内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「見上げてごらん夜の星を」、そして上野洋三『芭蕉の表現』

2017-02-18 20:38:02 | 読游摘録

 冬休み初日、十日振りの水泳。日差しの中に感ずる、春遠からず。
 同僚のアドヴァイスで、ユーカリオイルの水蒸気吸引をここ数日日中数時間。おかげで胸部の鬱屈、ほぼ完全に解消。
 昨晩、「見上げてごらん夜の星を」、岩崎宏美のカヴァーで聴く。今さらだけど、名曲だなぁ。
 今日読んだ上野洋三『芭蕉の表現』(岩波現代文庫)から二箇所引用。

誰しも現実の感動の最初には、言語をあてはめていない。あるいはことばを失う。しかしながら、ことばによって、感動に一本の背骨を通すのでなければ、感激は一時のものにとどまる。そうしないでいる方が安楽ではあるが、ことばを与え、感激を刺しとどめ、固定しなければならない。しかも、同じことばでも、すでに練磨され選びぬかれた美しいことば――古典的言語――にこしたことはない。それによって、現在のこの一瞬の私の感激は、過去の強い力に貫かれ、支えられて、未来へ手渡される、というのである。ここには、歴史に連ならざるをえず、また連なろうとする人間の、最も常識的で健全な態度がある。(同書22頁)

天文学者によれば、われわれの人体を構成する元素のうち大部分のものは、宇宙の彼方で燃え尽き消滅した星たちが、消滅する際に放出した元素なのだという。ことの真実度はこの際問わない。ただ、この事態を、われわれの生命は、宇宙の果てで燃え尽きた星屑に基礎を置いている、と言われてみると、自らの生命の永遠性と、背中あわせのはかなさとを、一瞬誰しも感じないわけには行かないであろう。(352頁)












戦後の焼け野原から立ち上がる美学 ― 中井正一『美学入門』

2017-02-17 17:50:10 | 講義の余白から

 昨日木曜日の二コマ連続の修士の演習の二つ目は「近現代思想」(Pensée moderne et contemporaine)で、赴任三年目にして初めて自分の専門分野を演習のタイトルとして選ぶことができるようになりました。これまでは古典や歴史に絡めて「世を忍ぶ仮の姿」で演習を行ってきましたが、これで晴れて自分の主たる研究対象を教科としても看板に掲げることができるようになったのです。嬉しくないはずはありませんが、テキスト選びは慎重にしなくてはなりません。うっかり調子に乗って、例えば、西田幾多郎などを学生たちに読ませれば、たちまち苦情が殺到することでしょう(演習に出席している修士一年生は七人ですから、ちょっと大げさですね)。
 あれこれ勘案して選んだのが中井正一の『美学入門』です。美とは何か、美学とは何を学ぶ学問か、これらの根本的な問いが、これ以上望めないほど平易な日本語で数々の具体例と古今の諸家から引用をところどころに交えなが真っ向から考察されていきます。これなら日本語が難しい、内容が難解だという苦情は来ないでしょう。テキストも青空文庫で無料で入手できます。しかも、先日の記事で紹介したリュッケン先生のとても優れた中井正一研究をフランス語で読むことができます。というわけで、昨日から学生たちと同書を演習で読み始めたわけです。
 一見すると一般向きの美学入門書という体裁を取っているように見えますが、中井の死の前年1951年に出版された同書には、それまでに展開されてきた中井の美学思想の特徴がよく出ています。それらの特徴のうちのいくつかを挙げれば、以下の通りです。
 技術及び技術的対象を美学の問題の一つとして捉えていること。スポーツを考察の対象として取り上げていること。美学を単なる観想の対象としての美に関する学問としてではなく、社会変革の原理としての美を実践的に考察する学問として構想していること。
 これらの特徴がよく出ている箇所を第一章「美とは何であるか」から一つ引いておきましょう。水泳のクロールとボート競技の訓練を技術習得の例として挙げ、見事に習得された技術が可能にするフォームの美しさ、そのときフォームが一つの鉄のような法則にまで高めれていることに触れた後の一段落です。

