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静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

第281回見学会「韮崎の城 ー白山城・新府城・能見城防塁ー」のご案内

2025-04-23 05:39:48 | 見学会のお知らせ

気が付けば4月も下旬にさしかかり、しばしば「夏日」となるような、暑さが身に応える季節となりました。我々にとっては、残念ながら「シーズン」も終盤になってまいりました。

さて、今回は静岡古城研究会、令和6年度最後の見学会となります第281回見学会“天正壬午の乱―若神子対陣・徳川編―”『韮崎の城』のご案内です。

天正10年6月、本能寺の変における織田信長の死を発端として北条氏と徳川氏の間で勃発した抗争、いわゆる“天正壬午の乱”。武田氏の旧領である甲斐・信濃の覇権を巡り北条方の布陣した城を特集した昨年の見学会に続き、今回は徳川方の布陣した白山城、新府城、能見城防塁の遺構を見学していきたいと思います。
会員の皆様は勿論、非会員の方のご参加も大歓迎です。たくさんの皆様のご参加をお持ちしております!

☆ 実施日    令和7年(2025)5月11日(日)
☆ 見学地    白山城・新府城・能見城防塁(山梨県韮崎市)
☆ 担当者    望月徹事務局長、大木一幸理事
☆ 参加費    会員6,000円、非会員7,000円
☆ バス      市沢さんのバス
☆ 脚力レベル  ★★★☆☆(3)
☆ 申込方法  お名前、電話番号(できるだけ携帯電話)を明記の上 s-kojouken@outlook.com まで
 ※今回の乗車場所は、JR静岡駅北口のみとなります
☆ 申込締切  令和7年5月7日(水)
☆ 定員28名
☆ 身支度    ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲物類
☆ 雨天決行  悪天候時、午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。

☆日程(予定)

8:00      JR静岡駅北口集合、バス出発
8:15           日本平久能山スマートIC → 東名高速道路
8:30      清水JCT→中部横断自動車道
9:15~9:25   増穂PA(トイレ休憩)
9:35      双葉JCT→中央自動車道→韮崎IC

10:00      武田八幡宮(韮崎市神山町)駐車場着

10:15~11:15  白山城見学
11:30      新府城駐車場着
11:45~13:30  新府城見学(昼食)
13:40      JR穴山駅駐車場着(トイレあり)
13:50~15:20  能見城防塁見学
15:30      JR穴山駅駐車場出発(トイレあり)
15:45~16:15  韮崎市民俗資料館(韮崎市藤井町南下条786-3)
16:30      中央自動車道韮崎IC→双葉JCT→中部横断自動車道
16:50~17:00  増穂PA(トイレ休憩)
18:00      東名高速道路清水JCT→日本平久能山スマートIC
18:20      JR静岡駅到着

 

(主な見学地概要)
【白山城】
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられ、後に青木氏から別れた山寺氏が領したという。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、開戦当初は諏訪口の監視、若神子対陣時には徳川軍の本営である新府城の背後を守る役目を担ったと思われる。
遺構は白山神社のある標高560mの山頂に築かれており、主郭、角馬出風な構造の北曲輪、枡形虎口など良好な保存状態で残る。


【新府城】
新府城は甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。標高521mの山頂の本曲輪を中心に、二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・両袖枡形虎口など武田氏特有の防御構造を今に見る事が出来る。本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。天正9年(1581年)1月の普請開始から一年足らずで完成し、翌天正10年(1582年)3月には武田氏の滅亡と共に灰燼に帰した数奇な運命の城であるが、同年6月、本能寺の変を発端として三河の徳川家康と相模の北条氏直が“主なき”武田氏旧領の甲斐・信濃の覇権を巡り侵攻。武田氏滅亡により役目を終えたと思われていた新府城は徳川勢の本陣となり、配下の軍勢が能見城など七里岩台上の城砦に布陣し、若神子城(北杜市)を本陣に展開布陣した北条勢と3ヶ月にわたりにらみ合う場となった。

