※この見学会は、終了しました
下記のとおり、整備された国指定史跡長浜城(沼津市)と三津城・三津新城(沼津市・伊豆市)見学会を企画しました。(会員の皆様には、『のろし』第265号でもお知らせします。)
天候さえ良ければ、城跡の遺構とともに富士山、駿河湾、南アルプスの山々などを一望に見渡せる絶景スポットを巡る見学会となります。
一般の皆様の参加も大歓迎いたします。どうぞ、奮ってご参加ください!!【このブログを見て参加を希望される方は、当会の平井事務局長のメール hirai-kojyo@gol.com まで、3月12日(火)までにお名前、住所、電話番号(携帯電話のある方は携帯電話番号も)及び乗降希望場所をお知らせください。】
《第236回見学会》
整備された長浜城と三津城の縄張り
来たる見学会は、“日本一の景観美を誇る中世城郭”と言っても過言ではない、史跡整備されたばかりの長浜城と、本拠地・韮山城との間に屹立する発端丈山に、南北朝期から築かれ運用されていた城砦群〈三津古城・発端頂砦・三津新城〉を縦走見学します。
前回の「鎌倉切通巡り」と同様のハイキング形式ですが、駿河湾や富士山、南アルプス連峰、天城連山を眺めながら、稜線上に連なる縄張構造は「南北朝期か?天正期か?」あるいは「別郭一城か?」を、皆さんと一緒に観察したいと思います。
春を満喫できる山城ウォークですので、どうぞ奮ってご参加ください。
■実施日:平成25年3月17日(日曜日) *雨天の場合は、見学地を変更します。
■ 見学先:沼津市と伊豆市の境界山稜:益山寺・三津古城・発端頂砦・三津新城
沼津市内浦:長浜城・大川家長屋門 〔脚力レベル: 4/5 ★★★★☆〕
■参加費:5,000円 当日バス内で集金
■乗り物:市沢バス 〔集合場所:静岡駅南口・セブンイレブン付近で乗車〕
■身支度:ハイキング程度の服装・弁当飲物類・雨具
■担当者:平井事務局・乘松理事・水野会長
■締切り:3月12日(火)迄に必着。e-mailでお申込ください。
■日 程:
8:00 静岡駅南口発 → 8:10東名・静岡IC → 8:50 愛鷹PA(トイレ休憩) →9:10 東名・沼津IC →(10:00〜市境の山稜ウォーキング)→ 10:40~11:00益山寺 →(発端丈山ハイキングコース南口から登山)→ 11:40 ~ 14:40 発端丈山の山頂で昼食後、三津古城・発端頂砦・三津新城を縦走見学 →(発端丈山ハイキングコース北口へ下山)→ 15:10~15:50 長浜城 → 16:00~16:20 大川家長屋門 →17:10 東名・沼津IC →17:15 愛鷹PA(トイレ休憩) → 18:15 静岡駅南口着 ※予定時間は多少変わります
◎見学先見どころ
【益山寺】標高280mにある真言宗寺院で、高野山の末寺。修善寺と同じ空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。見学コースとなる参道沿いには、数十メートル間隔で苔むした石仏が見られる。また、境内には県下最大の楓(カエデ)が見事な木肌を見せている(根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほど)。市指定の大イチョウとともに、本堂や石仏群と調和して千年余の歴史を醸している。
【三津古城・発端頂砦・三津新城】内浦湾はもとより駿河湾北部で動く軍船を高位置から俯瞰できる要所・発端丈山山頂(標高410m)から北に向かって城砦は連なっている。三津城の歴史は康安元年(1361)に、鎌倉公方足利基氏に背き挙兵した畠山国清により築かれたと云われ、国清は弟の義煕に三津城を守備させたという。畠山勢は修善寺城、金山城、三津城に立て籠り、鎌倉公方が差し向けた武州平一揆の軍勢を退けたが、関東から増援の兵が参着すると次第に劣勢となり、頼みとする狩野一族らにも見限られ、翌年には修善寺城が落城し国清は流浪の果てに死んだという。戦国時代になり、今川氏が滅亡すると駿河へ武田氏が侵攻し始め、その後武田水軍が編成されると天正7年(1579)に、三津の北条水軍の統括者として梶原備前守が長浜城に入る。北条軍は、武田水軍が内浦湾の長浜城や獅子浜城を攻略した場合に備え、畠山氏時代の古い三津城を改修整備して発端頂砦・三津新城を築城したと思われる。翌8年(1580)には武田水軍との間で海戦が行われている。天正18年(1590)の小田原の役で、小田原籠城が決まると当城は放棄されたと思われる。
【長浜城】当城は、戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地・重須湊を守るための城と考えられている。後北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は明らかではないが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原沿岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民資料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。