内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「離脱・放下」攷(二十九)― 知性の啓示と愛の経験とを超えて

2015-04-26 05:45:07 | 哲学

 いかにして認識不可能な神への恩寵による聖化を伴った神化が人に起るとエックハルトは考えているのかを私たちはここまで見てきた。その出発点には二つの基本的要素があった。超本質的な神性へと接近する途としての否定神学と、魂の根底と神の根底との合一の結果としての神化とである。ここで提起されるのは、この離脱による神秘的合一には愛が介入する余地はないのか、という問いである。
 エックハルトの神秘思想の特徴を、エックハルトが属するドミニコ修道会とフラシスコ修道会との当時における教説に関する対立という文脈の中で解釈する研究者たちもいる。前者が知性主義を標榜するのに対して、後者は愛や意志に優位を置いている。確かに、前世代に属するトマス・アクィナスと同様に、エックハルトは、認識による知性的合一を愛による合一の上位に置いている。
 4月18日の記事で見たように、アウグスティヌスに影響を受けたフランチェスコ会士ゴンザウルスとの討論の中で、エックハルトは、神においては知性が存在に対して優位を占めるということを主張している。「神は、在るがゆえに知解するのではなくて、知解するがゆえに在る」、それゆえ、神にあっては、「知解が存在の根拠であって」、その逆ではない、と言う。そして、ゴンザレスに抗して、神への接近においては、認識(intellectus)が意志(そこには愛も含まれる)に対して優位に立つと主張する。神と人との合一においては、認識が愛に優るということである。
 しかしながら、エックハルトにおける離脱は、けっしていわゆる知性主義に還元されうるものではない。離脱は、愛による合一と知性による合一のいずれよりも上位に置かれるからである。それは、根底的無における合一である。そこには、一切の顕現が不在である。理性と信仰の調和的照応という、アンセルムスからトマス・アクィナスにいたるまでの神学的探究の根本的要請の伝統と完全に切れてしまうことなく、エックハルトは、神との合一をあらゆる知的操作より上位に置く。
 エックハルト及びその直弟子たちが当時の時代状況の中で引き受けようとしていた思想的課題について、西洋中世思想史の大家 André Vauchez は、その名著 La spiritualité du Moyen Age occiedental VIIIe – XIIIe (première édition, PUF, 1975 ; nouvelle édition augmentée, Seuil, « Points Histoire », 1994) の中で、以下の様な見事な要約を提示している。

Spirituels parce que théologiens, Maitre Eckhart et ses disciples se sont efforcés de dépasser l’opposition entre les auteurs d’inspiration augustinienne, qui soutenaient que la recherche de l’union à Dieu ne pouvait parvenir à son but qu’en s’appuyant sur la puissance affective de l’âme (« Où échoue l’intellect, là réussit l’amour », selon une formule de saint Bernard, reprise par saint Bonaventure), et les partisans d’une démarche cognitive purement intellectuelle. Posant comme postulat l’identité de l’être et de Dieu, la mystique rhénane chercha à accéder non à une simple union de l’âme et de son Créateur, mais à ce que Maître Eckhart appelle l’unition, c’est-à-dire une connaissance selon l’Un antérieure à la distinction des deux puissances de l’âme (intellect et affectivité/volonté) mais aussi à celle des trois personnes de la Trinité (Père, Fils et Saint-Esprit) qui appartiennent à la manifestation de Dieu et refluent dans la Déité. Ainsi l’illumination de l’intelligence et l’expérience de l’amour, loin de s’opposer, permettent le retour de l’homme à son originel, en ce Dieu qui est à la fois son principe et sa fin (p. 146. 一箇所、文法的に誤っていると思われるところを訂正した).

神学者であるがゆえに霊的であったマイスター・エックハルトとその弟子たちは、神との合一は、魂の情感的能力に基づくかぎりにおいてその目的に達することができると、アウグスティヌスの影響下で主張する(例えば、「知性が挫折するところで、愛は成功を収める」という、聖ベルナールに由来し、聖ボナヴェントゥラに継承された表現に見られるように)著作家たちと、純粋に知的な認識過程の支持者たちとの間の対立を乗り越えようと努力を傾注した。存在と神との同一性を公準として措定するライン河流域神秘主義は、魂とその〈創造者〉との単なる合一に至ろうとするのではなく、マイスター・エックハルトが「〈一〉化」(unition)と呼ぶところのものを追い求めた。つまり、魂の二つの能力(知性と情感あるいは意志)の区別に先立ち、かつ三位一体の三位格(父と子と聖霊)の区別にも先立つ〈一〉による認識を追い求めたのである。この三位格は神の顕現に属するものであり、神性に再び還流する。かくして、知性の啓示と愛の経験とは、対立するどころか、人のその起源への、つまり同時にその原理でありかつ目的である神への回帰を可能にするのである。