【能見城防塁】
 能見城は新府城の支城として天正9年(1581年)に武田氏により築かれた。独立した城というよりも、能見城を含めた防衛ラインの中の主要な防塁と言った方が相応しい。新府城の外郭防衛ラインとなる能見城防塁は、東西幅約2kmの七里岩台地を複雑に屈曲しながら横断しており、数か所の防塁を有する。ただし、この七里岩を分断する長大な防塁については天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、同年6月2日の本能寺の変により空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領を巡り勃発した、いわゆる天正壬午の乱に際して、徳川軍によって築かれた防塁であるとする説もある。『家忠日記』では「新府城」と「新府山」を区別して記しており、この「新府山」が能見城の所在する穴山の小山を指していると考えられている。
七里岩を東西に分断する能見城防塁遺構は七里岩西端に西曲輪跡、能見城西側の住宅地に桝形虎口跡、能見城北側斜面に横堀と横矢枡形、その東側に中曲輪、邪曲輪跡、現在は尾名方神社の鎮座する東曲輪跡(黒駒砦)、七里岩東端を守る堂坂砦跡などを見る事が出来る。

 

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勝間田城跡の見学会が開催されました

2025-04-09 00:42:53 | 現地説明会情報・参加報告(静岡県内)
4月6日(日)は「城(シロ)の日」でした🏯
という訳で、この日の近辺で、ここ何年か(昨年は急用で欠席してしまいましたが)は、当会会員で「IQ城めぐらー」小城小次郎さんとペアを組んで、牧之原市の勝間田城跡のガイドをさせていただいております。
 
ーですが、今回当初の天気予報はほぼ100%「雨☂️」(>_<)
またしても「雨男」の本領発揮と思いきや、当日お昼頃に奇跡的に雨が上がり、傘をささずに見学会を開催することができました☀
参加者も約70名と盛況で、私はともかく、小城さんの名解説による案内で皆さんも満足そうでした(^^)/
 
勝間田城は文明8年(1476)、今川義忠の攻撃により落城したといわれており、今年が「落城」549年。来年が記念すべき550周年ということで、同じ年に落城したとされる菊川市の横地城とともに盛り上げていきたいと思います。
       
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第280回見学会「東三河・作手の城郭 -塞ノ神城・文珠山城・石橋城・亀山城・古宮城-」のご案内

2025-02-27 23:34:12 | 見学会のお知らせ

当会にとって第280回の節目となる3月の見学会は、下記のとおり、愛知県新城市作手の主要な城郭を巡ります。当会では平成19年(2007)以来の訪問となります。この地区には狭い範囲に武田氏、奥平氏による城郭が集中して存在し、当時の強い緊張状態が感じられる地域となっております。今回の見学会ではあらためて縄張から各城の位置づけ、機能などを考察してみたいと考えております。

なお、今回の見学会の日程は当初3月16日(日)を予定しておりましたが、諸般の事情により予定より1週間遅い3月23日(日)となりました。

会員の方は勿論、一般の方も大歓迎ですので、万障繰り合わせの上是非ご参加いただけますよう、申込みをお待ちしております。

☆ 実施日    令和7年(2025)3月23日(日)
☆ 見学地    塞ノ神城・文珠山城・石橋城・亀山城・古宮城(愛知県新城市)
☆ 担当者    澤田孝治理事、大木一幸理事
☆ 参加費    会員6,000円、非会員7,000円
☆ バス      市沢さんのバス
☆ 脚力レベル  ★★★☆☆(3)
☆ 申込方法  お名前電話番号(できるだけ携帯電話)乗車地(赤文字で記された場所)を明記の上、s-kojouken@outlook.com まで
☆ 申込締切  令和7年3月19日(水)
☆ 定員28名
☆ 身支度    ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲物類
☆ 悪天候時、午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。
 悪天候でも決行する場合は、長篠城址、設楽原歴史資料館などの見学に変更する。

☆ 日程(予定)
8:00        JR静岡駅北口集合、バス出発
8:10        静岡IC
8:45        小笠PA
9:10        三方原PA
9:20        三ケ日JC
            ↓
新東名高速道路
10:00       新城IC
10:10       道の駅「もっくる新城」 10分間休憩
            ↓
           国道150号線、県道21号線、国道301号線
11:10       道の駅「つくで手作り村」
11:40~12:05  塞ノ神城見学
12:35~13:15  文珠山城見学(昼食)
13:50~14:10  石橋城見学            塞ノ神城入口→亀山城は徒歩移動
            道の駅「つくで手作り村」
14:20~14:45  亀山城見学
15:00~16:00  古宮城見学
16:40~17:00  道の駅「もっくる新城」
             ↓
17:10       新東名高速道路 新城IC
17:50       三ケ日JC
18:00       三方原PA
18:25       小笠PA
19:00       JR静岡駅南口 解散


*雨天決行、悪天候の場合は、見学地、コースを変更する場合あり


☆(主な見学地の概要)

【塞ノ神城】
元亀年間に三河に侵攻した武田軍により築かれたとの説、武田氏と和睦した奥平氏が文珠山城とともに築いたとの説、さらに奈良時代に三河三大長者のひとりで作手郷開拓の祖といわれる米福長者によって築かれたとする説もある。武田方の拠点として築かれた古宮城と連携して作手往還をおさえる城として運用された。
築城年代は定かではないが元亀年間(1570年〜1572年)に奥平氏によって築かれたと推定される。


【文珠山城】
亀山城主の奥平氏が一夜にして築いたとも伝えられ一夜城とも呼ばれている。
標高661mの山頂に築かれており、現在は公園として整備され櫓を模した展望台が設置されている。奥平氏の居城である亀山城の北西、武田氏の拠点といわれる古宮城の南西、同じく武田氏の砦と伝える塞之神城とは尾根続きの山である単郭の城で、東西に長い楕円形の主郭には土塁と帯曲輪が巡らされている。

【石橋城】
築城年代は定かではないが応永年間に石橋弾正久勝によって築かれたと伝わる。 石橋久勝は奥平氏二代奥平貞久の二男で、この地に屋敷を構え石橋氏を称したという。
天文6年(1537年)石橋弾正繁昌は主君への謀反が露呈し、奥平貞勝の命を受けた土佐定雄によって攻められ郎党四十人余が討ち死にした。
石橋城は現在の慈昌院の境内となっており、境内の北から東側にかけて土塁と堀が残っている。

【古宮城】
古宮城が同時代の史料に全く登場しないため、城史については明らかではないが、『三河国二葉松』によると元亀2年(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたとある。独立丘陵を丸ごと全て削工を加えた遺構は圧巻で、随所に武田氏の築城技術が盛り込まれた姿を見る事ができる。街道上の要衝に立地し、当時武田氏が抗争していた三河の徳川氏攻略の拠点として築城されたと考えられ、『二葉松』によると小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守が在城したと記されている。廃城の時期についても明らかではないが、天正3年の設楽原の戦いで武田氏の勢力が大きく後退した時期の可能性が高い。
三河国北東部の山間地にある作手盆地の中央部に立地する。城のすぐ西には作手盆地を南北に縦貫する作手街道が走り、また城の南側には作手街道から分岐した街道が東に伸びるなど、山間部の交通の要衝といえる位置にあり、また、城は周辺からの比高30メートルほどの小さな独立した丘にあり、作手街道を挟んで西側には塞ノ神城のある本城山が迫っている。

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『早雲・北条五代と伊豆』刊行されました

2025-02-24 11:59:34 | 刊行物のお知らせ

すみません、昨年暮れ以来、すっかりご無沙汰してしまいました。

大変遅ればせながら、2025年初の投稿となります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、この度、2018年11月~2024年4月まで「伊豆新聞」に隔週日曜日に連載させていただいた『早雲・北条五代と伊豆』が書籍化され、伊豆市の長倉書店さんから出版されることになりました。

新聞の連載記事を集成したものなので文と写真しかありませんが、これをきっかけに、いずれ本格的な専門書も出せるようになれば、と身の程知らずなことも考えております…(・_・;)

足腰の丈夫なうちは伊豆や関東を中心とした城跡の踏査・研究に頑張りたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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第279回見学会「青梅の城と新発見の城郭遺構」のご案内

2024-12-30 01:51:07 | 見学会のお知らせ

 年明け令和7年の新春初の見学会のお知らせです。 当初 1 月 19 日に予定しておりました第 279 回見学会ですが、諸般の事情により一週遅れの 1 月 26 日の 開催となりました。突然の変更となりましたことをお詫び申し上げます。


 今回のテーマは「青梅の城と新発見の城郭遺構」です。今井城・藤橋城・勝沼城、新発見の「日向和田要害山城」の縄張りから読み取れる時代背景・築城主体等について、15 世紀後半~16 世紀後半の武蔵 多摩地方の争乱(享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、北条氏と両上杉氏・上杉謙信との抗争)との関係性も絡めながら考察していきます。会員・非会員を問わず、皆さんのご参加をお待ちしております!

