静岡古城研究会会長:もっちーのブログ

静岡古城研究会会長:望月のブログです。主に静岡県内の中世城郭関係の情報を発信します。※当ブログはリンクフリーです。

秋のミニ見学会「今川氏親の遠州侵攻 シリーズ①美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城」のご案内

2024-08-26 01:15:36 | 見学会のお知らせ

当会では、昨年度に引き続き今年度も、まだ残暑厳しいこの時期でも比較的楽に見学できる近場の山城を巡る「ミニ見学会」を企画しました。

内容は下記のとおりです。会員の方のみならず一般の方のご参加も大歓迎です。皆様、奮ってご参加ください。

 

■実施日:令和6年(2024年) 9月15日 (日) 9:30出発

※中止・延期の場合、前日18:00に決定し、ホームページ(https://skk-noroshi.jp)にて告知

※バス乗車場所が変更となる場合も前日18:00にホームページにてお知らせします

■見学先: 美人ヶ谷城・滝ノ谷城・松葉城   脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員3,000円/一般4,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR掛川駅南口ロータリー(*北口から変更になりました!)

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長、平井 登副会長、望月 徹事務局長

■締切日: 9月12日(木)までにメールにて s-kojouken@outlook.comまで(今回は途中乗車・下車は原則ございません)

■日 程: 9:30JR掛川駅北口出発 → 10:00~11:00美人ヶ谷城→11:15~12:30滝ノ谷城(昼食)→12:40 ~13:00新東名掛川PA(下り)トイレ休憩→13:30~14:30松葉城→15:30JR掛川駅(解散)

■見学地概要

①美人ヶ谷城(掛川市上西郷字美人ヶ谷)

 城に関する文献資料は無いが、城跡周辺を地元では「シロノダン(シローダン)」と呼んでいる。また山麓には「殿垣戸(トノガイト)」、「保戸垣戸(ホトガイト)」、「旗垣戸」、「太鼓櫓」と呼ばれる地名が残っており、江戸時代に編纂された『掛川誌稿』では「殿垣戸」と云所は石谷氏の宅趾とも云う……、山頂を櫓の趾といひ……」と記され、石谷氏の居館跡と伝えられている。

 倉真川とその支流である滝ノ谷川の合流点から北方へ600mの、南へ延びる尾根上の東西約100m、南北約250mの範囲に築かれた連郭式の山城である。同城の縄張構造及びその規模から、室町~戦国前期の今川氏親による遠江侵攻時の地域の混乱に際し、遠江西郷氏または石谷氏と推定される在地の豪族によって築かれた可能性が高いが、後世に改修を受けた可能性も否定できない。

なお、地名の「美人ヶ谷」とは、『掛川誌稿』によれば、山の禿げた状態を称する「ビンゼ谷」が転訛したものであると記されている。

②滝ノ谷城(掛川市上西郷)

 史料がないため、確かな城史は不明である。江戸時代後期の地誌・『遠江国風土記伝』や『掛川誌稿』などにも記述が無い。ただ、「ジョウヤマ」の地名が残され、城跡であるとの伝承はあったようである。南の美人ヶ谷城とは800mほどの距離にあり、城の西直下を峠を越えて原谷川流域の孕石方面に抜ける道(現・県道39号線)が通り、交通の要衝であるなど立地は類似するが、構造が大きく異なり、築城または改修の時期、もしくは築城者・築城目的が相違する可能性も指摘される。現存する遺構から考察すると、切岸の高さや虎口の状況は高度な技術を要し、近くに集落も無いことから、村や土豪の城とは考えにくく、「石ヶ谷氏(西郷氏)の城」よりも大規模な勢力による組織的な軍事行動の中で作られたものと推測される。

③松葉城(掛川市倉真字松葉・城山)

 佐野郡山口郷であった掛川市倉真字松葉に本拠を置く川井蔵人成信の居城松葉城は、島田市横岡にある志戸呂城から、大代、粟ヶ岳北麓を経て掛川へ至る山間地ルート上に位置している。現在は北側に新東名が通る。存在する倉真川南岸の丘陵上は東西500mと広大であるが、極めて痩せ尾根地形のため小規模な連郭式山城である。

 明応二年(1493)四月に勃発した、管領細川政元のクーデターと言われる「明応の政変」。細川氏に呼応した伊勢新九郎盛時(宗瑞)は堀越御所に足利茶々丸を攻めるも取り逃がしてしまう。

 翌明応三年八月、宗瑞は茶々丸を支援する遠江守護斯波義寛配下の原氏など国人衆を牽制するために遠江三郡に攻め込む。明応五年に入りそれを好機とみた今川氏親は遠江へ侵攻し、『円通松堂禅師語録』では九月に佐野郡山口郷(掛川市東部)を支配する松葉城主の川井(河井)蔵人成信が戦死したと伝えている。『掛川誌稿』では、島田市横岡の志戸呂城主鶴見播磨守が「明応五年九月十日、佐野郡倉真村松葉ノ城ヲ襲テ、城主河井蔵人成信カ為ニ討ル」とあり、今川軍侵攻に混乱した国人衆の争乱の中で討たれた事を伝えている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡古城研究会 令和6年度総会、第29回ふじのくに山城セミナーのご案内

2024-07-01 23:59:04 | 総会・研究発表会のお知らせ

すみません、忙しさに取り紛れてすっかりご無沙汰してしまいました。

さて、静岡古城研究会ではこの度、タイトルのとおり、令和6年度の総会と研究発表会「ふじのくに山城セミナー」を下記のとおり開催することとなりました。

申込期間が短く申し訳ありませんが、会員の方は勿論、会員外の皆様も奮ってご参加ください。

なお、この記事は静岡古城研究会の公式ホームページ https://skk-noroshi.jp/ にも掲載されておりますので、よろしくお願いいたします。

■日 時 : 令和6年 7月21日(日)

      9: 15~受付開始 、9: 35開会

■会 場 : 静岡市東部勤労者福祉センター「清水テルサ」 6階・研修室(大)

        (静岡県静岡市清水区島崎町223)

■交 通 : 〈電 車〉 JR 清水駅・東口より徒歩で約5分

         〈自家用車〉 「清水テルサ」に隣接する清水駅東口有料駐車場

■申込み : 氏名・住所・電話番号・総会参加・セミナー参加を明記の上、送信してください。

 送信先 : s-kojouken@outlook.com

◇締切日 : 7月17日(水)までに必着

■お願い

 ・昼食、飲物は各自ご持参ください。

 ・年会費(5,000円)、「ふじのくに山城セミナー」資料代(1,000円)を集金いたします。

 

☆内容・日程

 日時 : 令和6年(2024)7月21日(日)

 会場 : 静岡市東部勤労者福祉センター「清水テルサ」(静岡市清水区島崎町223)

 受付 : 9 :15~(役員は8 :45までに集合)

 会費 : 年会費5,000円・セミナー資料代1,000円

 

令和6年度 定期総会(9 :35~10 :35)

 ⑴ 開会のことば

 ⑵ 会長あいさつ

 ⑶ 議事  ・第1号議案 令和5年度事業報告

       ・第2号議案 令和5年度収支決算報告/監査報告

       ・第3号議案 役員改選

       ・第4号議案 令和6年度事業計画(案)

       ・第5号議案 令和6年度予算(案)

       ・第6号議案 ホームページ運用開始に伴う「のろし」等のペーパーレス化

 ⑷閉会のことば

 

ふじのくに山城セミナー  受付10 :30~ 参加費1,000円

 ☆第1部 10: 45~12: 00

◇基調講演 : 寺田光一郎氏(三島市教育委員会) 演題 「山中城の大雨による被災状況と再整備 」(仮題)

〈昼食・休憩〉 (12: 00~13: 00) ◎書籍販売

 ☆第2部 13: 00~16: 20

  ◇会員による研究成果発表

  ・発表①(13: 00~14: 00) 鈴木晃太朗氏「中世城館における座観式庭園の眺望域と方位観-戦国大名と“月”の嗜好-」

  ・発表②(14: 10~15: 10) 佐藤友男氏「愛宕山城の年代観-最終形態の築城主体を考える-」

  ・発表③(15: 20~16: 20) 望月保宏氏「三島市 河原ヶ谷城の縄張りについて」

 ◎閉会あいさつ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第277回見学会(1泊2日)「『越前朝倉氏の山城』-一乗谷城と成願寺城、戌山城、越前大野城をめぐる-」開催のご案内

