内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

書物連鎖という病に侵された脳

2021-03-11 23:59:59 | 雑感

 読書がお好きな方ならば、同じような経験を何度もされていることと思いますが、ある本を読んでいて、その本自体を面白いと思って読んでいることが前提になりますが、その本の中で高く評価されている本、あるいは言及されていてその内容が気になる本をすぐに読みたくなるということが私にもしばしばというか、ほとんど毎日のようにあります。
 困るんですよね、これ。気になる本がすぐに買いたくなるし、電子書籍の場合、購入手続き完了と同時に、つまり「買いたい→買おう」という気持ちの動きの数秒後には入手できてしまうから、誘惑に抵抗するのに一苦労し、結局、誘惑に負けて、買ってしまうということを性懲りもなく繰返しています。これが紙の本ならば、場所を取るから、自ずと限界が目に見えるわけですが、電子書籍の場合、それがありません。
 先月から今月にかけて、ちょっと病気じゃないのかと自分で疑いたくなるほどの購入量なのです。購入した書籍のデータはすべて即座にエクセルの表に入力し、月額がいくらになっているかはリアルタイムで把握できるようにしてあるのですが、「やぁ、結構買っちまったなぁ」と慄きつつ、「これも参照しておいたほうがいいでしょう」という悪魔の囁きにやすやすと唆され、「だって、紙版よりずっと安いじゃん」という理由にもなっていない呟きとともに買ってしまうので、一体何のためにエクセルに入力しているかわからないという体たらくです。
 この「書物連鎖」という病に侵された私の脳は、それが快楽にまでなってしまっていて、少数の書物を愛読するという願望からは日々遠ざかりつつあります。ああ、情けなや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


本来外在的なものを内面的規範として定着させた教育とそれを可能にした社会の安定性

2021-03-10 05:00:38 | 読游摘録

 恥を極度に恐れる武士の精神性はどこから来るのか。相良亨の『武士道』の中にこの問いの答えは見つからない。相良が採用した問題へのアプローチの仕方からして、これは当然の帰結だと言わなくてはならない。なぜなら、江戸時代の武士たちに重圧として働いていた「世間」についての言及が皆無だからである。本書に「世間」の語が見いだされるのは、わずかに四回、しかもそれらはすべて他者の著作からの引用の中である(和辻哲郎『日本倫理学思想史』からの同一引用箇所に二回、『葉隠』『福翁自伝』からそれぞれ一回)。つまり、相良自身は『武士道』の中でただの一度もこの語を用いていない(唯一の例外は「仏教は本来、出世間的であるが、武士の覚悟はあくまでも世俗内での心の持ち方である」)。しかし、「世間」を抜きにして、武士固有の恥に関する精神性を理解することはできない。
 問題を思想史研究の分野に限定するとしても、そもそも武士一般にとっての恥の理想形態を規定しようとする試み自体に理論的困難がある。恥を恐れることが武士の行動規範としてことのほか重要性をもってくるのは江戸時代のことである。江戸時代において「恥」意識は「世間」意識と不可分である。このことは山本博文の『武士と世間』(中公新書 二〇〇三年)を読めば明らかである。しかも、この「世間」はいわゆる外在的強制力ではない。なぜなら、「世間」は行動の規範として武士の精神に内面化されているからである。
 山本博文は、同書の「はじめに」の中で、世間の理不尽なまでの厳しさをよく示した作品として森鴎外の『阿部一族』に言及した後、こう述べている。

近世の厳しい「世間」は、中世末期から近世に至る長い間に形成されたと考えられるが、最大の要因は、統一政権が成立し流動的な社会が固定化されてきたことによると考えられる。そのなかで「世間」が、現在の我々が使う「世間」とほぼ同じものになってきたのだろう。武士にとっての藩社会や、町人や農民にとっての町や村といった共同体社会が成立するだけでなく、幕藩体制のもとで、日本全国どこであってもそれぞれの「世間」が付いて回るのが近世社会の特徴だった。

武士にこそ「世間」が最も大きな重圧としてのしかかっていた。武士には名があるからである。名もない町人ならば、「世間」に背を向けたところで、小さな「世間」から陰口を言われるぐらいで済むが、武士が武士の「世間」に背を向ければ武士社会全体からの厳しい制裁があった。この「武士の世間」こそがわが国の道徳意識を考える上での重要な研究テーマである。

 本来外在的な規範が精神に内在化され、もはやそれから逃れられなくなるのはどのようにしてなのか。それは幼少期からの徹底した教育を通じてである。実際、恥の感覚(廉恥心)は、武士の子がもっとも早くから教え込まれる徳の一つであった。「笑われるぞ」「名を汚すぞ」「恥ずかしくないのか」等々、子どものころから言われつづけることによって、この感覚は武士の強固な内面的規範として定着し、その意識と行動を規定した。この教育の徹底化を可能にしたのが江戸時代の社会の安定性である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


恥を知る精神の根底で働いている自他一体観と内外一体観

2021-03-09 00:12:17 | 読游摘録

 いうまでもなく、すべての人が同じような状況で同じように恥ずかしさを覚えるわけではない。世間から見れば恥ずかしいことかも知れないが、自分は少しも恥ずかしく思っていないというとき、二つの場合が考えられる。一つは、外的基準と内的基準は互いに別次元であり、それぞれに別の判断であると考える場合、もう一つは、世間の基準の方が間違っているのであり、それに従って自分が恥じなくてはならない理由はないと考える場合である。このような価値基準の二元論も価値基準の相対論も克服されたところで相良亨は武士の「恥」の理想形態を考えたいのだろう。

われわれは、いわば、自他の一体観が恥の精神の根底にあることをしった。この一体観はさらに人倫観・宇宙観の問題として深い底をもっているけれども、この自他の一体観とともに、ここでさらにどうしても指摘しておかなくてはならないのは、内外一体観ともいうべきものである。すなわち、字面通りに理解すれば、他者に恥じ、他者の目を問題にする時、他者の目にうつるものは、外にあらわれた行為であり、「心に心を恥じる」場合には、他者には不可視な内面であるということになろう。一方が外面に表現された行為であり、他方が内面であるとおさえれば、二つの恥は、互に異質的であるといわざるをえなくなる。はたしてそうであろうか。ここにおいて、われわれは、どうしても武士における内と外との連関について考えざるをえなくなるのである。(104‐105頁)

ここでは、もっとも武士的といいうるものをとり出すことが問題であるが、かかる観点からは、武士にとって、心と行為、内面と外面とは判然と別たれるものではなかったということが出来よう。したがって、他者の目を恥じるというのも、本来ただ内面と切りはなされた外面をのみ恥じるのではなく、心に心を恥じるというのも、行為から切りはなされた心を自ら恥じるというのではあるまい。自他の一体観とともに、内外の一体観が恥を知る精神の根底に働いていたといえよう。

 恥を知る精神の根底に働いていると相良がいう自他内外一体観はいったいどのようにして獲得されるのだろうか。誰にでも本来自ずと備わっているが必ずしも自覚されてはいない普遍的な「良心」に気づき、それに従うことがその獲得を可能にするのだろうか。しかし、たとえこの「良心」をそれとして認め、さらにこの「良心」が自他内外一体観を基礎づけていることを認めるとしても、それらは恥を知る精神の形成の必要条件ではありえても、十分条件ではない。自他内外一体観に基づいて生きるとき、至らぬところのある自分をなぜ「恥ずかしい」と思わなくてはならないのか。
 恥ずかしいと感じるのは、ある基準に照らし合わせて反省的に思考した結果ではない。ある行為・言動・振舞い、あるいはそれらの不履行が直接的に引き起こす感情である。そこに反省が介在する余地はない。もちろん、最初は恥ずかしいと思わないで行っていたこと、あるいは行わないことを恥ずかしくは思っていなかったことについて、あることがきっかけになり、あるいは立場・状況が変わって、恥ずかしくなるということはある。しかし、その場合でも、恥ずかしさは理性的な判断の結果として発生するのではない。自ずと直接的に感じられる恥ずかしさそのものが内在化された価値判断にほかならない。
 この恥ずかしさとして内在化された直感的価値判断はどのようにして獲得されうるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


普遍的な「良心」に恥じるとはどういうことなのか

2021-03-08 06:15:13 | 読游摘録

 明眼の人あるいは尊敬すべき他者に鑑みて己を恥じるということが成立するためにはどのような理解がその前提になるのだろうか。相良はこう答える。

ここにあるものは人間の良心の一様性の理解である。ここからは、人は何といおうと自分はこうすべきであるという例外者的な生き方の主張は生れて来ない。尊敬する他者の発言、他者の目は、自己に内在する良心を目覚ませるものである。我心に恥じるのも、他者に恥じるのも、この普遍的な「良心」に恥じるのである。この良心は、万人によって自覚されてはいないが、心ある者はそこに目覚めており、われもまた目覚めるべきものなのである。目覚め、しかしてそれによって行為する者が尊敬に値するのであり、自己もまたかかる尊敬に値する武士たるべきであるのである。(104頁)

