内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈種〉の論理再論 ― 新しい可塑的社会構築の基礎理論としての可能性

2014-09-20 18:10:19 | 哲学

 今週の火曜日に、「ちょっと頼むのが遅いのだけれども」と断りながら、日本学科の同僚が、十月三十日から十一月一日までの三日間アルザス欧州日本学研究所(CEEJA)で開催されるシンポジウムに参加するつもりはないかとメールで打診してきた。メールには日英仏の三ヶ国語のプログラムが添付されていて、それを見ると、シンポジウムの日本語のタイトルは、「〈日本意識〉の未来 ― グローバリゼーションと〈日本意識〉」、文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業採択「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討 ―〈日本意識〉の過去・現在・未来」の一環として行われるプログラムだということがわかる。参加者は、日仏独奥露の十名の研究者たちで、その分野も様々である。シンポジウムの基本的趣旨は、現在の日本が世界の中で置かれている緊迫した危機的とも言える状況を様々な角度から分析し、それを踏まえた上で、これからの日本が国際社会の中で取るべきスタンスと進むべき方向性を探るということのようである。
 私は、普段、自分から進んで学会に参加するということはまずしない。そんなことしても、ただ無闇に忙しくなるばかりで、じっくりと自分の本来の研究ができなくなると考えているからだ。しかし、信頼できる人たちからのシンポジウム参加依頼はまず断らない。ほとんど二つ返事で引き受ける。それは、まず、めったにそういう依頼は来ないからであり、それでも私に声をかけてくれる人たちは、それなりに私を正当に評価してくれているか、よほど困って私のところに話を持ってきたのであろうから、その期待に答えるのが彼らの信頼への応答となると考えるからである。発表内容も、だから、主催者の意向に沿って考えるのを原則とする。
 しかし、今回即座に引き受けたのは、それだけの理由によるわけではない。それとは別に、そしてそれ以上に、自分の研究を一歩前進させるためのよい機会にもなり得ると判断したのが理由であった。というのは、ちょうど一年前の昨年九月末やはり同じアルザス・欧州日本学研究所で田辺元の「種の論理」について初めての発表をして以来(九月十一日以降の一連の記事参照)、同年十一月上旬のパリでの国際ベルクソン学会での発表(十月十四日からの一連の記事参照)、同月下旬のイナルコでの発表(十一月二十三日の記事参照)、今年夏の東京での集中講義(八月二日の記事参照)などを通じて、私の現在の研究の一つの主要なテーマとなってきているのは、田辺元の「種の論理」を批判的に検討しつつ、そこから新しい可塑的社会構築の基礎理論の一つの礎石を切り出すことだからである。今回のシンポジウムでの発表では、主催者の意向に沿って、「〈日本意識〉の未来」という観点から、「種の論理」を読み直すつもりでいる。発表のタイトルは、「新しい可塑的社会構築の基礎理論としての〈種〉の論理」としたが、それについて主催者からの承認も得た。
 このテーマを選んだのには、さらにもう一つ理由がある。というのは、この発表は、昨日の記事の最後に述べた、学生たちに昨日の講義の終わりに投げかけた問いに対する答えの一つを提出しようという試みでもあるのだ。つまり、彼らへの問いかけは、実は私自身への問いかけでもあったのである。
 今日のところは、一言だけ、素描的に、その問いへの答えのための仮説を示すにとどめ、これから発表までの一ヶ月余りの間、その仮説に基づいて、答えを発展・深化させることを自分の研究課題とする。
 〈和〉も〈寛容〉も、原理としてそれ自体を絶対化すると、その基準を逸脱・超過し敵対するものを排除しようとすることによって自己破壊に陥るというアポリアを孕んでいる。その解決策の一つとして考えられるのは、和の集合に可塑的な階層性と開放性を導入し、いつでも低次での〈異物〉を一段高次な集合の中に回収することができるように、多層的自己組織化を更新し続けることができるような概念装置をそこに組み込むことである。より一般的に言えば、ある基礎概念が自己絶対化するときにどうしても引き起こさざるを得ない論理的アポリアを回避する実践的論理をいかに形成するかという問題である。この問題を解く一つの鍵が「絶対媒介の弁証法」と相即であるかぎりにおいての「種の論理」に見出されるというのが差し当たりの私の仮説である。












