内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私撰万葉秀歌(6) うらさぶる心さまねし ― 天地有情の世界に佇みながら

2014-01-21 00:00:00 | 詩歌逍遥

うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば (巻一・八二)

 「うら寂しい思いが胸いっぱいにひろがる。ひさかたの天のしぐれが宙にういてはらはらと流れ合っているのを見ると」(伊藤博訳注『新版万葉集 一』角川文庫)。「心寂しい想いで胸があふれるほどだ、(ひさかたの)遠い空から、しぐれの雨が交差しながら流れるように降って来るのを見ると」(新版「万葉集(一)」岩波文庫)。後者の版の注によれば、作者未詳の古歌。同注には、次のような注釈が付されていて、この歌の理解と観賞を助けてくれる。

万葉集の「しぐれ」は常に寂しく降る情景であり、視覚の景である。第三句「ひさかたの」という枕詞が、長い糸を引いて瀟々と降り続く「しぐれ」の実感を巧みに表し得ている。「さまねし」は、数多いの意の形容詞「まねし」に接頭語サを加えた形。「見ぬ日さまねし」(三九五五)。思いが多く、しきりであることを言う。

 どちらの訳にも共通して言えることは、「心さまねし」を「思いが胸いっぱいにひろがる」、「想いで胸があふれる」と訳していることからわかるように、感情を胸のあたりに感じられる身体感覚として捉えていて、外界の風景に対する反応として「心の中」に生じた感情とは見なしていないということである。この歌を読み、これら二つの訳を読みながら、このように考えるときに私が念頭に置いているのは、12月17日の記事で取り上げた大森荘蔵の最後の文章「自分と出会う — 意識こそ人と世界を隔てる元凶」(『大森荘蔵セレクション』平凡社ライブラリー、2011年)である。1996年、その死の前年に朝日新聞に掲載されたこの文章の中で、「心の中」に感情というと何でも取り込みたがる私たちのいわゆる近代的思考の「悪い癖」を批判しつつ、大森は次のように主張する。

 雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点景としての 私も又陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、其の一前景としての私も又晴れがましい気分になる。
 簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、その微小な前景として、その有情に参加する。

 冒頭に掲げた万葉歌は、まさにこの大森の主張の例証になっていると言えないであろうか。「空を流れ合うしぐれを見ている私の心の中にうら寂しい思いが湧いてきた」というような、「うら寂しさ」を私の心の中に閉じ込めてしまういわば近代的・個人主義的・主観的解釈を取らずに、大森の天地有情論に従って、「遠い空から瀟々としぐれの降り続くうら寂しい世界の中に立っている私も、その一点景としてうら寂しい思いにその胸が満たされている」、こう私はこの歌を解釈したい。













私撰万葉秀歌(5) 八十娘子らが汲み乱ふ ― 可憐なる映像詩

2014-01-20 00:00:00 | 詩歌逍遥

もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花 (巻十九・四一四三)

 「たくさんの娘子たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子の花よ」(伊藤博訳注『新版万葉集 四』角川文庫)。「八十娘子」は「ヤソオトメ」、「乱ふ」は「マガウ」、「堅香子」は「カタカゴ」と訓む。「堅香子」は、カタクリのことで、春、水辺の地に群生する。花弁の色は薄紫。その咲く姿はなんとも可憐。「寺井」は、「寺の境内に湧く清水」という説明を手元の古語辞典に見いだせるだけなので、そこからこちらの想像を膨らませて、この歌に詠まれた情景を描き出してみよう。
 早春、冷たく澄み滾滾と湧き出る水を汲みに水桶を手に、午前の陽光のきらめきの中、笑いさんざめきながら入れかわり立ちかわりやってくる乙女たち。その傍らに慎ましくも凛と可憐に咲く堅香子の花たち。見事と言うほかない動と静の対比、全景から小景への鮮やかな転換。湧き水の周りの乙女たちの賑やかで靭やかな身の動きを全体としてとらえた上三句から、その情景の中で乙女たちの足元に咲いている物言わぬ花たちをクローズアップする下二句へと、「寺井」を転換点として視点が移行する。乙女たちの〈動〉と花たちの〈静〉とを、寺井に地より湧き出る生命の源である水が結び合わせる。たった三十一文字によって構成された美しい映像詩。大伴家持のこの傑作によって、早春の生命の美が日本語において永遠化されたことを、改めて言祝ぎたい。













