静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

群馬県(主に西部)の城跡に行ってきました

2017-08-27 18:02:23 | 県外の城郭の情報

5月の静岡古城研究会の見学会には仕事で参加できなかったため、先日、夏季休暇を利用して、あの時参加者の皆さんが行ったであろう城跡を中心に、2泊2.5日で回って来ました。 天候は、時折にわか雨も降りましたが、思ったより「猛暑」でもなく、夏にしてはまずまずの気候でした。

先ずは、渋川市の白井城を見学しました。この城は、関東管領を務めた山内上杉氏の家宰であった白井長尾氏の居城であった城で、15世紀には築城されていましたが、16世紀末~17世紀初頭の徳川氏配下の大名(本多氏、井伊氏、松平氏、西尾氏)が入った時代の遺構であろう枡形虎口、石垣などが目立っており、土塁・堀などもその時代の改修の影響が色濃く残っており、中世の姿は今一つわからない状態でした。

  

次に、井伊直政ゆかりの城である高崎市の箕輪城に行きました。箕輪城は以前行ったことがありましたが、以前に比べるとだいぶ整備されており、特に馬出の虎口の部分に門が復元されていたのが目を引きました。その他の部分も草がきれいに刈られて歩きやすくなっており、大河ドラマの影響もあり「井伊直政の城」として注目を浴びているのに応えようという地元の意気込みが伝わってきました。

   

翌日は、昨年の大河ドラマ「真田丸」でも話題になった城跡を中心に回りました。先ずは名胡桃城に行きました。実は、恥ずかしながらこの城に行くのは初めてで、どんな感じになっているのだろう?、と興味津々で行ってみたのですが、さすが「真田丸」で話題になった城だけあり、ガイダンス施設も充実していて整備もまずまずの状態で、一般の方でも非常に歩きやすく、構造が理解しやすい状態になっていました。現地の説明板によれば、山の陰になってしまい名胡桃城から沼田城は直接見えない、とのことでしたが、沼田城方面の河岸段丘は一望に見渡すことができ、戦国時代の最後を飾る秀吉の小田原攻めの原因となった同城の位置付けを、肌で感じることができました。

    

更に、後北条氏の沼田城攻めの拠点の一つであったとされる中山城に行きました。この城は、写真のように主郭は土塁等も良好に残存しており保存状態はいいのですが、堀はこの季節に行くのは無理で雑草が繁茂しており、他の曲輪の大半は畑になっているという状況でした。しかも、主郭につながる道には「真田氏ゆかりの城」というような幟が立てられており、後北条氏の影の薄さ(というか、人気のなさ)を痛感しました。

    

次に、真田昌幸が天正10年(1582)、武田勝頼を迎えようとしたとされる岩櫃城を見学しました。この城も、恥ずかしながら麓までしか行ったことがなく、初めての訪城となりました。同城もやはり昨年の大河ドラマの影響か、登り口近くに広い駐車場があり、ガイダンス施設もありました。遺構も、堀・土塁等の見どころはきれいに草が刈られており、地元の方々の熱意が伝わってきました。個人的には、横堀・竪堀の組合せが大変素晴らしい城だと思いました。今回は時間の関係で本丸跡までしか行けませんでしたが、また機会があれば山の上の方まで行ってみようと思います。

    

更にその翌日、先ずはこれも「真田丸」で話題になった城である沼田城に行きました。同城は、失礼ながら、有名な割には遺構がしっかり残っている所が少なく、公園となっている本丸跡周辺に石垣や堀跡、鐘楼などがわずかに残っているくらいです。公園入口手前の売店には天守閣の模型が飾られており、往時をしのばせてくれました。また近くの中央公民館には、かつて鐘楼にあった釣鐘が展示されており、これも往時をしのばせる遺物として参考になるものでした。

      

次に、中山城同様、後北条氏の沼田城攻めの拠点の一つであったと考えられる長井坂城に行きました。ここの遺構の状況も中山城と似たようなもので、本丸周辺は山林で土塁・堀等がよく残っていますが、二の丸、三の丸等の周辺区画は畑となっており、将来的な整備が期待される城でした。なお、同城の下を関越自動車道が通っているという丘陵上の城跡なのですが、城跡に行くには狭い農道を行くしかなく、しかも駐車場もなかったので、行くのにかなり難儀をしてしまいました。

   

最後に、関東管領上杉氏の上野での拠点となった、平井城を見学しました。同城は15世紀~16世紀半ばまで関東管領山内上杉氏が根拠地とした由緒ある城郭ですが、道路沿いにある立派な土塁が当時の関東管領家の権威を物語るようでした。ただ、本丸跡とその付近が公園となっているのみで、遺構の大半は住宅地や畑、豚舎等になっていました。本丸跡東側は堀と木橋が復元されていましたが、本丸跡の公園と豚舎を隔てて向う側のため、訪れる人もほとんどおらず、由緒ある城だけに少しもったいなさを感じてしまいました。

  

 -以上、今回は群馬県の埋蔵文化財センターや群馬県立歴史博物館、世界遺産の富岡製糸場の見学も入れたため、これだけの城跡を巡るのが精一杯でしたが、まだまだ群馬県には見応えのある城跡がたくさんありますので、また機会を見つけて色々行ってみようと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講演会「北条早雲と韮山城」を行いました

2017-08-27 07:08:40 | 報告、その他お知らせ

室町幕府官僚から伊豆・相模の戦国大名となった「北条早雲」こと伊勢宗瑞は、永正16年(1519)の8月15日、韮山城でその波乱に富んだ生涯を終えました。再来年2019年は、北条早雲が亡くなって500年の節目にあたる年になります。

これから北条早雲(伊勢宗瑞)没後500年に向けて地元を盛り上げていこうということで、その第1弾の企画として、NPO法人伊豆学研究会の主催、伊豆の国市の後援で、8月13日(日)に歴史講演会「北条早雲と韮山城」が開催され、不肖私が講師を務めさせていただきました。一般的にはお盆の時期で(と言っても、伊豆地方は7月のお盆や8月1日のお盆の地域もありバラバラなのですが)、50人も来てくだされば上出来だと思ったのですが、予想を上回る80人以上の方が聴きに来てくださり、伊豆での早雲の人気が案外高いものだということが認識できました。

講演会は、伊勢宗瑞(北条早雲)の生涯と時代背景、韮山城の縄張と発掘調査で明らかになったことなどを、約1時間30分の間お話をさせていただきました。皆さん大変熱心に聴いてくださり、感激しました。

これから韮山城の整備計画も少しずつではありますが、進められていくようです。北条早雲(伊勢宗瑞)没後500年の再来年に向けて、行政(伊豆の国市)が伊豆学研究会や我が静岡古城研究会などと連携して、後北条氏ゆかりの各都市(小田原市、八王子市、寄居町など)も巻き込んで、住民が関心を持てるような催し物ができていけば、と思っています。

それはそうと、この講演会の取材に地元の『伊豆日日新聞』が来ていたのですが、翌日載った記事の見出しに「素浪人だった早雲」とあり、素浪人ではなく室町幕府の高級官僚の出身だった、とお話ししたのに反対のことが書かれ、ちょっとがっかりしてしまいました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする