8月30日(土)、7月19日(土)~8月31日(日)まで横浜市歴史博物館で開催されていた企画展「蒔田の吉良氏」の見学と、関連の研究講座「吉良氏研究の最前線」(講師:東京大学大学院 谷口雄太氏)の聴講に行ってきました。
吉良氏は三河国吉良荘を出自とする足利氏の一族で、主に「京都吉良氏」と「武蔵吉良氏」の二つの流れがあります。
「京都吉良氏」は戦国時代には三河に戻り今川氏の従属下に入ったものの徳川家康の台頭で衰退し、江戸時代には高家となり、赤穂浪士の討ち入りでおなじみの吉良上野介義央を出す家です。それに比べると武蔵吉良氏はやや地味ですが、江戸城や世田谷城、ついで蒔田城を本拠として、後北条氏に従いつつもある程度独自の権力を維持した「国衆」で、江戸時代には旗本、元禄期以降は高家として存続する一族です。谷口氏の研究講座では、吉良氏は室町時代、石橋氏・渋川氏とともに「足利御三家」として絶大な権威を有し、武蔵吉良氏も鎌倉府の「公方-管領体制」のもとで権威ある存在として一目おかれ、後北条氏も同氏を重視して独自の支配権を認めていたようです。
企画展の展示では、蒔田城関係の資料の他に、世田谷城、喜多見陣屋出土遺物、武蔵吉良氏やその家臣の江戸氏・大平氏等に関する文献史料が展示されていました。伊豆に関係のある北条幻庵(氏綱の弟)や山木大方(吉良氏朝の母)の文書や、北条氏政が吉良氏家臣の大平氏に興国寺城の城版を命じた文書なども展示されており、案外静岡県にも関係ある史料が出ていたことは新鮮な驚きでした。
実はその前に、蒔田城の跡と吉良氏の供養塔がある勝国寺に行ってきましたが、蒔田城跡の大部分は横浜英和女学院の校地となっており、周辺にわずかに堀跡ではないかと思われる地形などが認められるだけでした。
勝国寺は写真のとおり閑静なたたずまいの寺院で、境内には古墳なのか、土塁の一部なのか、それとも後世のものなのかわからない、塚状の高まりがありました。吉良氏の供養塔は、全て近世の補修又は造立のものと思われましたが、向かって右から二番目の五輪塔は吉良政忠の供養塔といわれ、地輪に「文亀二年(1502)」の紀年銘が読み取れました。
静岡古城研究会では、9月21日(日)に三河の吉良氏関係の城郭の見学会に行きますが、それに先立っていい「予習」ができました。