 ところが、この法則は、自然の法則のように、宇宙の中にあった法則であろうか。これは人間と水との間に、人間の創りだした新たな法則であって、自然の法則ではない。人間がこの宇宙の中に、自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、そしてさらに発展させていく法則である。これを「技術」というのである。これは大きい意味の技術をさすのではあるが、どんなつまらない技術も、みな、この大宇宙に対決するに足りる、大創造物でないものはない。たとえ、破れ靴のきれっぱしでも、人間の創造物なのである。(中公文庫版、16頁)

 こう書いたときの中井の眼前に見えていたのは、おそらく、出身地広島と東京の焼け野原に立ち始めたバラックとそこで新たな生活を始めた戦後日本の市民たちの姿です。













喋れても文章は書けないが、ちゃんと文章が書けるようになれば必ず話せるようになる

2017-02-16 19:15:14 | 講義の余白から

 昨日の記事の冒頭に、「体調はほぼ本調子に戻りました」と書きました。それはもちろん嘘ではないのですが、この一週間で体重が三キロ減ってしまったので、体がすっかり元に戻ったわけはありません。BMI が20.5まで下がり、これはここ数年で最低の数値です。それでも普通体重の範囲内ですから心配することはないのですが、ここまで下がったのは、この一週間それだけ体に負担がかかったということなのでしょうね。
 さて、今日木曜日の修士一年の演習(二つの演習の組合せで計三時間)が冬休み前の最後の授業でした。明日午前中一つ成績判定会議がありますが、これはまあ出席して書類にサインすればいいだけのことで大した仕事ではありません。ですから、病後何とか一週間乗り切り、今、少しホッとしているところです。
 今日の演習の最初の一時間は、いわばライティング演習です。学生たちに日本語で書く訓練を施す演習です。昨年から導入された演習で、専任でただ一人の日本人である私が担当するのがよかろうということで引き受けました。引き受けるにあたって、演習の内容をどうするか、いろいろ思案したのですが、まずは初歩的なところから少しずつ固めて行こうと思い、教科書として本多勝一『中学生からの作文技術』(2004年)を採用しました。
 去年も今年も、演習の初回にこの本の表紙を見せて学生たちに紹介すると、最初の反応は似たような感じで、失笑が漏れるのです。まあ、それは無理からぬ反応です。中身を見る前にタイトルだけ見せられれば、自分たちのレベルはその程度だと思われているのか、と、ちょっと自尊心を傷つけられるところがあるのでしょう。彼らは、修士に入るまでに少なくとも三年間は日本語を勉強してきているのですから。
 そこですぐに私はこう説明します。
 「タイトルよく見てね。中学生のための、ではなくて、中学生からの、ってなっているでしょ。これは単なる中学生用のマニュアルじゃないんだよ。中学生からでも学べる、いや、中学生になったらもうしっかり身に着けなくてはいけないし、その気になれば身につけられる作文技術の基本が書いてある本なんだ。現実には、いい年した大人だったここに書いてある規則をちゃんと守って書いていない人が日本人の中にもたくさんいるんだよ。それがつまらない誤解の原因にさえなっている。だから、ここに書いてあることを身につけることは、誰であれ、日本人であろうがなかろうが、わかりやすい日本語を書くために必要とされる最低限のことなんだよ。この本を読んで、そこに書いてある規則をちゃんと守って書くようにすれば、君たちもわかりやすい日本語が必ず書けるようになるから。」
 そして、こう付け加えます。
 「ちょっとうまく喋れるようになっても、書けるようにはけっしてならない。喋っている言葉は書き言葉の基礎にはならないんだよ。逆に、ちゃんと書けるようになれば、必ずちゃんと話せるようになる。だから、書くことを厭うてはいけない。毎日書きなさい。もちろん書きっぱなしでは意味がない。それを直してもらわなければ、どこがいけないのか自分ではわからないから。」
 今日の演習でも、学生たちにあらかじめ提出させておいた作文を一つ一つ徹底的に直していきました。直しを入れる箇所すべてについてその理由を説明しながらだったので、ものすごく時間がかかりましたけれど、この作業をしばらく繰り返すことで、学生たちは徐々に自分自身で推敲できるようになっていきます。そこまでは付き合います。
 これから三ヶ月、このようにして彼らの作文力を鍛えてゆきます。












