内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「明眼の人」とはどんな人のことか

2021-03-07 11:00:23 | 読游摘録

 相良亨による恥の考察を追っていこう。
 昨日見た『菊と刀』に対する批判の後、相良は『甲陽軍鑑』の次の箇所を引く。

侍武士道のかせぎは、申すに及ばず、一切の儀につゐて、善悪の儀、人を証人に立つるは、おろかなり。只我心を証人に仕候はゞよからんと存ずる。是れ如何といへば、馬場美濃いかにもそれ尤もに候と申さるゝ、但しさやうの人は我心清きまゝに、大略の人をあさくみて、自慢の意地あるものなり。とてもの儀に、慢気なくして、年増をばうやまい、年おとりを引きたて、同年をば、たがひにうちとけ、其中によく近づく人のたらぬ事ある共、よく異見を仕り、惣別人も我もよきやうにと存知、少しもへつらふたる儀いでば、心に心を恥る人は、何に付けても、大きにほめたる事なりといふて云々(99頁)

 ここには、「只我心を証人」とし、「へつらう」ことなく「心に心を恥る」武士が理想として描かれている。相良が強調するのは、恥には、「自分の心を自分の心に恥じるといった用法」があるのであり、『菊と刀』のいうような他律的な恥だけが恥ではないということである。この点は昨日見た作田啓一の『菊と刀』批判と重なる。相良は、「自らに恥じる恥」もあったのであり、他者に恥じる恥と合わせて、「二つの恥の綜合に恥の構造をみてとらなくてはなるまい」と言う。
 この綜合は、二つの恥の単なる並列ではないのはもちろんのこと、内と外との二面性に還元されるものでもない。「恥」を考えるとき、「その根底に自他の一体性がひかえていることをしらなくてはならない」と相良は主張する。しかし、この自他の一体性は直接的自然的所与ではない。それは、心ある、言い換えれば、心の目覚めている自他の一体性である。

ここに他者に恥じる他者が、単なる一般的他者ではなく尊敬に値する他者であったことを知らなければならない。嘗て道元の『正法眼蔵随聞記』にも「恥ズベクバ明眼ノ人ヲハジヨ」とあった。武士が恥じたのは、自己でありまた明眼―尊敬すべき他者であったのである。(103‐104頁)

 武士が自らを恥じたのは、他者一般に対してでもなく、世間一般に対してでもない。尊敬すべき他者に対してである。その尊敬すべき他者とは外的権威のことではない。「明眼の人」である。それは「物の道理のよく見通せる人」(『正法眼蔵随聞記』水野弥穂子訳注 ちくま学芸文庫 1992年)である。武士を論ずるのに道元の言葉を引くのは、牽強付会の誹りを招いても仕方がないが、それは措くとして、ここでの問題は、その尊敬すべき他者である「明眼の人」とは、相良にとってどのような人かということである。