内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「今日の時代一般の巨きな病」と「神の業にも均しいもの」― 宮沢賢治最後の書簡

2017-02-12 19:57:36 | 読游摘録

 昨夜たくさん寝汗をかき、そのおかげでしょう、今朝起きたときには熱が下がっているのが体感ですぐにわかりました。さっそく検温してみると36.6度。ほぼ平熱に戻りました。しかし、やはりこの二日間で相当に体力を消耗したのでしょうね、頭はまだ少しボーッとしていましたし、部屋の中を歩いていてもときどきふらふらしました。それでも、もう机に向かって仕事ができるくらいには回復しました。午前中は、頭を使わずに機械的にできる作業をこなしながら、頭がはっきりしてくるのを待ちました。午後は、明後日の授業の準備を始めましたが、やはりどうもいつものように捗りません。ちょっとした調べ物にも手間取ってしまい、それに苛立って作業効率が落ちるという悪循環に陥りかけました。それで、無理をするのはやめて、準備の後半は明日に回しました。
 さて、話は変りますが、私がこれまでに購入した個人全集で、一度も手放したことがなく、いつも手元においてある全集がただ一つだけあります。それは『新修 宮沢賢治全集』(全十六巻・別巻一巻、筑摩書房、一九八〇年)です。最近はちょっとご無沙汰していますが、それでもこの全集だけは手放すつもりはありません。
 今回のように病気になったときなどに思い出すのが、現存最後の賢治の書簡です。三十七歳で閉じられる生涯の死の十日前である九月十一日付、花巻農学校でのかつての教え子柳原昌悦宛の一通です。もうこれまでに何度も読み返しているのですが、今回も読み直しながらやはり感動せずにはいられませんでした。解説は不要だと思います。全文をそっくりそのまま書き写します。

八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお陰で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がびうびう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうになりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代わることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか、財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういう過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。












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