和と寛容、そのいずれでもなく

2014-09-19 16:16:36 | 講義の余白から

 今日金曜日は、午前九時から十一時までの二年生の古代日本史の一コマだけ。この講義の教室は、確か私が学生だった頃に出来たばかりの建物の中にあるのだが、この二階建ての建物はいわゆるプレパブ作りで、見るからに安っぽく、当時は仮設校舎としてしばらく使うだけで、新しい校舎ができれば取り壊されることになっていたはずである。建物のほとんどは教室として使用されているのだが、日本の小中学校で本校舎改築の際に見かけるような仮校舎として建てる代物を想像してもらえればいい。
 ところが、それから十八年、キャンパスには当時なかった新しい建物もいくつかでき、今も中心部の再整備工事が続いており、全体としては当時より綺麗になっているが、その建物だけは当時とほとんど変わりなく、ただ経年劣化によって見すぼらしくなっただけで、そのまま元の場所に残っているのである。今度の赴任で来て初めてこの建物を見たときも、懐かしさというよりも、「なんだまだあるのか」という落胆の方が大きかった。教室の中にあるのは机と椅子だけ。もちろん黒板はあるが、プロジェクター等教材機器は一切ない空の教室である。こんな教室では、講義する方も受ける方も、何か大学にいるという感じがしない。先週の最初の授業で、「私はこのダサい建物が大嫌いだ」と公言したら、爆笑ととともに、その表情から大方の学生たちも同意見であることがわかった。
 ただ、先週も書いたように、学生数に対してはちょうどいい大きさの教室で、その点ではやりやすい。学生とのインターラクティブな授業が展開しやすい。
 今日のテーマは、飛鳥の朝廷。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させ、いよいよ聖徳太子が登場するのだが、最近の日本の教科書での聖徳太子の扱いは、私が高校で習った頃とは大きく変わっている。まず、当時の呼び名である厩戸王が太字で示され、聖徳太子という呼び名の方はその直後に括弧内に一度示されるだけである(使用教科書は山川出版社の『詳説日本史B』)。そして、「冠位十二階」と「憲法十七条」とについては、それぞれ施行年が示された上で、だた一言「定められた」とだけ記され、誰によってかという点については一切説明がない。もちろん、直前の文に、推古天皇、蘇我馬子、厩戸王の名前は出てくるが、彼らによってという書き方にはなっていない。「定められた」で終わる文の後には、「冠位十二階」「憲法十七条」それぞれについて二、三行の説明があるだけある。さすがに憲法十七条からの抜粋は囲み記事として少し引用されているが。
 これは今日の歴史研究の成果が反映されているからなのであろう。いわゆる「聖徳太子の憲法十七条」という一般に受け入れられてきた考えは、もはや相当な条件付きでないと言えないようになっている。憲法の内容についても、中国伝来の儒教や仏教からの強い影響下に書かれたもので、そこに聖徳太子固有のオリジナルな思想を見ることには相当慎重でなければならなくなっている。
 しかし、それはともかく、この憲法の第一条の最初の言葉「和を以て貴しと為す」(以和為貴)が、日本人の倫理観の基底的テーゼの一つとして、現代にまで受け継がれているということには異論は少ないのではないだろうか。歴史的文脈の説明と、聖徳太子に対する評価の変遷を学生たちに説明した後、歴史を離れ、「和は私たちの行動原則たりうるか」という倫理学的な問題を学生たちに提起し、私の考えを説明した。それを簡単にまとめると次のようになる。
 「和」のテーゼは、すべての人に対して開かれたものでありうる。その出自・国籍がどうであれ、和に参与する、あるいは少なくともそれを乱さないかぎりは、誰もがその和の集合の中に受け入れられうるだろう。この方向では、したがって、「和」のテーゼは、日本固有の価値にどとまることなく、普遍的な志向を持ちうるだろう。しかし、その和の集合の中にその和を乱す要素が発生あるいは闖入してきたらどうなるか。その要素がそのような好ましからざる要素にとどまるかぎり、そして和は根本原則としてあくまでも維持されなければならないかぎり、その要素は和の集合から必然的に排除される。和のテーゼは、この方向に反転したとき、自らのうちにはそれを制止する機制がない。つまり、和を乱すものがすべて排除されなければ、原理として己を維持しえない。この否定的な方向では、和を原理とした組織はどこまでも収縮していこうとする。その収縮傾向は、自分以外は誰も受け入れられないというところまでも極端化しうる。「引きこもり」という社会現象をその一つの結果として見ることもできるだろう。しかし、収縮傾向はそこが終わりではない。もし、自分が自分自身に対して〈和〉を保てなくなるとどういうことになるか。自分で自分を排除せざるを得ない。これが自殺という結果をもたらす、少なくとも一つの理由であるとは言えるであろう。
 それでは、この和のテーゼの否定的な反転傾向に歯止めをかける他の行動原理はないだろうか。それを西欧史の中に探れば、「寛容」がその一つとして挙げられるだろう。自分たちとは異なった考えの人たちをそれとして認めるのが寛容であるとすれば、和を乱すものに対しても、少なくともある程度までは、この原理を適用することができるであろう。しかし、寛容の語源を思い出して欲しい。それはラテン語の tolerare であり、その意味は、「苦痛を感じながらそれに耐える」ということなのだ。つまり、寛容とは、苦痛を与える相手に耐えるということなのであって、決して相手を心から許して、あるいは相手を自分より優先するということではないのだ。繰り返される争いに終止符を打つために提起された、いわば譲歩の産物なのだ(この寛容についての私の考えについては、今年の2月7日8日の記事を参照されたし)。極端かつ挑発的な言い方をあえてすれば、寛容は理解なしに成立する。
 したがって、「和」も「寛容」も社会形成の基礎原理ではあり得ないし、個人の行動の基本原則でもありえない。どちらもある閾値を超えると、まったく機能の方向が反転してしまうからだ。両者を組み合わせたとしても問題の解決にはならない。どうすればいいのだろうか。
 ここまで話して時間が来た。学生たちは真剣に聴き入ってくれていたが、「今日の授業はここまで」と締め括ると、何人かの学生の顔は、「先生、これ、何の授業だったのでしょうか?」と問いたげであった。












