昨日の記事の末尾で、この夏で七回目となる東洋大学大学院哲学科での集中講義に一言触れたので、この機会に、すでに大学院教務課に提出済みのシラバスから「講義の目的と内容」の項を下に掲載しておく。
自然・技術・芸術 ― 自然の創作
本講義は、現代社会における自然・技術・芸術の相補的関係構築の可能性について考察することをその目的としている。
サブタイトルの「自然の創作」という表現は以下のような両義性をもっている。自然が何かを創り出すという意味と何か或いは誰かが自然を創り出すという意味とである。前者の背景には、人類の生誕以前に、あるいは、人類とはまったく無関係に、自然が己自身の中に生み出す、人間には真似のできないような様々な形はすべて自然の創造であるという考え方がある。それに対して、後者の意味は、自然がまさに自然として対象になったのはルネッサンス期の画家たちの仕事によるのであり、したがって、自然(という対象)は人間によって作り出されたのだという絵画史家たちの主張の中に見られる。「自然の創作」は、さらに、自然の内にもともとはない形が人間によって生み出される創造行為という意味でも用いられることがある。
自然の中の形の生成に見られる作用性・媒介性・道具性を技術性の起源として捉えるとき、自然と技術との関係は、対立的なもの・相互に排他的なものとしてではなく、相互内在的なもの・相補的なものとして考えることができる。このような考え方に拠るとき、自然に適用される技術の自然内在的な媒介性、すなわち自然のうちに眠っていた要素を一定の操作を加えて励起して自然自身に適用するという、自然の自然に対する創案的関係を成立させる役割を見ることができる。
技術は、与えられた自然の中に新しい形を作り出す。したがって、技術そのものは自然に対立しないし、それを破壊しもしない。ある技術が自然に対して破壊的に働くことがあるのは、技術に内在する規範性から逸脱する不当な仕方でそれが悪用されているときである。技術がその内在的規範性にのみ従って実行されるとき、それは自ずと倫理的意味を示す。新しい技術の媒介によって、自然は、人間がそれまでにはない仕方で参加可能なものとなりうる。技術の媒介によって新しい形を産み出し続ける自然は、技術の自然に対する優位を示しているのではなく、自然が人間を無限に超えたものへの開けであることを、そして、人間はその常に生成する自然の中の創案的要素として働きうる存在であることを示している。
このような視角から、自然に対する芸術的創造行為の意味も技術との比較の上で再検討されうるだろう。