 自己に内在する普遍的な「良心」とはなんであろうか。その良心をまだ自覚できていない人間がどのようにして心ある他者における良心に気づけるのだろう。他者に対して自ずと懐かれる尊敬の念がその他者における良心ゆえであるとどうしたら確かめられるのだろう。凡愚なる老生にはわからない。
 この良心は尊敬に値する者の人格そのものではない。それは己と他者において自覚されるべき普遍的ななにかでなければならないからである。しかし、もしそうならば、なぜ他者を媒介としなければならないのだろう。己に自覚されていないだけで、己のうちにも本来あるものならば、それが普遍的なものならば、内在的自覚の方法をこそ探すべきで、すでに目覚めた他者に対して己の至らなさを思い知るという「恥を知る」過程は必然的に要請されるものではない。
 この良心は、経験を超えた普遍的価値としてそれ自体で実在するものではないはずである。しかし、己のみでは自覚に至り得ないもの、必ず明眼の他者を手本とし、それを基準として受け入れ、その基準に相応しくない己を恥じることを通じてしか至り得ないものとはなんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「明眼の人」とはどんな人のことか

2021-03-07 11:00:23 | 読游摘録

 相良亨による恥の考察を追っていこう。
 昨日見た『菊と刀』に対する批判の後、相良は『甲陽軍鑑』の次の箇所を引く。

侍武士道のかせぎは、申すに及ばず、一切の儀につゐて、善悪の儀、人を証人に立つるは、おろかなり。只我心を証人に仕候はゞよからんと存ずる。是れ如何といへば、馬場美濃いかにもそれ尤もに候と申さるゝ、但しさやうの人は我心清きまゝに、大略の人をあさくみて、自慢の意地あるものなり。とてもの儀に、慢気なくして、年増をばうやまい、年おとりを引きたて、同年をば、たがひにうちとけ、其中によく近づく人のたらぬ事ある共、よく異見を仕り、惣別人も我もよきやうにと存知、少しもへつらふたる儀いでば、心に心を恥る人は、何に付けても、大きにほめたる事なりといふて云々(99頁)

 ここには、「只我心を証人」とし、「へつらう」ことなく「心に心を恥る」武士が理想として描かれている。相良が強調するのは、恥には、「自分の心を自分の心に恥じるといった用法」があるのであり、『菊と刀』のいうような他律的な恥だけが恥ではないということである。この点は昨日見た作田啓一の『菊と刀』批判と重なる。相良は、「自らに恥じる恥」もあったのであり、他者に恥じる恥と合わせて、「二つの恥の綜合に恥の構造をみてとらなくてはなるまい」と言う。
 この綜合は、二つの恥の単なる並列ではないのはもちろんのこと、内と外との二面性に還元されるものでもない。「恥」を考えるとき、「その根底に自他の一体性がひかえていることをしらなくてはならない」と相良は主張する。しかし、この自他の一体性は直接的自然的所与ではない。それは、心ある、言い換えれば、心の目覚めている自他の一体性である。

ここに他者に恥じる他者が、単なる一般的他者ではなく尊敬に値する他者であったことを知らなければならない。嘗て道元の『正法眼蔵随聞記』にも「恥ズベクバ明眼ノ人ヲハジヨ」とあった。武士が恥じたのは、自己でありまた明眼―尊敬すべき他者であったのである。(103‐104頁)

 武士が自らを恥じたのは、他者一般に対してでもなく、世間一般に対してでもない。尊敬すべき他者に対してである。その尊敬すべき他者とは外的権威のことではない。「明眼の人」である。それは「物の道理のよく見通せる人」(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳注 ちくま学芸文庫 1992年)である。武士を論ずるのに道元の言葉を引くのは、牽強付会の誹りを招いても仕方がないが、それは措くとして、ここでの問題は、その尊敬すべき他者である「明眼の人」とは、相良にとってどのような人かということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


本来の恥の精神とは

2021-03-06 23:59:59 | 読游摘録

 相良亨も『武士道』「ニ、名と恥」の冒頭で言及しているように、日本文化における恥といえば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』がすぐに思い出される。この「古典的名著」に対して相良が厳しく批判している点は、その恥の規定の仕方である。

Shame is a reaction to other people’s criticism. A man is shamed either by being openly ridiculed and rejected or by fantasying to himself that he has been made ridiculous. In either case it is a potent sanction. But it requires an audience or at least a man’s fantasy of an audience.

恥は周囲の人々の批判に対する反応である。人前で嘲笑されたり拒絶されたりするか、そうでなければ、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因となる。いずれの場合も、恥は強力な強制力となる。しかしそれが作動するためには、見られていることが必要である。あるいは、少なくとも見られているという思い込みが必要である。(角田安正訳 光文社古典新訳文庫 2008年)

 この恥の規定に対する批判は、夙に作田啓一によって行われている。光文社古典新訳文庫の角田安正の解説からその部分を引こう。作田によれば、ベネディクトのいう「恥」は実のところ公恥(public shame)のことであって、所属集団の期待や要請に応じられなかった場合に起こる拒絶や嘲笑に起因するものだという。作田は、公恥以外にさまざまな種類の「恥」があると論じる。角田は出典個所を明示していないが、解説末の参考文献一覧に作田の『恥の文化再考』(筑摩書房 1967年)が挙げてあるから、同書からの引用であろう。相良の『武士道』の初版が刊行されたのは『恥の文化再考』の翌年、1968年である。相良が1921年生まれ、作田は1922年生まれ。
 相良によれば、この外的強制力に基づいて善行を行うのは「恥の堕落形態」である。恥には確かにこのような形への堕落の可能性があるが、しかしそれは恥本来の姿ではないと言う。

つまり恥をしるとは、人の目を気にする姿勢、したがって人の目のとどくところでは行為をつつしむが、人の目のとどかないところでは何をしてもよいとする姿勢と理解するのである。確かに、恥の精神が堕落した時、このような様相が呈されてくるであろう。だが、この堕落形態を以て、本来の恥の精神とすることは許されない。恥をしる精神が、それなりに高められた時のあり方、今これを本来の恥を知る精神といえば、それは『菊と刀』の指摘するごときものではない。(98‐99頁)

 この本来の恥の精神を相良は武士の姿の中に探そうとする。ここでもまた、歴史的事実としてそういう本来の恥の精神が生きられていた場合を史料に基づいて実証するというよりも、様々な文献を渉猟しながら、恥の理想形態を自ら彫琢しようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最強最善の武士像を彫り上げることで自らを倫理思想史の中に書き込む ― 思想史家としての「覚悟」

2021-03-05 17:27:22 | 読游摘録

 相良亨の『武士道』は、鎌倉時代から江戸時代に渡る原典資料から縦横に引用しながらも、いやそうであるからこそ、ある特定の時代の武士の生き方の実像を、資料に基づいてできるだけ「客観的に」描き出そうとしてはいない。すでに、「まえがき」の中で、著者自身、あまりにも歴史的変遷を無視した議論であるという批判を予想している。その予想される批判に対して、このように答えている。

われわれが大地に立って足下の地面をみれば、視界に入るのは、たかだか数坪である。だがビルの屋上から見下せば、一小都会は一望の下に見下せる。今もし人工衛星から地球に向けてシャッターを切れば、地球の反面が円形としてうつし出されてくる。私は今武士の全景が全体的に見渡せる距離から武士をとりあげているのである。武士の姿勢に歴史的な変遷があったことも知っているが、今はその変貌が問題なのではなく、変遷のなかに貫いているもの、あるいは変遷のなかにその輪郭をあらわにしてきたものが問題である。(11頁)

 共時的なものに対する視点の距離と視界の広がりの変化によって起こる視像の変化を類比的に歴史的事象に適用するのにはかなり無理があるように思う。しかしそのことは今措く。そもそも一望の下に見渡せるような全景があるのだろうか。「変遷のなかに貫いているもの」は仮説的に想定されているに過ぎないのではないか。「変遷のなかにその輪郭をあらわにしてきたもの」にしても、何かが時間の経過ともにより明確な形を取るようになることが前提されているが、これも仮説的な想定に過ぎないだろう。そういうものがあると仮定して、それに見合う史料を寄せ集めて武士像を仮構することにどんな意味があるのだろうか。本来、どこにも実在しなかった虚像を描き出しただけに終わるのではないのだろうか。これらの問いは相良の方法論に対する批判ではない。私自身の問いなのだ。このような方法でいったい何に迫ることができるのだろうかと自ら問わざるを得ない。
 これらの答えのヒントはもちろん本文のいたるところにある。たとえば、「二、名と恥」の第一節で、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』から「われわれは他をさばくにあたって公正で寛大でありたい。われわれは敵の最善最強のものと相対したいと思う」という一節を引いて、ルース・ベネディクトにはこの公正がないと痛烈に批判した後、「われわれは、彼とともに我の最強最善なるものをまず理解すべきではなかろうか」と述べている。
 つまり、まず歴史の中から最強最善の武士像を彫り上げることを相良は試みようとしているのだ。その武士像に対する批判は、その後、あるいはその過程で徐々に研ぎ澄まされていく。このようにして日本倫理思想史に自らを書き込むこと、それが倫理思想史家としての相良の「覚悟」なのだと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


論理がそのまま倫理である生き方としての「ありのまま」

2021-03-04 07:48:34 | 読游摘録

 相良亨『武士道』「一、ありのまま」「6 いいわけの否定」の続きを読む。昨日引用した箇所の直後に井原西鶴『武道伝来記』から「不断に心懸の早馬」の節が詳しく紹介されている。その紹介の直後の段落を全文引く。

 事実性を重んじ、いいわけをいさぎよしとしない精神は、ありのままの己を以て世に立つ精神である。ありのままに生きるとは、行為的に客観的に表現された自己を自己のすべてとして引きうけて立つことである。表現された自己の外に内面的な自己の存在を認めない。勿論、外的な形のみを問題として、内面的な努力が武士には全然なかったというのではない。したがって、より正しくいえば、武士には内外の区別が存在せず、内外一体的な理解が働いていたというべきであろう。内外一体の理解をふまえるが故に、表現された自己は、本当の自己でない、本当の自己はもっとすばらしいなどということはできない。いいわけにすぎない。(64‐65頁)

 いいわけをしないということは、説明を求められても何も頑なに口を閉ざすということではない。必要なときに必要なことしか言わずに行動し、その結果、自らに不利な状況に追い込まれても、その状況そのものを引き受け、そこでなすべきことをなし、それが本来の自分の在り方であり、それ以上でもそれ以下でもなく、そこにさらに付け加えるべきことなどなにもない、ということである。したがって、いいわけするという選択はそもそも論理的にあり得ない。この論理がそのまま倫理なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ありのままたるための自負の欠如

2021-03-03 23:59:59 | 読游摘録

 相良亨の『武士道』を、仕事の合間を見つけては、先を急がずに、一段落ずつ、繰返し読んでいる。武士について語っていながら、武士の代わりに人間と入れてもそのまま通用するような箇所が少なくない。例えば、「ありのままたりうる武士は、客観的世界の事実を重んずる、ことの真相をみる目をもつ」ことについて述べた以下の箇所もそうである。

ありのままたること自体が、自己のこしかた行って来た事実を偽り飾ることなくそのままに、それが自分であるとして世に立つ姿勢を意味する。客観的事実としての自己の外に自己を認めず、よくもわるくも自己の価値はこの事実において評価さるべきであるとするのが、ありのままを尊重する精神におけるもっとも注目すべき姿勢である。事態の真相をありのままに捉えることも、他者を事実に即して客観的に評価することも、このありのままたる武士においてはじめてなしうるところなのである。なお、すでにのべたように、このありのままには自負が支えになっていることを忘れてはならない。(62頁)

 この自負が私にはまるでないことを認めざるを得ない。したがって、ありのままたりえない。他人からの評価におどおどし、他者を羨み、妬み、あるいは蔑み、心落ち着くことがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


対面・遠隔併用授業という重労働

2021-03-02 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日から対面授業が部分的に再開され、私が担当している学部の三つの授業の内の一つも今日から対面授業が再開された。その他の授業と修士の演習は遠隔のままである。
 対面授業が再開されて、仕事量がさらに増えた。対面授業に正当な理由で出席できない学生たちのために別途に録音授業を準備しなくてはならないからだ。教室での授業をそのまま録音したものを配信する気にはなれない。ストリーミングで流す設備は限られた教室にしかなく、また仮に自分が使う教室にそれがあったとしても私は利用しないだろう。なぜなら、対面と遠隔では話し方も授業の構成も時間の流れ方も違うからである。
 対面授業では、途中でいくつか質問があるのが普通だし、こちらがその場の思いつきで冗談を言うこともあるが、共有画面のスライドを眺めながらそれらを聞かされるだけの遠隔の学生にとっては、それらの部分は冗長だったりよく聞き取れなかったりすることもあり、とても集中していられないだろう。そんなことで講義を受けたことにされては、遠隔の学生に対して不公平だと私は思う。
 だから彼らに対しては別に録音授業を準備する。基本的には、教室で話した内容を繰り返せばいいわけだが、原稿を読み上げるわけではないし、教室では気にならない無駄な要素を排除する一方、教室なら身振り手振りで伝わることも遠隔では伝わりにくいから、それらの要素については遠隔に適した仕方で補う必要がある。
 ハイブリッドとかカタカナ言葉を使えば、なんか格好良く聞こえるかも知れないが、実情は重労働である。