自然への畏怖、豊穣祈願、祭り、文学の原型、そして文学の誕生へ

2014-09-18 18:13:37 | 講義の余白から

 木曜日には担当授業が二コマ組まれているが、修士の一・二年合同ゼミは隔週なので、今日は午前十時から正午までの二年生の古代文学史の一コマのみ。
 昨日というか今朝三時に起きて準備した資料をプロジェクターで映しながら講義しようと思ったのに、何度か試したが私のパソコンを階段教室のシステムがなぜか認識してくれない。先週は何の問題もなかったのに。正直に言うと、機械には強い方ではない。あれこれ試しても時間の無駄に終わる可能性が高い。仕方ない。テキストのみをたよりにすべて口頭で説明する。
 こういうことは前任校でもときどきあったことで、この程度のことで慌てふためくことはないし(しかし、せっかく準備してきたのにと少し腹は立つ)、すべてしゃべりだけで説明しようと一旦頭を切り替えると、かえって話すことに集中できて、うまくいくことが多い。今日もほぼ二時間、ノートなしで喋ったが、学生たちも非常によく耳を傾けてくれていた。
 今日のテーマは、日本の古代文学史そのものに入るための導入として、文学の誕生に至る人間の歴史。採集生活から、組織的な作業を必要とする水稲耕作のための定住化、そこから生まれる集団生活、そして共同体的社会の成立、文化の誕生、小国への進展。これらの社会の組織化の過程の中で、人々が抱き続けていた自然に対する畏怖、豊穣への祈願が〈祭り〉として共同体の安定の維持に不可欠な要素となっていく。その祭りの場で語られれる神聖な詞章(呪言や呪詞)、これが文学の原型。これらの詞章は、日常の言語とは異なり、韻律をもった律文として唱えられる。しかし、この段階では、詞章はまだ祭りの場の音楽や舞踊と一体化したままである。共同体の統合が進み、諸小国から統一国家が形成されていく過程の中で、神聖な詞章もしだいに言語表現としての自立性を獲得し、それとして洗練されていく。ここに文学が誕生する。最初の形態は、だから、歌謡であり、神話であった。
 ここまでの話に関しては、学生たちはテキストを予習してきていることになっているのだが、見たところ本当に予習してきたのは半分以下だろうか。確かにやたらと難しい漢字は出てくるし、表現も難しい。一年間だけ日本語を勉強しただけの学生には難しすぎる文章であろう。だから、前期の前半は大目に見ることにしたが、その代わり、予習ではなく、講義で説明されたテキストの仏訳の提出を今日から宿題として義務づけた。ちゃんと予習してきた学生たちにとっては、講義を聴きながら自分の訳を直していけばよかったのだから、宿題といっても簡単であろう。そうでない学生たちにとってもいやでも講義の復習として訳さなくてはならないのだからいい勉強になるはずである。
 まだ授業時間が二十分残っていたので、次の節「口承から記載へ」に少し入る。ここから日本文学にとって固有の問題が始まる。つまり、表記システムとしての大陸からの漢字の導入である。これがそれまでの流動的な表現を固定化し、歌謡は定型化への、神話は散文化への道をたどっていくことになるが、土着の歌謡と神話を、それとはまったく異質な文字言語で表記することに伴う様々な問題が発生し、それが日本の表記文学にその起源において世界に例を見ない特異性を与えることになる。
来週はここから話を再開する。












