フランス語圏のエックハルト研究者たちは、管見の及ぶかぎり、昨日の記事の中で述べたような間宗教的比較研究に対してきわめて慎重であり、あからさまに懐疑的な姿勢を示すことも珍しくはない。しかし、そのような一見「保守的」とも見える態度に対する賛否については、これをここでは一旦脇に置いて、エックハルトにおける「無」の解釈をめぐる、上田閑照の考察と、それと対蹠的な立場を代表している Marie-Anne Vannier の考察とを比較することによって、神秘思想解釈に付き纏う問題の所在を垣間見てみよう。
上田閑照は、『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)の第十章「離脱について」で、エックハルトにおける「離脱」について立ち入った考察を行っている。その章のはじめの方に、上田の読みの方向をよく示している箇所がある。エックハルトのドイツ語説教の全体に通ずる基本的なテーマである「魂の内における神の子の誕生」という出来事が直接語られる説教について、上田は次のように言う。
そこに含まれている合一の徹底化、或る種の過激性は、キリスト教神秘主義における伝統的な枠を超え出るものがあると言わざるを得ない。ケルン時代の特色ある説教には、その超え出たところが強く出てくる。そのせり上がり超え出る動向を、そこだけ際立たせる場合、エックハルトは、魂の「神性の無への突破」と言う。「魂の内における神の子の誕生」と魂による「神性の無への突破」とは、前者における受動性と後者における魂の能動性というように際立った対照をなしており、テーマとしては別々に見ることも出来るが、神とのかかわりにおける魂の実存動性としては、前者から後者への質的な飛躍を伴う徹底と見るのがエックハルトに則した見方になるであろう。その徹底の要にあるのが「離脱」という根本思想である(252頁)。
この箇所だけでも、少なくとも次の三点を解釈の問題点として挙げることができる。第一に、「神性の無」という言い方は、「神性」と「無」とが等価、あるいは「無」に神性の本質を見る傾きを示しているが、後に見るように Marie-Anne Vannier は、このような「無」の絶対化に強く反対している。第二に、「魂の内における神の子の誕生」と「神性の無への突破」とが受動性と能動性として対照をなしているという見方もテキストによって必ずしも支持され得ない。私見によれば、そのような対照性は見かけに過ぎない。むしろそのような対照性が消え去る次元が問題なのだと私は考える。したがって、第三に、「魂の内における神の子の誕生」と「神性の無への突破」との間に、前者から後者への「質的な飛躍を伴う徹底」を見ることは、エックハルトにおける「離脱」の次元を決定的に見誤らせる危険なしとしない。
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