(静岡古城研究会の公式ホームページ  https://skk-noroshi.jp も参照してください)

☆  実施日          令和7年(2025)1月 26 日(日)
☆  見学地          日向和田要害山城、勝沼城、藤橋城、今井城(東京都青梅市)
☆  担当者          望月保宏、稲垣雅一
☆  参加費          会員 6,000 円、非会員 7,000 円
☆  バス               市沢さんのバス
☆  脚力レベル     ★★★☆☆(3)
☆  申込方法     お名前電話番号(できるだけ携帯電話番号)乗車地(赤文字で記された場所)を明記の上、s-kojouken@outlook.com  まで
☆  申込締切     令和 7 年 1 月 22 日(水)
☆  定員 28 名
☆  悪天候時、当日午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。
  悪天候でも決行する場合(積雪等で東名高速道路が通行不能の場合など)は、長浜城、 三津城、三津新城などの見学に変更する。

☆  日程(予定)
8:00                 JR 静岡駅北口集合、バス出発
8:15               日本平久能山スマート IC →  東名高速道路
8:40                 富士川 SA
9:10~  9:20      足柄 SA(トイレ休憩)
(東名高速道路→圏央道  日の出 IC)
10:45                JR 青梅線宮ノ平駅(関東方面からの参加者合流)
11:00~12:30    日向和田要害山城見学、昼食
13:00~14:00    勝沼城見学  *バスは勝沼城下の光明寺(またはセブンイレブン)駐車
14:15~14:45    藤橋城見学(徒歩)*バスは藤橋城近く(北側の田園地帯)で待機
15:15~16:00 今井城見学
16:15     JR 八高線金子駅(関東方面からの参加者解散)
(青梅 IC  圏央道→東名高速道路)
18:20~18:30 足柄 SA(トイレ休憩)
19:00     富士川 SA
19:25     日本平久能山スマート IC
19:40     JR 静岡駅到着
*雨天決行、悪天候(積雪等)の場合は、見学地、コースを変更する場合あり


(主な見学地の概要)
【日向和田要害山城】
令和2年(2020)、田中俊輔氏により発見された城郭遺構である。築城主体・年代等については不明で あるが、尾根上に堀切や曲輪状の遺構が見られる。


【勝沼城】
三田谷(現青梅市域周辺)を勢力範囲とした国衆の三田氏により築かれた、比高約 30mの平山城。築 城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16 世紀半ば過ぎまで用いられた。 永禄6年(1563)三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改めら れた。詳しい廃城時期は不明だが、天正 18 年(1590)  豊臣秀吉による小田原攻めの後に廃城になったと 考えられている。
同城は加治丘陵端の尾根上に占地し、本曲輪を中心に、尾根方面に三の曲輪、丘陵端方面に二の曲 輪を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の曲輪には東面及び南面に馬出 しが設けられている。また、二の曲輪及び三の曲輪には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る 構造となっている。

【藤橋城】
江戸時代に記された『武蔵名勝図会』によれば、北条氏照の家臣・平山越前守が居城を構えたとある が、築城時期等それ以上の経歴は不明である。
城跡は霞川の南側、河岸段丘の一段高くなった場所の端に存在しており、比高は5mほどである。現 存する遺構は、東西約 70m×南北約 60mの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀等であるが、南西側と 北東側に隣接する場所にも曲輪が存在したと考えられている。現在は、藤橋城址公園となっている。


【今井城】
多摩川の北岸、加治丘陵の南辺にあり、入間川の支流、霞川沿いの低地に臨む比高約 10mの舌状台 地上に築かれており、現在も土塁や空掘が良好な状態で残されている。地元では、この城は今井氏が城 主であったと伝えられている。
城跡からは、発掘調査の際に板碑(青石塔婆)や宝篋印塔等が城跡内西側の土塁の中から打ち捨てら れたような状態で発見されている。板碑に刻まれた大永2年(1522)の年号等から、16 世紀前半にこの地 を治める勢力の交替があったと考えられている。
現在残る城跡の遺構は、主郭が四方に土塁を巡らした方形館の形状を呈し、その北側・西側に曲輪・ 土塁・堀が設けられており、16 世紀半ば以降に改修されたものと考えられている。遺構の様子から、この 改修には戦国大名・北条氏が関わっていた可能性が指摘されているが、改修の目的や廃城時期などは 不明である。

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