2024-03-30 06:47:28 | 見学会のお知らせ

今年も当会恒例の一泊二日見学会の季節がやってまいりました。

今回のテーマは『越前朝倉氏の山城』と題し、朝倉氏の本拠地の一乗谷城をはじめ、成願寺城、戌山城、そして“天空の山城”越前大野城をめぐります。現在の福井県北部にあたる旧越前国を五代約100年間にわたって支配した朝倉氏一族が築城または整備したこれらの城を訪ね、朝倉氏の城郭の縄張りの特徴と変遷について考察していきます。

 健脚向きのコースとなっておりますが、多くの皆さまのご参加をお待ちしております!会員以外の一般の方の参加も大歓迎です!

■実施日:令和6年(2024年)5月11日 (土)~12日(日)

※雨天決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

■見学地:  【1日目】一乗谷城、一乗谷朝倉館、一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井市)

【2日目】成願寺城(福井市)、戌山城、越前大野城(大野市)

■脚力レベル ★★★★★(5/5)※健脚コース

■参加費: 会員 26,000円/一般 27,000円

■宿泊地: 東横INN福井駅前(☎ 0776-29-1045)

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー、日本坂PA、小笠PA、三方原PA

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月保宏会長・稲垣雅一理事

■締切日: 4月10日(水)までにメール、s-kojouken@outlook.comまで

        ※必ず希望乗車地を明記してください

■日程

【1日目】  7:30 静岡駅北口ロータリー出発

7:40 東名静岡 IC

7:50 日本坂 PA

8:20 小笠 PA

8:40 三方原 PA

(東名→名神→北陸道)(昼食はバス車内で)

       12:00 福井 IC

       13:00~15:00 一乗谷城見学

       16:00~17:00 一乗谷朝倉氏遺跡博物館見学

       18:00 ホテル着

       19:00~21:00 懇親会(ホテル近く「くずし割烹ぼんた」120分飲み放題)

 

【2日目】  8:15 ホテル出発

9:30~10:30 成願寺城見学

11:00~11:15 道の駅 一乗谷あさくら水の駅(トイレ休憩)

12:00~13:30 戌山城見学(昼食)

14:15~15:00 越前大野城見学

15:30 荒島 IC

(中部縦貫道→東海北陸道→東名)

18:30三方原 PA

18:50 小笠 PA

19:20 日本坂 PA

19:30 東名静岡 IC

19:40 静岡駅南口着、解散

※悪天候、または時間の都合により、見学地・コースを変更することがあります

 

■主な見学地概要

【一乗谷城】(福井市城戸ノ内町)

戦国大名朝倉氏の本拠地一乗谷の詰城である。軍記物である『朝倉始末記』では、文明三年(1471)に7代朝倉孝景(英林)が居所を一乗谷に移したとあるが、今日では3代貞景の代の15世紀前半には、すでに一乗谷を根拠としていたと考えられている。

山上の詰城がいつごろ築かれたのかは詳らかでない。天正元年(1573)8月13日、浅井氏の小谷城救援に出陣した朝倉軍は、大嶽砦の失陥などを受けて撤退を図ったが、織田信長軍に追撃を受けて潰走した(刀根坂の戦い)。同月15日、朝倉義景はほうほうの体で一乗谷に帰還したが、留守の将兵は大半が逃散しており、翌16日に大野郡へ逃れた。同月18日、織田軍は一乗谷に攻め入って火を放った。一乗谷城(一乗谷山城)も、さしたる抵抗もなく落城・炎上したものと推測される。

一乗谷城の遺構は、一乗谷朝倉氏館群の東背後に聳える標高443mの一乗山上に築かれている。

北側の大手からは千畳敷・観音屋敷・宿直・月見櫓として広大な郭群が区画されており、南の尾根筋に一の丸、二の丸、三の丸と遺構が連なっている。一の丸から三の丸は堀切で区切られ、側面には幅2、3mの短い畝状竪堀群が広がっている。千畳敷・観音屋敷が主郭と考えられ、低土塁で区切られており、奥深い山中とは思えないくらい広い削平地が同城の見所の一つとなっている。

(佐伯哲也『越前中世城郭図面集Ⅱ-越前中部編(福井市・越前町・鯖江市)-』(桂書房)より)

 

【成願寺城】(福井市成願寺町)

 築城年代等の詳細は不明で、『朝倉始末記』には朝倉氏重臣の居城であったと記されている。

東郷槙山城(福井市小安)とともに朝倉氏の本拠地である一乗谷の西方を守備する出城として機能したとされ、東郷槙山城を二ノ丸、成願寺城を三ノ丸と称していたほどの重要な軍事拠点であった。

しかし、城主の前波吉継は越前に侵攻してきた織田信長に内通し、朝倉氏を滅亡に追いやった一因をつくった武将であった。吉継は、朝倉氏滅亡後は織田信長に越前国守護代を任され、一乗谷城へ入城。名も桂田長俊と改めたが、天正2年(1574)に加賀一向一揆が起こり、桂田長俊は一揆勢と結んだ富田長繁により自刃に追い込まれ滅亡した。その後、成願寺城も廃城となったと考えられる。

成願寺城は成願寺町の北背後に聳える標高214.0mの山に築かれている。成願寺城は三角点のある山頂(上の城)とそこから西へ伸びた尾根先にある下の城がある。

成願寺城の上の城は三角点のある山頂部に堀切を挟んで東西二郭あり、東の主郭は分厚い土塁で囲まれた小さな曲輪である。この東西二郭の主郭部を東は二重堀切、西は弓形状になった堀切と竪堀、南側面には畝状竪堀群を設けるなど厳重に遮断している。

主郭部から東へ続く尾根には古墳の周濠と堀切が混ざりながら続いている。西尾根も同様であるが、土橋の架かった大きな堀切、北へ続く尾根の先端には堀切が確認できる。

主郭部の南下には波着寺跡があり、山岳寺院の上に中世山城が存在している。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

【戌山城】(大野市犬山)

築城年代は定かではないが、南北朝時代の康暦2年(1380)頃に越前守護斯波義種によって築かれたといわれる。義種は越前守護斯波高経の子(斯波義将の弟)で大野郡を賜って戌山城を居城とし、大野斯波家(大野氏)の祖となった。以降、『城跡考』によれば、同城には斯波氏→大野氏→朝倉氏が居城し、朝倉孫八郎景鏡が亥山城(大野市日吉町)に居城を移すまで、大野郡の主城として機能したという。その後、天正元年(1573)朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、金森長近が大野郡を領して戌山城に入ったが、亀山の地に大野城を築城して移ったため廃城となった。

戌山城は飯降山から北東に派生した標高約325mの山に築かれている。遺構は北端最高所に主郭を置き、そこから北西、北東、南の三方に伸びた尾根に曲輪を配し、南の標高300mの所に南曲輪群を配している。

主郭はそれほど広い曲輪ではないが、三方に伸びる尾根を大堀切で遮断し、山腹には畝状竪堀群をビッシリ配して厳重に防御する。主郭の北西尾根にも小さな曲輪があり、ここも周囲を大堀切と畝状竪堀群によって防御する構造である。主郭から北東に伸びる尾根には小さな堀切や二重堀切があり、先端に小曲輪群、側面には連続竪堀と一部横堀状の遺構がある。南曲輪群は主郭から300m程離れた南峰にあり、ここも各尾根を堀切で遮断しているが、こちらは畝状竪堀は見あたらない。

(佐伯哲也『朝倉氏の城郭と合戦』(戎光祥出版)より)

 

【越前大野城】(大野市城町)

 天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて大野郡の一向一揆を収束させ、その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めた。

当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守、2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていた。 その石垣は、石を立てず横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で築いた石垣である。

同城は長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に彼が飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わった。 江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めた。

 天守を中心とする建物は、江戸時代に幾度となく火災に見舞われたが、安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)にようやく再建された。 その後明治維新を迎え明治4年(1871)廃藩となると、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残された。

現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものである。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣山城(神奈川県小田原市)に行ってきました

2024-03-03 10:51:07 | 県外の城郭の情報

先日、現在私が伊豆新聞で連載している「早雲・北条五代と伊豆」の取材で、神奈川県小田原市の石垣山城に行ってきました。

石垣山城は、前回行ったのが2016(平成28)年9月の織豊期城郭研究会の時だと思いましたので、7年半ぶりの訪城となります。近いのにすっかりご無沙汰してしまいました。

その間、小田原市の方で整備作業が進み、前回訪れた時には(夏場ということもあったのでしょうが)かなり草が生い茂っていたのですが、すっかりきれいになって石垣をはじめとする遺構が大変見やすくなっていました。小田原市の担当者及び協力者の皆様に感謝です!