湯水の如く湯水を使える有り難さ、そして思慕とあこがれ、新古今集の世界へ

2014-09-17 19:58:22 | 講義の余白から

 九月一日にガスが止まり、したがってボイラーも使えず、以来ずっとお湯が使えなかったが、今朝、丸十六日ぶりに目出度くガス・メーターが設置され、それと同時にボイラーもまた使えるようになった。蛇口をひねるとお湯が出てくる有り難さを、流れるお湯に手を浸し、立ち上る湯気を見つめながら、しみじみと感じたしだいである。震災や豪雨等の被災地の方々のご不便を思えば、まったく取るに足りないことで、大騒ぎするようなことではまったくないのであるが、やはり嬉しかったのである。気にかけてくれていた同僚たちに「やっとお湯が使えるようになった!」とメールしたら、即座に「ハレルヤ!」「おめでとぉぉぉぉぉ!」と返事が返ってきた(後者はこの通りに日本語のメールをくれたのである)。湯水の如く湯水を使えるという普段当たり前だと思っていることが、こうして十六日間不可能だったことで、味わうことができた喜びであった。
 今日の講義は学部三年の中世日本文学史。先週宿題にしておいたテキスト本文の仏訳の講評と補足説明だけで二時間の講義のうちの一時間半かかり、こちらも昨日同様テキスト読解は遅々として進まない。学生たちも半ば呆れたような顔しているが、それでもけっこう私の説明に耳を傾けているし、中にはものすごい勢いでパソコンのキーを叩いている学生もいる。
 今日、特に問題としたのは、テキストにある「王朝文化への思慕とあこがれ」という表現の意味するところである。それを説明するのに「慕ふ」という日本語が古代から現代までどのような意味で使われてきたかというところから説き起こすのであるから、時間がかかって当然である。
 その説明の中で『古今和歌集』の中の「したはれて来にし心の身にしあればかへるさまには道も知られず」という藤原兼茂の歌(巻八・離別)を引いて、「ここでの「したふ」は「後を追ってついてゆく」という意味で、全体としては、「あなたを追いかけていつの間にかここまで来てしまった、そんな心が我が身のうちにあるから、さあ帰ろうと思っても、もう帰り道がわからない」というような意味だよ」と説明したら、幾人かの女子学生がこの歌に少し心を動かされたかのようであった。
 「あこがれ」の方も同じやり方ですると、もうそれだけで講義が終わってしまいそうだったので、こちらは簡単に済ませたが、本当はこの語についても、和泉式部の「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」を引いて、「何かを求めて魂が身から彷徨い出る」あるいは「それほどまでに心引かれ、そわそわと落ち着かなくなる」ということなのだということを説明したかったところであるが、それはまた別の機会としよう。
 この説明に引き続いて、『新古今集』の美学について、定家の有名な歌を二つ「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」と三夕の歌の一つ「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」を引いて簡単に説明したのだが、そもそも簡単に説明できることではない。それはともかく、言葉の持つイメージ喚起力を極限にまで高めることで幻想的でさえある美的世界を現出させ、しかも本歌取りによって和歌文学の伝統の中の連続性を確保し、さらに『源氏物語』などの物語世界への通路をも開くという、たった三十一文字の中に込められた極めて高度な技巧について説明すると、もう付いていけないとばかりに、皆ため息をついていた。
 しかし、講義している本人は、日本の古典文学はなんと繊細かつ豊穣、そして奥行きのある美的体験の世界であることかと説明しながら感動をあらたにしており、大変満足なのである。
 これから明日の上代文学史の準備の仕上げをしてから、ほぼ三週間ぶりにゆっくりと風呂に入り、寝ることにする。













