エックハルトにおける〈一〉性(Einekeit)にあっては、人と神とは〈一〉ならざるを得ない。この〈一〉性は、いわば神と人との共通の起源である。この起源への帰還が、エックハルトが説教の中で語る神秘的合一の目的である。
人と神とが顔と顔を合わせるというときは、いかにその関係が親密であったとしても、神は造物主であり、被造物である人は、神とは根本的に異なっている。この差異があるかぎり、まだそこには神と人との階層的関係が残っている。エックハルトは、それを超えなければならないと考える。その関係性を超えて、表象不可能(像の彼方)・言表不可能(言葉の彼方)・思惟不可能(概念の彼方)なる空虚の中へ入れと言う。この空虚は、非顕現であり、一切の差異化に先立つ原初的な〈一〉性である。
エックハルトは、しかしながら、人と神とが単純に同一だと言おうとしているのではない。ただ、神と人とに共通の〈一〉性を再び見出すために、諸々の被造物の造り主なる神とその被造物の一つである人という二元的な対立を超え出よと促すのである。この唯一なる〈一〉(einic Ein)は、魂の秘された根底であると同時に、顕現した神の根底でもある。この原初的な〈一〉性においてこそ、魂の根底と不可知な神とが融合する。この魂の根底とは、魂における非被造的なるもの(incréé)であるとエックハルトは主張する。
この主張が、教皇勅書「主の畑において」(In agro dominico)の中で異端の嫌疑ありとされた第二十七命題に対応する。
Aliquid est in anima, quod est increatum et increabile ; si tota anima esset talis, esset increatum et inceabilis, et hoc est Intellectus.
魂のうちには、非被造的で被造不可能な何ものかがある。もし魂全体がそのようなものであれば、魂は非被造的で被造不可能であろう。それこそまさに知性である。
エックハルトにおいて提示される魂が歩むべき途とは、このような徹底した内在性の途である。その限りでは、エックハルトにもまたアウグスティヌス的なテーゼが見出だせると言うことができる。しかし、エックハルトは、この内在性の途を独自の仕方で徹底化する。アウグスティヌスにとっては、回心こそが魂のその起源への回帰を可能にする内在性の途であった。ところが、エックハルトにおいては、アウグスティヌスにおいては回心が占めていた場所を「離脱」(abegescheidenheit)が占める。
離脱によって、人は、御言葉が生まれるうる場所を魂のうちに空けることができる。これが「魂における神の現前」である。これを一言で表すラテン語起源のフランス語がある。 それが « inhabitation » である。ところが、この語のもともとの字義通りの意味は、「人が住んでいない状態」である。つまり、エックハルトの離脱が主題となる場面でこの一語が用いられるとき、それは、「魂を空にするとき、そこに神の御言葉が生まれる」ということを意味しているのである。
エックハルトにおいて、この「空なる魂における神の現前」と「神のうちでの人の誕生」は表裏一体をなしている。そのかぎりにおいて、人は神化される。この人における神の誕生と神における人の誕生という二重の誕生が、エックハルトの神学的かつ神秘主義的思弁の核心をなしている。
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