日本文藝史における「間藝術」あるいは「非雅・非俗」―小西甚一『俳句の世界』に触発されて

2017-02-15 21:46:32 | 講義の余白から

 体調はほぼ本調子に戻りました。今日の授業は午後四時から六時までの近世文学史。日中はその準備に没頭。大学に行く途中、市の中央にあるFNACに、今日届いた本、Maurice Pinguet, Le texte Japon. Introuvables et inédits, réunis et présentés par Michaël Ferrier, Seuil, 2009を取りに行きました(この本、フランス語では割りと最近の出版ですが、日本では1987年に邦訳が筑摩書房から『テクストとしての日本』として出版されています)。
 授業を始めてから気づいたのですが、今日は、昨日よりもかえって鼻声で声が出にくかったのです。でも、今日の授業は三年生対象で出席者は二十数名なので、昨日よりも小さな声で話しても通りましたので大過ありませんでした。
 今日のお題は、先週の続きで「俳諧」。これはこの講義で私がもっとも力を入れているテーマです。今年で担当三回目になりますが、毎年授業中に示すテキスト数が増えて、ますます時間がかかるようになっています。許されることならば、一学期間、俳諧についてだけ話したいくらいです。今日は、特に、なぜ「風雅」が俳諧の別名になっていくのかを、古代中国文学史から説き起こし、中世・近世における「風狂」の思想史の中に芭蕉の風狂精神を位置づけるところまでを説いたのですが、その過程で『笈の小文』序文を読ませたりと大わらわでした。
 こういう思想的にかなり立ち入った話をすると、だいたい教室の空気は二分します。完全にスイッチが入ったと思えるほど集中して聴いてくれる学生と、完全リタイア組にです。後者はただ私の言葉が頭の上を通り過ぎていくのにまかせているだけです。それに対し、前者は、ノートを取る手をときどき休め、自分で真剣に考え始めているのが見ていてわかります。今日はそういう意味では手応え十分の授業でした。
 さて、この授業で私が必ず読ませる文章の一つに、小西甚一の『俳句の世界』(講談社学術文庫、1995年)の「はじめに」があります。今日の授業では、その第一節「俳諧と俳句」の一部を読ませました。それは次の箇所です。

平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなかった。それらは工藝品にすぎず、その作者たちは工(職人)なのである。かれらにとっての藝術は、書であった。書の巧みな人は、りっぱな藝術家として尊敬された。なぜなら、書を享受する人は、同時に書を制作する人だからである。和歌も藝術であった。和歌を作る者が、同時に和歌を享受する人だからである。しかし、物語(小説)は、藝術でない。なぜなら、自分で物語を作る者だけが物語を享受できるとは決まっていないからである。その意味において、俳諧は、藝術であることができた(20頁)。

 「作る者=享受する者」たちが構成する閉じた世界が成立していれば、藝術、そうでなければ、非藝術という区別は、日本文藝史にとって根本的だというのが小西の文藝史観です。ここには、しかし、トリックがあります。なぜなら、日本において、「藝術」という概念は近代の産物であり、しかもそれはもともとはリベラルアーツの訳語として西周によって案出されたものであり、したがって、それを近代以前の日本文藝史に導入するのは二重の意味でアナクロニズムだからです。平安朝の歌人も書家も、自分たちの歌や書を「藝術」だなどと考えたことは、だから、ただの一瞬もなかったはずです。
 それでは、この「藝術」という概念の近代以前の日本文藝史への導入は、小西の時代錯誤的誤謬なのでしょうか。もちろんそうではありません。語弊を怖れずに言えば、小西は確信犯的にこの概念を導入しているのです。つまり、「俗」に対する「雅」、さらには、雅俗混淆体である「俳諧」をも含めたカテゴリーとして「藝術」という概念を用いようとしているのです。
 私は、小西による日本文藝史への「藝術」概念の導入を基本的に支持します。しかし、近世文学史においては、俳諧の大衆化・川柳の流行・狂歌師の社会的立ち位置等を十全に把握するには、藝術と非藝術との間に、「間藝術」あるいは「非雅・非俗」という文学領域をいわゆる俳諧よりも拡張された領域として認めることが必要だろうと考えています。












歴史へ「なぜ」からアプローチする

2017-02-14 21:24:41 | 講義の余白から

 今日は先週木曜日以来初めての外出でした。幸いさして寒くもなく、病後の身としてはありがたい日和でした。いつもは大学まで自転車で十二三分なのですが、今日はそれより少し時間がかかるだろうと、いつもより五分ほど早めに家を出ました。やはり五日ぶりにまともに体を動かすことになるので、自転車のペダルがいつもより重く感じられ、ペダルを踏み込む脚にも最初は思うように力が入りませんでした。それでもキャンパスには数分の余裕を持って到着することができました。
 一時間のオフィス・アワーの間に、昨日の約束をキャンセルさせてもらった学生が、その学生のために私が書いた推薦状を取りに来ました。他大学への転学のために必要だからと頼まれて書いた一通でした。推薦状を書いてもらったのは生まれてこれが初めてだと嬉しそう眺め入っているのが印象的でした。
 オフィス・アワーの後、昼から午後二時までが古代史の授業でした。先週は日仏共同セミナーのために休講にしたので二週間ぶりです。学生たちには病気明けだということは一切言いませんでしたが、話していても声に力が入らず、おそらく学生たちもいつもと違うとすぐに気がついたことでしょう。結局最後まで調子が上がらず、低調な授業でした。
 今日の授業ではそれでも、普段の教科書を読み終えた後、年度初めに紹介しておいた補助教材の一つ『大学で学ぶ日本の歴史』(吉川弘文館、二〇一六年)を使って、後期に入ってから学習を開始した平安時代の歴史についての復習を少ししました。この本の特徴は、各時代の「移行期」に焦点を合わせ、その原因理由を掘り下げて説明しているところにあります。二六十頁ほどの薄い本ですが、最新の研究成果をふまえながら、詳細な通史や大学受験参考書などよりよほどすっきりと簡潔に要所が説明されています。
 例えば、第七章「平安遷都」では、なぜ七八一年に即位した桓武天皇が造都と蝦夷征伐という二大事業を同時に行おうとしたかが、次のように説明されています。

 天皇の母方の出自が重視されていた当時において、渡来系氏族出身者を母とする桓武天皇の権力基盤は脆弱だった。権力強化のために桓武天皇が行った二大事業が、新しい都の建設(造都)と東北地方の蝦夷征伐(征夷)であった。

 わずかこれだけの説明ですが、私が使っている他の教科書・参考書類には見られない記述です。しかし、この説明によって、後に国家財政を逼迫させるような大事業をなぜ二つ同時に桓武天皇が即位後すぐに敢行しようとしたのかがよりよくわかります。もちろん、例えば、『大学の日本史 教養から考える歴史へ ① 古代』(山川出版社、二〇一六年)では、その辺の事情はさらに詳しく説明されていますが(一五七―一五八頁)、こちらは全四巻ですから、規模が違います。
 日本語の勉強を兼ねるという点からも、『大学で学ぶ日本の歴史』はなかなかの好著であると私は思っています。












別れと悲しみの年輪 ― 快方に向う体と対話しながら

2017-02-13 17:58:58 | 哲学

 今朝は目覚めもかなりすっきりとしていて、熱はもうなく、金曜日にはひどく苦しめられた症状のほとんどが解消しました。ところが、それと引き換えのように、昨日はすっかり治まっていた胸部の圧迫感が再度感じられるようになり、数時間に一度ですがまた少し咳き込むようになりました。
 昨晩の時点でまだ翌朝の完全な回復は望めないと予想されたので、今日の午前中に予定されていた会議への出席と学生との面談の約束はあらかじめキャンセルしておき、今日もう一日、自宅で静養することにしました。これで丸四日間自宅から一歩も出ていません。記憶を辿っても、過去にそんなことがいつあっただろうかと思い出せないくらい、私には稀なことです。でも、よほどの迷惑が他の方々にかからないかぎり、無理をする理由にはならないと思い、「我が身を大切にすること」を優先しました。
 明日の授業はさすがに休講にはできませんから、今日は昨日から持ち越した準備を続けました。ただ、それも休み休みで、時々書棚からあれこれの本を引っ張り出して、パラパラ頁をめくって気晴らしの走り読みをしながらのことでした。
 そんな走り読みのために取り出した本の一冊が、現代文の高校教科書『探求 現代文』(桐原書店、平成22年度版)です。なんで高校の現代文の教科書なんか持っているのかというと、この冬に帰国したときの元実家での蔵書整理中に、娘が置いていった教科書類の処分をどうするか少し迷ったのですが、国語の教科書類(現代文と古典あわせて七冊)だけは、なんとなく捨てるにしのびなく、こちらでも役に立つだろうからと、他の本と一緒にこちらに送ったからです。
 これらの教科書は、娘が高校一・二年のときに使っていたもので、いたるところに授業中にしたらしい鉛筆での書き込みやらラインマーカーでのサイドラインやらがあってそれが微笑ましくもあります(「へぇ、けっこう真面目に勉強してたんだぁ」)。
 上掲の現代文の教科書の巻頭に置かれているのが吉本隆明の随想「成長するということ」なのです。目次を見て、吉本隆明が国語の教科書の劈頭というのにちょっと驚かされて、読んでみたんですね。本文は四頁ちょっと、『僕ならこう考える』(一九九七年)からの採録で、教科書採録用に多少の改変があるかも知れませんが、内容は吉本さんがかねてから他所でも繰り返していたことと重なりますから、そういう意味では「発見」はなかったのですが、読みながら、おそらく講演か談話が基になっているその口語体が伝える吉本さんの語り口から彼の肉声が聞こえて来るようで、心に触れてくるところがありました(全体として内容にすっかり賛成というわけではないのです。特にキルケゴールを引き合いに出しているところは、あまりに強引な誤読なのでちょっと辟易しました)。
 数分で読める短い文章ですが、さすがにここに全文書き写すには長すぎますので、前半から、冒頭の一文と他の二箇所を引いておきます。

自分の精神がどうやって成長してきたか考えてみると、どうも別れから成長してきたような気がします。

死別もあり、生別もあり、失恋もあり、いさかいもありですが、そんな別れのときの感じ方で、自分の精神上の、年輪を増やしていった、というのが一番印象に残ってる。なぜ、それでも出会いを求めるのかはわからないんだけど、別離とか死から、失ったものと得たものと、どっちが多いんだといったら、失ったものも多いけども、得たもののほうがもっと多い。その余りがずっと残って、悲しみの感じとして、年輪になる気がぼくはしますね。

人間というのは、喜びよりも、悲しみとか寂しさ、哀れみとか、そいうことで精神の年齢が増えていくことが多いんじゃないか。一般論としてはそういうふうにいえるから、決して悪いだけとは思えない。確かに失うことであるけど、失ってもまだ余っていることがある。それを集めると悪くないんだなと思います。

 明日(というか、日本時間ではすでに今日ですね)は娘の二十三回目の誕生日(ヴァレンタインデーなので忘れようがないんですよ)なので、例年のごとく一言メッセージを送りますが、その中でちょっとこの教科書のことにも触れるつもりです。











「今日の時代一般の巨きな病」と「神の業にも均しいもの」― 宮沢賢治最後の書簡

2017-02-12 19:57:36 | 読游摘録

 昨夜たくさん寝汗をかき、そのおかげでしょう、今朝起きたときには熱が下がっているのが体感ですぐにわかりました。さっそく検温してみると36.6度。ほぼ平熱に戻りました。しかし、やはりこの二日間で相当に体力を消耗したのでしょうね、頭はまだ少しボーッとしていましたし、部屋の中を歩いていてもときどきふらふらしました。それでも、もう机に向かって仕事ができるくらいには回復しました。午前中は、頭を使わずに機械的にできる作業をこなしながら、頭がはっきりしてくるのを待ちました。午後は、明後日の授業の準備を始めましたが、やはりどうもいつものように捗りません。ちょっとした調べ物にも手間取ってしまい、それに苛立って作業効率が落ちるという悪循環に陥りかけました。それで、無理をするのはやめて、準備の後半は明日に回しました。
 さて、話は変りますが、私がこれまでに購入した個人全集で、一度も手放したことがなく、いつも手元においてある全集がただ一つだけあります。それは『新修 宮沢賢治全集』(全十六巻・別巻一巻、筑摩書房、一九八〇年)です。最近はちょっとご無沙汰していますが、それでもこの全集だけは手放すつもりはありません。
 今回のように病気になったときなどに思い出すのが、現存最後の賢治の書簡です。三十七歳で閉じられる生涯の死の十日前である九月十一日付、花巻農学校でのかつての教え子柳原昌悦宛の一通です。もうこれまでに何度も読み返しているのですが、今回も読み直しながらやはり感動せずにはいられませんでした。解説は不要だと思います。全文をそっくりそのまま書き写します。

八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお陰で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がびうびう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうになりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか、財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういう過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。












病床日記

2017-02-11 18:14:16 | 雑感

 今日は一日寝たり起きたりの繰り返しでした。しかし、幸いなことに、昨日に比べれば症状がかなり緩和してきました。咳もあまり出ず、胸のあたりの圧迫感もなくなりました。鼻水の出も少なくなりつつあります。ただ、熱がまだ高く、朝の検温では38.7度、夕方の検温では38度。だから頭がボーッとしたままで、とても読書どころではありません。とはいえ、徐々に体全体の怠さは軽減してきているので、明日もう一日おとなしくしていれば、月曜日には、なんとか授業ができるほどには回復することでしょう。休講にすると、補講の時間を確保するのが容易ではなく、学生たちも通常の時間割以外にキャンパスに来るのを好みません。私も不規則なのは好みません。
 仕事の都合上、どうしても生活が不規則になる方も少なくないでしょう。私の仕事などは、拘束時間という点では、楽なものです。後期は、火・水・木それぞれに一コマずつ(2時間・2時間・3時間)です。授業の準備は家ですればいいのですから、オフィス・アワーも含めて職場にいなくてはならない時間は、通常のフルタイム(もちろん残業は除いて)の仕事の五分の一くらいなものです。もちろん大学でのポストは、准教授であれ教授であれ、教育研究員という枠に入りますから、授業だけしていればよいのではなく、研究業績も上げなくてはなりません。もちろん、会議もあります。それにしても、日本の大学の先生たちの忙しさを漏れ聞くたびに、ある意味で恵まれていると言えるのかもしれないなあと思ったりもしています。確かに給料は安いのですが、それを職場での拘束時間と授業の準備に実質充てている時間で割れば、決して安いとは言えないでしょう。
 あとは研究業績ですね。この夏までにいくつかの研究をまとめておきたいと思っています。九月からは学科長ですから、おそらくそれからの四年間、研究はほとんどできないだろうと覚悟しています。病気でぐずっている場合じゃないですね。ちょっと緊張感が足りなかったことで、病気に付け入る隙を与えてしまったのでしょう。年も年ですし、健康管理にはさらに注意したいと思います。












体調不良

2017-02-10 18:30:47 | 雑感

 また体調を崩してしまいました。この冬三度目です。こんなこと、かつてありませんでした。日頃水泳で鍛えた体のことを自慢にしていたくらいですからね。身体的にばかりでなく、精神的にかなりまいりますね、こういうときは。
 昨年十二月初めに何年ぶりかで風邪を引き、それは数日で治りましたが、年末の本の片付けの際に吸い込んだチリ・ホコリのせいで年明けから半月余りひどい咳が続きました。やっと回復してきたと思ったら、昨日から体が怠く、若干発熱もあり、時々ひどく咳き込みます。先月前半のときほどではありませんが。今朝から徐々に全体として症状が悪化しています。寝込むほどではないのですが。
 諸症状からして、慢性気管支炎を疑わなくてはなりません。もう自宅静養でおとなしく自然治癒を待つという段階ではないようです。週明け、症状が改善しない場合は、病院に行くしかありません。その翌週は一週間の冬休みですから、そこまではなんとか授業も休まずに凌いで、冬休み中はゆっくり体を休めることにします。
 今朝、来月の学会発表で参照したい「近代の超克」論と時枝誠記関連の文献が日本から届き、さあ今日から準備に取り掛かろうと思い、一日それらの文献を拾い読みしていましたが、発熱のせいで頭がどんどんボーッとしきて何も集中して考えられませんでした。せっかく興味深い論考群なのに、残念です。それらについての記事を投稿するのはしばらく待たなければなりません。
 こういうときは、アルコールも慎んで、さっさと寝るしかありませんね。












言葉が開かれるとき ― 日仏共同セミナーを終えて

2017-02-09 16:12:20 | 雑感

 一昨日火曜日は一日、法政大学哲学科の学部生十五名(+卒業生で現在別の大学の修士の学生一名)とストラスブール大学日本学科修士の一・二年生十二名(残念ながら一年生の一名が病欠)との合同ゼミが日仏大学会館(Maison universitaire France-Japon)で行われた。半年前から一学期かけて共通テキストの加藤周一『日本文化における時間と空間』をそれぞれに読んできた学習成果を発表する機会であり、演習あるいは特講の仕上げでもある。
 午前は、同書第一部「時間」をめぐって、修士一年六名の個別発表と法政側の一グループの発表とが行われ、発表後若干の質疑応答が行われた。どちらの側の発表も十分に準備されており、それぞれによくまとまっていて、議論を深めるに値する論点もいくつも提出されたのだが、時間の制約と発表形式、まだ雰囲気として打ち解けるに至っていない等の理由で、活発な議論と言うには程遠かった。
 午後は、同書第二部「空間」をめぐって、修士二年生六名の個別発表と法政側のもう一つのグループの発表が行われた。こちらも内容的にはとてもよかったと思うのだが、発表後は若干の質疑応答以上には議論は発展しなかった。
 これには、すべてが日本語でなされるというストラスブール大生の側にとっての大きなハンディあることを措くとすれば、発表内容・形式の問題もあるように思う。今回の結果を受けて、来年度以降、全体の形式そのものを考え直したほうがいいのではないかと思い始めた。
 発表後は、四つのグループに分かれてのディスカッションにしたのだが、これはとてもうまく行った。私の予想はいい意味で裏切られ、どのグループでもフランス人学生たちが実に積極的に発言しているのを聴いて大変嬉しく思ったし、彼らが「隠し持っていた」日本語口頭表現能力に驚かされもした。
 発表時とは、会場の空気もすっかり変わって、活気に溢れた熱度が感じられるようになった。それぞれのグループ・ディスカッションの中で、さまざまな具体例が挙げられながら、論点が次第に絞られ明確になっていった。その日もう少し時間があれば、あるいは翌日にも議論する時間があったとすれば、さらに議論は発展し深められたであろうと残念に思ったほどである。共同セミナー後の継続的な学習が可能になれば、さらに充実した成果を上げることができるであろう。
 この共同ゼミのストラスブール側のオーガナイズを担当するようになってこれで三年目になる。前二回もそれぞれに成果を上げることはできたと思うが、今年は、言葉が単なる一方的な発表言語から双方向的なコミュニケーションの言葉に変わってゆく過程が特に鮮やかに感じられた。自分の言葉が相手の心に届き、相手の言葉が自分の心に届くことで、複数の人間が協同する言語空間が開かれていく、端的に一言で言えば、学生たちの間に「言葉が開かれていく」瞬間に立ち会うことができたのは幸いなことであった。
 共同ゼミ後の宿泊場所での懇親会も見ていて楽しいものであった。午前零時に散会した後、法政の学生さんたち何名かと午前二時までラウンジでおしゃべりしたが、それもまたとても楽しい一時であった(翌日授業があったのでちょっとしんどかったけれど)。
 彼らのプログラムは明日金曜日まであり、翌日土曜日に帰国の途につく。全日程を恙無く終え帰国されることを心より祈念しています。