訪城した当日は天候に恵まれ、城跡からは小田原の町をはじめ湘南の海や三浦半島、房総半島が一望に見渡せました。

伊豆新聞での連載も、「小田原合戦」の大詰めとなり、あと3回ほどを残すのみとなりました。夏頃にはまとめて本にする予定でおります。

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第276回見学会「天正壬午の乱ー北条編-『異形の城』」開催のご案内

2024-03-03 10:35:27 | 見学会のお知らせ

2024年に入ってから気が付けば3月になっておりました。

昨年末以来すっかり投稿をサボってしまい、今年最初の投稿となります。遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。

さて、今回はきたる3月17日(日)に開催される、276回目となります見学会、『天正壬午の乱—北条編—「異形の城」』についてご案内いたします。今回は山梨県北杜市にある獅子吼城、旭山砦、谷戸城の3城をめぐる見学会です。いずれも天正10年(1582)、本能寺の変を機に武田氏旧領の領有をめぐり勃発したいわゆる“天正壬午の乱”において北条軍が布陣した城で、各々が特異な縄張りを有しております。これらを現地で皆さんと楽しく考察していきたいと考えております。

下記のとおり開催いたしますので、皆様ふるってご参加ください。勿論、会員以外の方も参加も大歓迎いたします。

■実施日:令和6年(2024年)3月17日 (日)

※小雨決行、悪天候の場合は見学地・コースの変更あり

 ※中止・延期の場合、当日AM6:00に決定して連絡

■見学先: 獅子吼城、旭山砦、谷戸城  脚力レベル★★★☆☆(3)

■参加費: 会員6,000円/一般7,000円

■乗り物: 市沢さんのバス

■乗車地: JR静岡駅北口ロータリー

■身支度: ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類

■担 当: 望月 徹事務局長

■締切日: 3月13日(水)までに メール、s-kojouken@outlook.com まで

■日 程: 8:00JR静岡駅北口出発 → 日本平久能山スマートIC→中部横断自動車道→

 9:30増穂PA(トイレ休憩)→ 中央自動車道→10:30~12:00獅子吼城見学(昼食)→12:15

北杜市高根体育館駐車場着→(徒歩1.5km)→旭山砦見学→(徒歩1.5km)→14:00体育館出発

→14:20北杜市考古資料館・谷戸城見学→16:00資料館出発 帰途へ→18:00JR静岡駅南口

(解散)

 

■見学地概要

【獅子吼城】

築城時期は定かではない。応永年間(1394-1428)には江草兵庫助信泰が居城していたといわれ、豊富に散在する石材を利用した縄張が特徴。

武田氏支配の頃には信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として、また塩川沿いの狼煙中継点として機能した。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、その後の本能寺の変で織田信長が死去すると武田氏遺領を廻り、徳川氏と北条氏の間で抗争が勃発(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、獅子吼城には北条勢が立て籠もったが九月、家康配下の服部半蔵、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲を掛けて落城させた。その後和睦が成立し、甲斐が徳川領となると獅子吼城は廃城となった。

【旭山砦】

甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。
武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたとある。佐久往還を抑える要衝であり、佐久経由の部隊を駐留させる目的と考えられるが、完成を見ずして放棄された。

縄張に同時期に築かれた御坂城と共通する疑問点などが見られ大変興味深い。

【谷戸城】

築城年代は定かではないが鎌倉時代に逸見清光によって築かれたと云われる。

八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近。地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群。東西を東衣川、西衣川に画され、北側は尾根に通じ三方は急崖に囲まれている。

土塁の内側に穿たれた横堀などきわめて稀な縄張構造が特徴。

 天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、織田氏の勢力下となったが、織田信長が本能寺の変に倒れたことにより、徳川氏と北条氏が甲斐に侵攻して草苅り場となる。この天正壬午の乱で谷戸城は北条氏方の城となり、この北条氏によって城が改修されたとされる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする