内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

活字から聞こえてくる生ける哲学者の声 ― ベルクソン『時間の観念の歴史 コレージュ・ド・フランス講義録 1902-1903』

2017-02-04 22:36:06 | 読游摘録

 「謦咳に接する」という表現がある。「尊敬する人の話を直接聞く。あるいは、直接、お会いする」というのが一般的な辞書的意味である。この意味では、その人が生きているときにしか、謦咳に接することはできない。ところが、今日では、技術的進歩のおかげで、会ったこともない過去の人物が語っている姿をその声を聴くとともに映像で見ることができるようになっている。もちろん、これは本来の意味で「謦咳に接する」ことではない。しかし、例えば、書物でしか知らなかった著作家の映像を見ると、それだけで書物からは得られなかった何かが伝わってくることがないであろうか。
 他方、ある著作家について、その人が書いたものを読むことで得られるのは違ったことが、その人が話したことの記録を読むことで得られるということもある。それは、しかし、書物の中には見出せない内容がその記録には語られているという理由だけに因るのではない。肉声で語るという身体的表現そのものによって伝わる何かがあるのであり、それはたとえ事後的に紙上に印刷された書物の形ででも伝わることがある。
 ちょうど今から一年くらい前に、ベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの講義録の第一冊目 Histoire de l’idée de temps. Cours au Collège de France 1902-1903 が PUF から出版された。ベルクソンの同時代的名声を高からしめた、かの有名な「伝説的な」講義録が、プロの速記者たちの手によるほぼ完璧な記録を基に出版され始めたのである。
 そこに私たちが読むことが、いや、聴くことができるのは、生ける哲学者ベルクソンである。過去の大哲学者たちの所説を明晰に説明していくその鮮やかな手際、そしてその合間にさり気なく挟まれる独自の創見は、単にそれらがベルクソンの生前に出版された著作の中には見出されないから貴重なのではない。生きている哲学者の思索の姿が、その声を聴く者を自ら考えることへと誘わずにはおかない生ける哲学がそこに息づいているからこそ、掛け替えがないのである。