相良亨も『武士道』「ニ、名と恥」の冒頭で言及しているように、日本文化における恥といえば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』がすぐに思い出される。この「古典的名著」に対して相良が厳しく批判している点は、その恥の規定の仕方である。
Shame is a reaction to other people’s criticism. A man is shamed either by being openly ridiculed and rejected or by fantasying to himself that he has been made ridiculous. In either case it is a potent sanction. But it requires an audience or at least a man’s fantasy of an audience.
恥は周囲の人々の批判に対する反応である。人前で嘲笑されたり拒絶されたりするか、そうでなければ、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因となる。いずれの場合も、恥は強力な強制力となる。しかしそれが作動するためには、見られていることが必要である。あるいは、少なくとも見られているという思い込みが必要である。(角田安正訳 光文社古典新訳文庫 2008年)
この恥の規定に対する批判は、夙に作田啓一によって行われている。光文社古典新訳文庫の角田安正の解説からその部分を引こう。作田によれば、ベネディクトのいう「恥」は実のところ公恥(public shame)のことであって、所属集団の期待や要請に応じられなかった場合に起こる拒絶や嘲笑に起因するものだという。作田は、公恥以外にさまざまな種類の「恥」があると論じる。角田は出典個所を明示していないが、解説末の参考文献一覧に作田の『恥の文化再考』(筑摩書房 1967年)が挙げてあるから、同書からの引用であろう。相良の『武士道』の初版が刊行されたのは『恥の文化再考』の翌年、1968年である。相良が1921年生まれ、作田は1922年生まれ。
相良によれば、この外的強制力に基づいて善行を行うのは「恥の堕落形態」である。恥には確かにこのような形への堕落の可能性があるが、しかしそれは恥本来の姿ではないと言う。
つまり恥をしるとは、人の目を気にする姿勢、したがって人の目のとどくところでは行為をつつしむが、人の目のとどかないところでは何をしてもよいとする姿勢と理解するのである。確かに、恥の精神が堕落した時、このような様相が呈されてくるであろう。だが、この堕落形態を以て、本来の恥の精神とすることは許されない。恥をしる精神が、それなりに高められた時のあり方、今これを本来の恥を知る精神といえば、それは『菊と刀』の指摘するごときものではない。(98‐99頁)
この本来の恥の精神を相良は武士の姿の中に探そうとする。ここでもまた、歴史的事実としてそういう本来の恥の精神が生きられていた場合を史料に基づいて実証するというよりも、様々な文献を渉猟しながら、恥の理想形態を自ら彫琢しようとしている。