石根木立青水沫も事問う「迦微」に満ちた国

2014-09-16 18:43:03 | 講義の余白から

 今日の修士二年の演習では、家永三郎の『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』を先週から読み始めたわけであるが、テキストの読解は遅々として進まない。先週は予習なしの初見のテキストであったし、最初の段落で問題提起、問題領域の限定、思想史の方法論など序論的なことが述べられている箇所だから、それらの解説に時間がかかったのは致し方ないとして、今日は二時間かけて第一節の最初の六行を読んだだけであった。どうしてそういうことになるのか。それは学生たちにとってのテキストの語彙的・構文的難しさということもあるのだが、ただの仏訳ということであれば十分もあれば足りるところを私の説明があちこちに広がってしまい、なかなか収拾がつかないのが主な原因であると認めなくてはならない。
 今日読んだ箇所の二行目(『家永三郎集』第一巻、八一頁)に「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこのかむのよごと)からの引用「石根木立青水沫も事問」があるのだが、この一言に込められた自然に対する日本の古代人の宗教的感情を説明するために約一時間を要した。この「神賀詞」は、出雲国造が新任の時,出雲の神々を一年間潔斎して祭り,その神々の祝いの言葉を朝廷に出て奏上するとともに臣従を誓う時の祝詞であるわけだが、単にその同時代の同様な表現の例に言及するだけでなく、なぜか脳科学の見地からの日本人の脳の話から、日本語による知覚世界の把握の特性へと話が移り、さらには井筒俊彦における世界の分節化原理としての〈コトバ〉論にまで話が及び、なかなかテキストに帰れないのである。時計を見れば、授業開始からすでに一時間十五分経過している。「これはいかん」気づいてテキストに戻り、学生たちに三行読んで訳してもらったが、そこに「迦微」(カミ)という言葉が出てくる。ここでは、予め学生たちに送付しておいた本居宣長の『古事記伝 神代一之巻』の「神」の説明箇所を一緒に読みつつ、宣長の説明による「神」が、いかに西欧の神と異なり、それがどれほど異なった宗教的世界像をもたらすかという大きな話になり、『もののけ姫』の話も出たし(って私がしたんですが)、なぜ日本にキリスト教は根付かないかという問題にも触れたところで、時間切れである。
 来週こそは、古代人における「見ゆ」の世界というテーマに入らなくてはいけない。














精神の朝ご飯

2014-09-15 21:32:28 | 雑感

 毎朝、簡単だがバランスの取れた食事を心掛けている。毎日のようにプールに通ってもいる。どちらも健康維持のためである。幼少の頃はよく熱を出したりして、母親を心配させ、病院にも度々お世話になっていたようであるが、生まれてのこの方、大病をしたことは幸い一度もない。成人してからは、そもそも病気で病院にかかることもほとんどなく、特にフランスで暮らすようになってからは、健康診断以外で医者にかかったのは、皮膚のかぶれのための一回だけである。昨年夏、帰国中に、生まれて初めて人間ドックに入ったが、結果は良好で、どこも悪いところはなかった。昨年末に帰国した時には、知り合いの歯医者で検診とクリーニングをしてもらった。そのときにも異常なし。ありがたいことである。
 これもほぼ毎朝のことなのだが、小学校の十分間読書運動ではないけれど、分野を異にする数冊の本を少しずつ並行させて読んでいる。今は、次の四冊を読んでいる。一冊目は、先日も何度か話題にした « L’émergence » という科学哲学の分野の論文。この論文は、偶然性と意志の自由を科学的決定論とどう調和させるかという問題に答えようとしてきた十九世紀から今日までの哲学者や科学者たちの様々な理論的試みの変遷を、原典からの多数の引用を適宜配しながら手際よく網羅的に辿っている。二冊目は、ラヴェッソンが二十一歳の時に懸賞論文に応募するために書き始め、翌年には最優秀賞を受賞した Essai sur la « Métaphysique » d’Aristote という、実にエレガントなフランス語で書かれたアリストテレス『形而上学』研究の大著(Cerf, 2007)。三冊目は、二人のフランスを代表するヘーゲル学者によるマイスター・エックハルトのドイツ語説教集の仏訳一巻本(Albin Michel, 2009)。この説教集の今日の標準ドイツ語とはかなり異なる中世の中高ドイツ語を、その独特の表現の厳つさと躍動性をできるだけ損なわずにフランス語に映し出そうと試みている訳。そして、四冊目は、日本人の戦争経験について、一九三七年から一九五二年に渡って、その多層性・多重性・多様性・両義性・曖昧性等を、文学・芸術・建築・映画・政治・思想・宗教、教育等多数の分野に跨がる第一次資料の博捜と現地調査に基づいて、細部のニュアンスを損なうことなしに見事に浮かび上がらせることに成功している Michael Lucken の Les Japonais et la guerre 1937-1952 (Fayard, 2013) 。この本は、アカデミー・フランセーズの今年の Prix Thiers を受賞しているが、この賞がヨーロッパ以外を対象とした研究に授与されたのはこれが初めてのことである。著者を知っているだけに、賛嘆の気持ちもそれだけ大きく、もう少しで読み終わるのが惜しくさえある。
 これらの読書はいわば精神の朝ご飯のようなもので、こちらもできるだけ偏らずにいろいろ知的栄養を吸収するように心掛けている。
 これら二つの朝食を取ってから、その日の仕事を始める。つまり、主に授業の準備のために必要な日本史および日本文学史関連の参考文献と古典そのものを読み始める。あるいは、二つの朝食の間にプールに泳ぎに行き、それから仕事に取り掛かる。












七百年の時を超えてのエックハルトとの機縁

2014-09-14 19:18:18 | 雑感

 ドイツ神秘主義の最高峰マイスター・エックハルトがパリ大学での二年間の神学教授の職を終えたあとに、その所在が確認されるのは、今からちょうど七百年前の一三一四年ストラスブールにおいてである。この地で、ドミニコ会総長代理として、ライン河流域地方の諸修道院、ことに女子修道院と、民衆信徒の霊的生活を指導する総監督に専念するためであった。
 エックハルトのストラスブール時代は約十年近くに及ぶ。アルザス地方は元来異端的宗教運動の長い歴史を持つ地方であり、ストラスブールはその一大拠点であった。それゆえ、エックハルトのここでの大きな使命の一つは、それら異端の徒の改宗であり、そのためにドミニコ会本来の使命である説教活動を積極的に展開していくことになる。
 聴衆はそれら異端的傾向に傾きがちな現地の信徒たちであったから、説教での使用言語は、当時のヨーロッパの神学の共通言語であるラテン語ではなく、現地語のドイツ語であった。このストラスブールに端を発するドイツ語説教がエックハルト独自の神秘主義的神学を開花させていく。上田閑照の『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)によれば、「ドイツ語説教を通しての僧俗に対する影響は、ラインの流れの如く、シュトラスブルクからケルンに向かって広大にとどめ難いものになっていく」(一八四頁)。
 このストラスブール時代に、エックハルトと併せてドイツ神秘主義の三つの巨星とされる二人の直弟子、ヨハネス・タウラーとハインリヒ・ゾイゼがエックハルトに親しく師事する機縁があったとされている。
 西田哲学への関心をきっかけとして私がエックハルトを読むようになってからもう二十年以上になる。カトリックの教義を突破しかねない徹底した神学的思考には読むたびに心の深いところで動かされるものがある。そのエックハルトゆかりの地に今再びこうして住んでいる。ストラスブールのドミニコ会に属する日本人修道士とは、その修士論文の審査員を引き受けたことがきっかけで、数年前から知り合いになった。私が自分の博士論文の公開審査を受けたストラスブール大学神学部の教室は、「タウラー教室」と名づけられていた。これらすべて機縁というものなのかもしれない。
 これからもずっと、エックハルトの説教集・論述集は私の座右の書であり続けるだろう。












川の流れに囲まれて

2014-09-13 19:33:33 | 雑感

 ストラスブールへの転任が事実上決まって住居を探し始めたとき、居住地区としては、かつて住んでいた街区、大学附属植物園近くの閑静な住宅街、ライン川の辺りの新開発地区、これら三つに絞った。それらに共通するのは、川の辺りにあるということである。
 若い頃、日本国内をあちこち旅行していたとき、旭川、金沢、高山など、住んでみたいなと思った街には必ず川が流れていた。以来、住むんだったら、川のある街がいいなと思っていた。どうしてなのだろうと考えてみた。おそらく、一つには絶えず流れるものへの憧憬、一つには川の上の空はいつも開けていることが与える開放感に魅せられていたのだろう。
 パリに住んでいたとき、通勤に使っていたメトロ六番線はエッフェル塔が間近に見える距離のところでセーヌ川を横断する。そこからの景観が好きだった。本を読んでいても、セーヌ川に差しかかるとふと目を上げる。私だけではない。その景観はメトロからしか味わえない。革命記念日恒例の花火がエッフェル塔下やシャイヨー宮から打ち上げられるとき、セーヌ川上で電車をほんの僅かだが停止させるという粋な計らいを運転手がしてくれたこともあった。その時は車内で歓声が上がった。
 ストラスブール市内を幾つもの支流に分かれながら流れているリル川は街の景観の大切な構成要素の一つであり、歩いて或は路面電車でリル川上に架けられた様々な橋を渡るとき、そのそれぞれの橋上から開かれるパースペクティヴにはいつも魅惑される。そんな景観のすぐ脇にある植物園の真向かいのアパルトマンは、今回の住居探しの最終候補まで残った。最上階の五階でエレベーターがなく、窓からの眺めが他の建物の裏側であまり綺麗とは言えず、間取りも気に入らず、地下の物置もないということなどが「落選」の理由だった。立地条件と建物の正面の姿とは本当に気に入っていたのだけれど。
 雄大なライン川の滔々とした流れはまた格別である。スイスの山脈の水源から発し、独仏国境を北上し、オランダで北海に注ぐこのヨーロッパを代表する大河が見下ろせる地区に住むのも悪くないなと思っていた。いくつか魅力的な物件があったのだが、いずれも入居可能時期がこちらの都合に合わず諦めた。今住んでいる所から当分動くつもりはないけれど、もし引っ越すとなったら、今度はライン川の辺りにしようかなと思ってもいる。
 今住んでいる地区は四方すべてリル川の支流に囲まれていて、どっちに向かって外出するにも必ず両岸を樹々に覆われた川を渡る。橋を渡るとき、必ず左右の風景に目が行く。プールに行くときもそう。アーチ型の小さな橋を渡ればもうすぐ向こうがプール。大学に行く時に使う路面電車に乗るには、そのプールを通り過ぎてさらに三分ほど、欧州議会の真ん前の駅まで歩く。支流は段差のあるところ以外はいたって穏やかな流れで、いつも白鳥や鴨たちがのんびり行き来している。プールの近くにはカヌーの学校があり、小中高生たちがよく練習している。彼らのはしゃぐ黄色い声と、インストラクターの張りのある声が川面に響く。買い物に行くときは、自家菜園で暮らしているらしい平屋の家が並ぶ川辺りを歩いていく。
 決して便利なところではないが、住まいの周りの景観によって自ずと癒やされる今の住環境は気に入っている。












言葉が生動するとき ― 身体に書き込み、腹から声を出す

2014-09-12 19:55:06 | 講義の余白から

 今日は朝から夜までずっと細雨が音もなく降っていた。日中の最高気温は十五、六度。第一週目の講義も今日金曜日の午前九時からの古代日本文学史の一コマで終わり。こんなちょっと寒く暗い日に講義をするのは嫌いではない。雨に濡れてしっとりしたキャッンパスには、歩いている学生たちも晴れた日に比べれば格段に少なく、教室内も全体として静かで落ち着いた雰囲気に包まれる。
 昨日と同じ学部二年生の講義なので、顔ぶれも昨日と同じなのだが、今日の教室は定員五十人ほどの小さな教室で、最前列の学生たちとは二メートルと離れていない。最後列の学生たちとも隣同士の小声の私語が聞こえてくるほどしか離れていない。昨日のような階段教室だと離れたところに座っている学生たちを見上げるようにして話すことになるが、今日の教室では、座って話せば向い合って普通に会話するような調子で話せるし、立って教室内を歩けば、どの学生の側にもすぐに立つことができる。すぐ前あるいは横に立たれたときの学生たちの緊張もよくわかる。
 私は原則として詳細な講義ノートは用意しない。小型ノートの見開き二頁にその日話すことの要点だけメモしておき、大抵はそれも見ないで話す。とはいっても、そのときの思いつきで話すのではなく、まったく逆に、その日話す内容の全体の構成が「一望」できるようになるまで、前日までに繰り返し頭の中で反芻する。感覚としては、言いたいことをノートに書き込むのではなく、自己身体に直接書き込んでおくとでもいった感じである。そして、教室では、その体に書き込まれた言葉を腹から聞き手に向かって発する。
 自分の話が相手に伝わったと確信できるときには、きっと次のようなことが起こっているのだと思う。頭で言葉を探すことなく、身体の内側から言葉が自ずと沸き起こり、それが「肉声」となって身体器官によって発せられるとき、その言葉は聞き手の身体に共振を引き起こす。このとき、その言葉は、単に知的に了解されたのではなく、聞き手の身体の中で生動し始める。
 今週の五コマの授業では、そのいずれにおいても、これまでの長い期間に自分の身体に深く書き込まれていた言葉の群れが一気に生動し始め、それらの言葉が自ずと私の体を使って発せられていくかのような感覚を抱きながら話すことができた。あたかもそのように発現しうる場所をそれらの言葉が今までずっと待っていたかのようであった。幾分かでもそれらの言葉が学生たちの心身に共振を引き起こし得たとすれば、教師としてこれにまさる幸いは私にはない。












四時間しゃべり通す、でもお湯は来ない

2014-09-11 18:21:17 | 講義の余白から

 今朝、ガス会社の担当者が来てメーターを設置することになっていた。七時四五分から十時の間に来るという約束になっていた。私は十時から講義がある。家から大学まで少なくとも三十分は見なくてはならない。九時過ぎまで待つが来ない。仕方なしに家を出る。路面電車の駅まで徒歩八分かかるが、その間に頭を出講モードに切り替える。今日は二コマ四時間。
 一コマ目は、学部二年生の上代日本文学史。百人は優に収容できるかなり急勾配の階段教室。二年生の登録数は平均して一年生の半分、三年生の倍、つまり学年が上がるに従って学生数は半減していくというのがフランスの大学の一般的傾向であるが、もちろん年により大学により多少の増減はある。昨日の三年生が二七名であったから、だいたい五十名前後を予想していたが、それよりかなり少ない。出席票を講義の後で回収して数えると、三十五名。
 大きな教室なのに学生数が少ないと、教師も学生もどうしても調子が出にくいものであるが、今日は二年生との初顔合わせであるから、最初が肝心とばかりに、声を大きくして初めからハイペースで話し始め、学生の注意を一気に引きつけるようにした。ただ、その場合でも、ところどころで落ちをつけることは、彼らに集中力を維持させるためにも必要だ。
 昨日から今朝までかけて準備したパワーポイントを使って、大きなスクリーンに検討対象の文章を大写しにし、各文の構成要素を機能別に複数の色を使って塗り分け、徹底的に文の構造を分析しながら、昨日同様、文学史を学ぶことの意義、そのために自覚的に取るべき姿勢、古典文学をその歴史的文脈において理解するために必要とされる作業等を説明していった。
 彼らはまだ二年生になったばかりで、一年生の間は日本語の文章を読んだことがあるといっても、教科書の中の日本語だけであるから、実際に使われている日本語の文章(高校レベル)に接するのは、これが初めてという学生も少なくない。だからといって、私は易しい日本語から始めるということをしない。これは前任校でもそうだった。いきなり一年後には到達していなければならない水準を示す。当然彼らは自分たちの現在の日本語能力ではまったく歯がたたない文章を前に愕然とする。しかし、この一年と二年との間にある歴然たるレベルの違いを最初に突きつけ、一年後に三年に進級するために要求されるこれからの飛躍的努力を自覚させることは彼ら自身のためなのだ。
 こちらは二時間しゃべり通し、学生たちはノートを取り続ける。筆記用具を投げ出し、途中でリタイアしてしまった学生もいる。しかし、全体として手応えは十分であった。
 休み時間なしで修士の一・二年合同演習の教室に移る。出席者は、十四名。二名欠席(うち一人は一昨日欠席理由を私に直接説明済)。この演習の目的は、来年二月に予定されている日本の大学の学生たちとの共同ゼミの準備学習である。日本語の一冊の本を読み込み、その理解を基に二月のゼミで日本人学生たちと二日間日本語で議論する。先日もちょっと触れたが、私が選んだテキストは高橋哲哉の『靖国問題』(ちくま新書)。今日のところは、なぜ私がこのテキストを選び、何がこのテキストを通じて問題になるのかということを、同書の仏語版のために高橋哲哉自身が書いたイントロダクションの一部を読みながら、関連する問題、参考文献、今現在の日本の政治的状況等にも触れつつ、すべてフランス語で話した。学生たちの集中力も最後まで途切れることがなく、皆かなり強い関心を持ってくれたようである。
 この演習は隔週で、次回は二週間後だが、その回も私の方で第一章の紹介と分析を行う。その次の回からは、今日四つのグループに分かれた学生たちが、各グループ一章ずつ内容紹介と分析・批判的検討を発表していく。その作業を通じて全体の理解を深めた上で、二月までに共同ゼミでのグループごとの発表テーマを決め、日本語での発表原稿を準備する。学生たちにはちょっと負担の大きい課題だし、それを指導する私もかなりの時間を準備に割くことを求められるだろうが、問題自体は真剣に取り組むべきまさに現在的な課題であるから、彼らとともにまずは問題の理解を深め、より普遍的な問題を具体的な手がりを通じで考えていく態度を学んでいきたい。
 というわけで、二コマとも大変うまくいったのであるが、それでもガスはまだ来ないのである。帰宅すると、郵便受けに不在通知が入っていた。係員は九時二五分に来たようである。つまり彼に落ち度はない。十時から講義があることをわかっていながら、一日も早くお湯が欲しかったので「賭け」に出たわけであるが、見事に外れたわけである。不在票に記されていた連絡先に電話し、改めてメーター設置の予約をした。来週水曜日の午前中である。つまり、さらに一週間お湯なしの生活が続く。