内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「毎朝に懈怠無く死にて置くべし」― 生の哲学としての『葉隠』

2021-08-23 23:59:59 | 雑感

 午前4時起床。4時半、ジョギング出発。1時間3分で10キロ走る。一昨日昨日と少し負荷を減らしたせいか、両膝周囲の怠さはとれ、ゆっくりとではあるが休まず走り続けることができた。
 明後日に第二回目接種を控えており、接種後の副反応については慎重に経過を見守る必要があるので、今月末までは、とにかく体に過度な負荷をかけないように気をつけよう。体組成計の数値、スマートウォッチで計測できる血中酸素飽和度も毎日確認している。それらの数値はすべて良好、体のどこにも痛いところはなく、何か違和感を覚えるところもない。
 それはほんとうにありがたいことだと思うが、いつ大きな変調に襲われないともかぎらない。そうなれば、それはそれで仕方ない。ただ、そうなったときに慌てないよう日頃から備えはしておかなくてはならないと日増しに思う。
 午前中、昨日を読み終えた翻訳の査読レポートを書く。書式も決まっており、A4一枚に収めるのが原則だから、さほど時間はかからず、1時間半ほどで済む。
 今日から大学の事務は再開。仕事のメールがどっと押し寄せるかとちょっと恐れていたが、たいしたこともなく、ほっとする。
 早めの夕食後、小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』(講談社学術文庫 1999年)を少し読み進める。『葉隠』のテキストを、その成立当時と前後の歴史的文脈の中に置き、常朝固有の来歴や聞き書き当時置かれた状況等を考慮しながら、いたずらな理念化・理想化・聖典化を厳格に排除しつつ読み解き、常朝の説く武士道の真髄に迫ろうとする姿勢には大いに学ぶべきものがある。

必死の観念、一日仕限に成すべし。毎朝身心を静め、弓・鉄砲・鑓・太刀先にてづたづたに成り、大浪に打取られ、大火の中に飛入り、雷電に打ちひしがれ、大地震にて揺りこまれ、数千丈のほきに飛込み、病死、頓死などの死期の心を観念し、朝毎に無懈怠死にて置くべし。古老云「軒を出れば死人の中、門を出れば敵を見る」と也。用心の事にあらず。前方に死にて置く事也、と。(十一・一三二)

 『葉隠』のこの箇所の注釈として小池はこう述べている。

 常朝の無常感は仏教思想からの借り物ではない。
 「前方に死て置く」ための方途として彼は「毎朝無懈怠死て置」ことすなわち「死習ひ」を説くが、思うに彼が治世における行動として封印し精神として継承した「死狂ひ」とは、弱者を鼓舞して「死習」わしめ彼等をして「前方」の死に决定せしめる最も有効な手段であり道程であったろう。常朝の説くところは「病死・頓死」を含めたあらゆる死の学習を介して不断に死と対峙し、その緊張関係を利して、「夢幻」のごとく何の手応えもない世間のうちにその死に見合うような「見事」な生の地平を切り拓くことにある。「常住死人」にしてはじめて可能な「生」の地平をである。(362頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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