私撰万葉秀歌(4) 玉裳の裾に潮満つらむか ― 詩的に純化された清冽な官能性

2014-01-19 03:25:00 | 詩歌逍遥

嗚呼見の浦に船乗りすらむ娘子らが玉裳の裾に潮満つらむか (巻一・四〇)

 詞書に「伊勢の国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌」とあるから、持統天皇の伊勢行幸に供奉しなかった人麻呂が、明日香の都で詠んだ歌だとわかる。つまり、当地の光景を目の前にしての叙景歌ではなく、そこから遠く離れた場所からその地の行幸の一情景を思いやりながらの作。角川文庫『新版万葉集 一』伊藤博訳は、「嗚呼見の浦で船遊びをしているおとめたちの美しい裳の裾に、今頃は潮が満ち寄せていることであろうか」とし、「娘子の裳裾の濡れるさまは男性にとって心引かれる景とされた」と注する。岩波文庫新版『万葉集 一』は、「あみの浦で今ごろ船に乗りこんでいるに違いないおとめたちの美しい裳裾に、潮が満ち寄せているだろうか」と訳しているが、この訳だと娘子たちはすでに船に乗りこんでいるのだから、なぜその裳裾に潮が満ち寄せるのかという疑問が湧く。伊藤訳からは、乙女たちは浅瀬に停泊した船の周りで戯れていたのかもしれないと想像することもできる。その想像から、彼女たちの濡れた裳が下肢に張りつき、その柔らかな曲線を浮かび上がらせるという魅惑的な情景も目に浮かんでくる。乙女たちの巧むことなき初々しく清冽な官能性が人麻呂の詩的想像力によって純化された名歌だと言えようか。













私撰万葉秀歌(3) 君し踏みてば玉と拾はむ ― 恋する世界における物象変容

2014-01-18 00:03:00 | 詩歌逍遥

信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ (巻十四・三四〇〇)

 「さざれ石」は、原文では「左射礼思」となっているから、「サザレシ」と訓む。東歌らしい素直な詠み振りだから、歌意の理解に困難はない。「信濃の千曲の川の細れ石も、いとしい君が踏んだ石なら、玉と思って拾いましょう」(角川文庫『新版万葉集 三』伊藤博訳)。愛しい人が触れた物が宝玉のように大切なものとなり、とりわけその愛しい人が遠く離れているときには、その物をその人そのもののように大切にするという感受性は、万葉歌の中に広くその表現例が認められるが、感受性そのものとしてはいつの時代にもありうることだろう。愛しい人が触れたものは、たとえそれが河原を歩いている時に踏んだ小さな石ころの一つであったとしても、その人が触れたものだというただそのことだけで、万の宝石よりも掛け替えのないものに変容する。それまでは日常の風景のほんの一部をなしているに過ぎなったかった些細なものが何よりも大切なものに変容する。そのような世界の物象変容を経験することが「恋」なのだ。











おのが姿に身をかくしけり ― 純白無垢の雪景色

2014-01-17 00:10:00 | 詩歌逍遥

冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり

 道元禅師和歌集とされる『傘松道詠』中の「礼拝」と題された一首。同歌集の編纂・流布は江戸時代のことで、収録歌中道元真作かどうか疑われる歌も少なくないようである。そのような専門的な考究はともかくとして、歌の字面を素直にたどれば、「冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色の雪野原にいる白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ」というほどの意味だと了解するのに困難はない平明な歌である。この歌がなぜ「礼拝」と題されているのか、その理由を深読みしようとすることも、歌集の編纂過程を考えれば、あまり意味のないことだろうし、この歌から道元の思想に迫るというのもちょっと無理な注文だろう。
 この歌を冬になるとふと思い出すというばかりで、手元には同歌集の注釈書もなく、この歌に関連しそうな道元の諸著作を参照したわけでもない。手元にある本の中では、唐木順三の『日本人の心の歴史 上』中の「冬の美の発見」と題された第九章に数行この歌に言及した箇所を見出すことができるだけである(筑摩叢書、1976年、180頁)。そこで唐木は、上記の歌を引いた上で、それに対して次のような評釈を加える。

これには「禮拜」といふ題がついてゐる。白い雪野の中の白い鷺、その鷺が、その白さの中に身を沈めかくしてゐるといふのであらう。ではなぜそれが「禮拜」か。道元自身がその白鷺を禮拜したのか。白鷺を模範としたのか。おそらくさうだらう。
『正法眼蔵』「現成公案」の巻に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ」といふ言葉がでてくる。悟りの痕跡を残してゐたのではそれは悟りではない。悟つたといふ意識をも捨てよ、捨てることをも捨てて、悟りになりきれといふのであらう。悟りをも悟りつくせといふのであらう。白一色の雪の野に、おのが身をかくしつくす白鷺のやうに、佛法の白漫々地のなかで純白無垢になれといふのであらう。

 唐木の諸著作には若い頃随分親しみ、学ぶところ多かったし、今でも読み返すと、日本文化の固有性へのその鋭敏な感性に教えられるところ少なくないが、この引用の最後のところには少し違和感を覚えてしまう。とはいえ、唐木の解釈に正面切って反論する準備も蓄積も今はなく、ただ次のような浮薄な半畳を入れることを許されたし。
 ここは「純白無垢になれ」というような命令法なのだろうか。己自身のありのままの姿によって、他に対して際立つのではなく、風景の中に身を隠し、そのことで自分もまたその中にある純白無垢の雪景色がそれとして立ち現れる。そのような白鷺の有り方に気づいた、と言っているだけではないのだろうか。そのような白鷺を己の修行の模範にしようという計らいなど、少なくともこの歌のうちには読み取れない。白鷺はもともと白いのであって、白くなろうとして白くなったのではない。我が身を隠そうとして雪野に飛来したのでもない。白鷺がただそのままそこに居る、まさにそれゆえにこそその姿は雪野の中に消し去られ、純白無垢の雪景色がただただそれとして立ち現れた。それ以上でも以下でもない。













倫理の形象化としての詩的表現 ― 漱石名句集(2)

2014-01-16 00:47:00 | 詩歌逍遥

菫ほどな小さき人に生まれたし

 作句の背景を抜きにして、表現そのものから解釈してみる。もちろん一廉の評釈などという大それたことを試みようというのではなく、以下に記すのは、この句が私に引き起こした反応の走り書きにすぎない。
 「生まれたし」と願望を表現しているのだから、「今度生まれてくるとしたら」というような条件が暗黙の内に前提されているとも読める。しかし、だからといって、この世では叶わぬ夢に憧れているということでもなく、理想とはかけ離れた現実の自分を反省しているということでもなさそうである。むしろ、このような願望を持ちつつこの世を生きていこうという秘められた決意が、慎ましく微笑ましい仕方で示されていると読めるのではないであろうか。「こうあるべき」とか「こうするべき」とあからさまに言うことなしに、誰でも身近に目にすることができる道辺の可憐な菫に注がれる詩人の目がそれを人の有り方の理想と捉え、「菫ほどな小さき人」という具体的形象によって、人間としての品位が見事に表現されていると私は読みたい。







告げぬ恋、秘められた恋人の突然の訃報 に触れて― 漱石名句集(1)

2014-01-15 00:10:00 | 詩歌逍遥

有る程の菊抛げ入れよ棺の中

 明治四十三年、修善寺の大患後、東京に帰り、胃腸病院入院中の作。日記には、十一月十三日のところに「新聞で楠緒子さんの死を知る。九日大磯で死んで、十九日東京で葬式の由。驚く。」とあり、二日後の十五日の記事には、「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」と前書きして、この句とその前にもう一句併記されている。そのもう一句「棺には菊抛げ入れよ有らん程」は、『思い出す事など』や『漱石俳句集』には取られていない。確かに、ありったけの菊を投げ入れるという劇しい動作が「棺の中」に収束する上掲句のほうが余韻において深いと思う。
 記事中の「楠緒子さん」とは大塚楠緒子のこと。明治八年、東京麹町の富裕な裁判官の家に長女として生まれ、少女期から短歌、美文を発表。東京師範附属女学校(お茶の水高女の前身)を首席卒業。美貌の才媛として当時の東大生たちの間で評判になっていたという。漱石が東大大学院在学中に寄宿舎で同室だった学部以来の友人、小屋保治が後にこの楠緒子と大塚家の婿養子として結婚。漱石はもう一人の婿養子候補だった。保治と楠緒子の結婚の直後、漱石は、愛媛県尋常中学校(松山中学)に嘱託講師として赴任。楠緒子への尽きせぬ想いは、かくして漱石の胸のうちに深く秘められ、その秘められた想いが創作のモティーフとして以後繰り返し変奏されていく。
 明治四十三年十一月、楠緒子急逝。享年三十六。胃腸病院入院中の漱石に訃報が入る。修善寺で大吐血、人事不省に陥り、生死の境を彷徨った後、東京で予後を養っている時のことである。そこで冒頭に掲げた句が作られた。抒情に溺れず、悲嘆を悲嘆として詠まず、それらを断ち切り、秘められた恋人への追悼として、端的に具体的な一つの所作を命ずるこの凝縮された形象的表現は、人は人に対して結局のところ何で有りうるのか、何を為しうるのか、という根本的な問いを私に突きつける。











西田幾多郎と夏目漱石-短歌と俳句-膠着語と孤立語-連続と断絶

2014-01-14 00:45:00 | 読游摘録

 昨日の記事で引用した随筆「短歌について」の中で、西田は、短詩形の表現の固有性に触れ、次のように述べている。

短詩の形式によって人生を表現するということは、単に人生を短詩の形式によって表現するということではなく、人生には唯、短詩の形式によってのみ摑み得る人生の意義というものがあることを意味するのである。短詩の形式によって人生を摑むということは、人生を現在の中心から摑むということでなければならぬ。刹那の一点から見るということでなければならぬ(岩波文庫『西田幾多郎歌集』90-91頁)。

 しかし、俳句と短歌との違いについては、昨日引用した箇所の直前で、「俳句には俳句の領域があり、短歌には短歌の領域がある」と言っているだけで、俳句固有の領域については何も説明していない。実際、西田自身、短歌は数百首詠んでいるのに対して、俳句は全部合わせても百句ほど、しかも作句は三十代前半の第四高等学校教授時代に集中しており、出来栄えからしても、それとして論じるに値するほどの句はないようである。これは、短歌については独自の見解を持っており、読むものの心に触れる作品があるのと好対照をなしている。
 西田が東大選科生時代に教室で机を並べたこともあった一学年上の夏目漱石(「明治二十四、五年頃の東大文科大学選科」、岩波文庫『西田幾多郎随筆集』32頁)は、西田とは対照的に、生涯に約二六〇〇句の俳句を残したのに対し、短歌は全集に僅か八首しか収められていない。それに、漱石の俳句は、友人であり俳句の師匠でもあった正岡子規から、その独自の意匠を称賛されており、俳句作者としても独自の境地を拓いているし、『草枕』を自ら「俳句的小説」とも称していたから、漱石文学における俳句の位置は、西田哲学における短歌の位置よりはるかに重要であり、それについての研究も少なくない。
 しかし、作品としての質の高さ・その重要度云々ということはひとまず措くとして、私がここで注目したいのは、短歌においては、正岡子規が主催した「根岸短歌会」からアララギ派が生れ、島木赤彦はそれに連なり、その赤彦と西田に若干の交流があったのに対して、俳句においては、同じ子規を中心として極めて活発な創作活動を展開した日本派の中でもひときわ光るのが漱石だった(小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫、1995年、269頁)という事実である。この事実は、近代日本語における文学思想表現の系譜という観点から、非常に示唆的であると私には思われる。
 1月10日の記事で取り上げた佐竹昭広『萬葉集再読』には、「漱石と萬葉集」と題された大変興味深い論文が収められている。その中で佐竹は、「漱石は正岡子規から俳句を学んだが、短歌の道を学んだとは言えない。和歌に関する限り、子規の影響は漱石において皆無と言っても過言ではない」と言い切っている(同書205頁)。そこからさらに、「本来、漱石は、和歌が好きではなかったのではないか。気質的に和歌を受けつけなかったのではないか」と推論し、寺田寅彦による歌人と俳人との「通有的相違」についての説を引いた上で、その観点からすれば、「漱石は和歌型の人間ではなかった」という帰結を引き出す(206頁)。その後、和歌と俳句・漢詩との一般的差異論を展開し、以下の様に両者の違いを際立たせる。

日本の和歌は典型的な膠着語の文学であるが、これに対比すれば、漢詩・俳句は孤立語的な文学であると、譬えて言うことが可能であろう。
俳句は連歌の発句から発生したが、母体となった短歌が最も連続的な文学であるのに対して、俳句は、より多く断絶を志している(208頁)。

 漱石が、自らの文体について、「常に孤立語的な断絶志向の文体を選び続け、日本語の表現にとって、桎梏とも言うべき膠着語的性格からの離脱を、彼独自の形で見事に果たし得た作家であった」(208-209頁)と言うことができるとすれば、西田は、日本語の膠着語的性格と格闘しながら、そこから離脱するのではなく、むしろそれに沈潜することで、その性格においてはじめて可能となる思想表現を自らの哲学として形成した哲学者だったと言うことができるかもしれない。







表現論から場所論へ ― 西田哲学理解のための一方途

2014-01-13 00:15:00 | 哲学

 西田の詠んだ短歌は、文学作品として評価されうるほどの技巧と完成度を持ったものではないが、それだけに折々の感情が直によく表現されている歌が少なくない。本居宣長が『あしわけをぶね』で展開した和歌論の基本的テーゼ「ただ心に思ふことをいふより外なし」にまさに適った作歌姿勢だとさえ言えるかもしれない。それに、西田は、作歌を哲学的思索の合間の単なる慰みごととは見なしていなかった。自分の短歌観を持ち、作歌に際しては、それとして真剣に取り組んだと思われる。「短歌について」と題された1933年に『アララギ』に掲載された随筆では、「私は短歌によっては極めて内面的なるものが言い表されると思う。短歌は情緒の律動を現すものとして、勝義に於て抒情的というべきであろう」と述べている(岩波文庫『西田幾多郎歌集』91頁)。
 西田は、歌人島木赤彦と若干の交流があり、それに触れた短い文章を二つ残している。一つは、「島木赤彦君」と題された随筆、もう一つは、『赤彦全集』推薦の辞である。前者は、赤彦の没年1926年に没後半年ほどした10月『アララギ』に掲載された。故人についての回想と『歌道小見』についての感想を手短に記した後、「写生」という赤彦の歌論にとっての根本概念について、西田らしい哲学的見解が簡潔に表明されている。

写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。我々の身体は我々の生命の表現である。泣く所笑う所、一に潜める生命の表現ならざるはない。表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有つ真の生命の表現に外ならない。(中略)詩に於て物は物自身の姿を見るのである。生きるとは形を有つことであり、自己自身の形を有するもののみ生きたものである、形なきものは死せる概念に過ぎない(西田前掲書84頁)。

 この随筆が発表される数カ月前に、西田は論文「場所」を発表している。この随筆での写生論は場所論と無縁ではない、と仮定することは、だから、必ずしも牽強付会とは言えないであろう。この仮定に従えば、この写生論から場所論を理解するという一つの方途も見えてくる。
 この随筆では、自己が自己の姿を見ること、それが表現であり、その具体的な実現の形として俳句も短歌も捉えられている。この表現論から、西田のいう場所とは、自らの内に物の像を映すだけで、その物とは区別されそれ自体は不変のままにとどまる鏡のようなものではなく、物が物自身の姿をある形において見ること、言葉が生命の表現として自らをある音の連なりとして聞くことそのことだという規定を引き出すこともできる。私たちの身体についても同様である。私たちの躍動する身体が生命の表現として自らを生きることそのことが場所なのであり、そこから〈自己〉という関係性も生まれてくるのであり、逆ではない。

かにかくに思ひし事の跡絶えてたゞ春の日ぞ親しまれける

 この歌は昨日の記事の冒頭に掲げた歌の約二週間後に詠まれている。家庭内の度重なる不幸の只中にあって詠まれたこの歌そのものにおいて、一切の思い煩いによって損なわれることのない穏やかな春の陽光がそそぎ、その温みに親しむものとして陽に抱かれた作者がそれとして気づかれ、春日の風光の中に分節化されている。〈私〉が抒情するのではなく、抒情が〈私〉を情感的場所に立ち現れさせているのだ。







わが心深き底あり ― 西田哲学における根源的受容性

2014-01-12 04:36:00 | 哲学

わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ

 1923(大正12)年、西田53歳のときの歌である(『西田幾多郎歌集』岩波文庫、2009年、25頁。この文庫版には、「喜」には「よろこび」、「憂」には「うれひ」とルビが振られている)。西田はどのような心境でこの歌を詠んだのだろうか。上田閑照『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫、2002年)巻末の西田幾多郎略年譜からこの年の前後の身辺の事項を拾ってみよう。1919年に、妻寿美が脳溢血に倒れ、以後五年余りの病床に就き、1924年に亡くなっている。1920年には、長男謙が4月に急性腹膜炎にて入院、6月に没。享年23歳。「西田の悲嘆限りなし」と年譜にある。1922年5月、四女友子、六女梅子チフスにて入院。その月の日記に「友絶望という」、翌年、つまりこの記事のはじめに掲げた歌が詠まれた年の1月3日の日記には、「終身跛となるか狂となるかの岐路に立って居る我子の行末を思うも寸時も心のくもりはれる時はない」と記している(この四女友子は1941年に34歳の誕生日を前にして亡くなっている)。京都大学においては多くの優れた弟子たちに囲まれ、哲学者としての名声を築きつつあった西田だが、その家庭生活においては、家族の相次ぐ病と死によって、片時も心の休まるときがなかった時期にこの歌は詠まれているのである。同『歌集』での直前の歌は、「二月病児病院より帰る」の詞書を伴って、

子は右に母は左に床をなべ春は来れども起つ様もなし

数首後には、やはり「四月病児癒え難く思はる」の詞書とともに、

かくてのみ生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし

この二首の間に先の歌は詠まれている。
 「わが心深き底あり」というときの「深き底」とは、喜びも憂いもとどかない「底」とは、何のことだろうか。それは、あらゆる感情がそこから生まれて来るがそれ自体はいかなる感情にも還元されえない根源的な何かではないかと私は考える。そこにおいて、あらゆる感情がそれとして受け入れられている。〈私〉が受け入れているのではない。「深き底」が〈私〉の一切の思いに先立って、〈私〉のあらゆる思いを受け入れている。そのことの自覚がこの歌において表現されていると私は見る。そして、これを根源的受容性と私は呼ぶ。