南北朝時代)の大型掘立柱建物跡と、竪穴状遺構を伴う厩跡と思われる遺構などが検出され、2月9日(土)に現地説明会が行われました。

中世の大型掘立柱建物跡は、建て替えを含め4棟以上が確認されており、そのうち竪穴状遺構を伴う東西に長い建物跡には仕切りと思われる柱穴が検出されており、その形状から馬5頭ほどを入れる厩ではないか、との推測がなされています。

同遺跡は、上杉館伝承地(現産業能率大学敷地)にも近く、堀跡や石組遺構等も検出されており、このような大規模な建物跡の遺構は同地域を支配した有力武士の居館跡ではないかと思われます。

現時点では関連する文献史料等は確認されておらず、その全容や居館の主は誰だったのか、など、今後の分析・解明が期待されます。

    

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