内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「反近代」あるいは近代の「陰画」としての徂徠思想の「現代性」

2019-11-29 05:20:22 | 哲学

 一昨日水曜日のオフィス・アワーには、来年度日本の大学への留学を希望する学生たちが押し寄せてきて質問攻めにあい、その対応に大わらわであった。修士の演習の開始時間まで残り15分となったところで、やれやれ一段落したと思ったら、先日「研究入門」の課題レポートに丸山眞男の『日本政治思想史研究』を選んだと言いに来た学部二年の男子学生が飛び込んできた。
 「先生、こんにちは」と一言日本語で挨拶するやいなや、私が「そこに座って」と言う前に私の机の前の椅子に座り、フランス語で「荻生徂徠の思想についてわからないことがあるんですけれど」と切り出し、滔々と話し始めた。徂徠の政治思想が近代政治思想を先取りするものであるかのように語られているけれども、政治とは独立に、個人の個人としての自由と独立を認めない彼の思想は、むしろ近代的主体概念に背を向けたものであり、前世代の山鹿素行や伊藤仁斎と比べても、この点でむしろ一歩後退しているのではないか、というのが彼の疑問の主旨であった。この疑問には、彼の日本思想史についての知識が『日本政治思想史研究』に限られていることから来る性急さがあることは言うまでもないが、彼が徂徠の思想の「反近代性」をかなり正確に捉えていることには感心した。
 徂徠の政治思想においてなぜ礼楽が重視されたのか、徂徠が当時の社会状況をどう見ていたか、その諸悪の起源がどこにあると見ていたか、それに対してどのような政治的提言を持っていたか、大急ぎで説明した上で、「君の疑問はもっともだし、重要な論点の指摘になっているけれども、むしろその徂徠思想の「反近代性」が西洋的近代性に対する根本的な異議申し立てになっているからこそ、徂徠思想は「現代性」を持っていると言えるのではないかな」と答えたところで、時間切れになってしまった。
 別れ際に、「また何か疑問が出てきたら、オフィス・アワーに来なさい。それに来週の「研究入門」の授業で、日本近代思想史における「主体」概念を扱うので、それが君の今日の疑問に間接的かつ部分的にではあるが答えることにもなると思う」とは告げておいた。
 彼の質問に答えているときに私の念頭にあったのは、渡辺浩著『日本政治思想史』(東京大学出版会 2010年)の次の一節であった。

 荻生徂徠の思想の根幹は、ときに「近代的」と呼ばれる立場の逆、ほぼ正確な陰画である。すなわち、歴史観としては反進歩・反発展・反成長である。そして、反都市化・反市場経済である。個々人の生活については反「自由」にして反平等であり、被治者については反「啓蒙」である。そして、政治については徹底した反民主主義である。そういうものとして見事に一貫しているのである。
 賛同しにくい立場かもしれない。しかし、徂徠は、有限な天地で、市場経済による無限の「発展」が可能だ、などとは信じないのである。そして、自由に流動して浅い人間関係しか持たず、それでいて悪事に走らず秩序を保てるほどに人間は立派だ、とも信じないのである。我々は、それにどう反論できるのだろうか。(197-198頁)












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