内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏の終わりの自省録(2)

2013-08-30 02:46:30 | 雑感

 家系を見るかぎり、父方にも母方にも精神疾患を患っていた者は親族間には見当たらず、遺伝形質的に見ても、何らかの精神疾患への親和性を示す要素はないと思われるし、他者から対人関係上のなんらかの異常性を指摘されたこともないし、ましてや精神科での治療を必要とするほどに日常生活に支障をきたすような状態に陥ったこともない。とはいえ、第三者が今の私の精神状態を客観的に観察しても、診療を勧めるような状態に自分が陥っていないと断言できるほどの自信はない。
 人付き合いが上手だとは、どう贔屓目に見ても言えないが、いわゆる「人間嫌い」などではけっしてなく、もともとはむしろ人と話すことは好きで、良き話し相手が得られれば、むしろ饒舌な方だと言ってもよいし、人の話も注意深く聴く方だと思う。人の間に居れば、それなりに社会性のある立ち居振る舞いはしてきたし、これからもできるつもりだ。問題は、したがって、与えられたその都度の機会における、いわゆるコミュニケーション能力にあるのではない。
 しかし、今私が置かれている生活状況は、どう考えても精神衛生上健全ではない。このまま手を拱いていれば、その状況がひとりでに好転するはずはなく、蓄積する精神的疲弊が突如として重篤な身体的疾患として顕現する可能性も否定できない。パリではここ数年独り暮らしだから、休暇中など数日間まったく人と口を利かないで過ごすことがしばしばある。外出はほぼ毎日するが、それは人に会うためであることは少ない。
 8月20日に日本からパリに戻ってきて今日で10日あまりになるが、アパルトマンの近所や店やプールで一言二言交わす以外は、まったく会話がない。夏休み中は仕事関係のコンタクトさえない。新学年が始まれば、特に年度初めは毎度のことだが、とても忙しなく、その忙しなさによって気持ちも紛れていくことはわかっている。しかし、これもまた、人と人との関係の問題について何ら本来的な解決をもたらしてくれるものではない。
 2007年11月から2009年4月までは一緒に暮らしていた人がいたし、その人が帰国した後も、ほとんど毎日のようにメールをやりとりし、週に1回はスカイプで話していたし、その人が短期でこっちに来たり、私が日本に行ったりして年に何回か数週間単位で一緒に過ごしていたから、普段離れていても、精神的には安定していた。しかし、まさに勇気と楽観を私に与えてくれていたこの関係がこの4月に突然脆くも崩壊する。
 その後、その都度何の前兆もなく、このままだと正気ではいられないかもしれないという、居ても立ってもいられないような恐怖感に何度か囚われたことがある。そのような時の「症状」をよく示していると自分には思われる文章を5月末に手紙として書いているので、それをそのまま引用し、その上で、その時の自分をあたかも他人のようにできるだけ突き放して観察してみよう。
 「25日土曜日午前中、読まれるあてのないメールを、3日続けてあなたに送ってから、家に閉じこもってばかりいると、本当に気が変になりそうなので、4月からずっと天候不順で、5月に入っても、パリは曇り時々雨の肌寒い日が続いていますが、それでも堪らず、外出しました。バスに乗って本屋に行ってきただけですが、帰ってきて、少し思いついたことを書き留めて、一段落したその時、何の前触れもなく、今までに感じたことのない異常な精神状態に突然陥りました。それは、身体の中で言葉があなたに向かって発されようと蠢いているのに、それが固く閉ざされた身体の壁のうちに閉じ込められたままで、そのことによって私が世界から切り離され、自分一人だけの殻の中に押し込められて、そこからの出口がなく、それらの言葉が行きどころを失い、私の脳を内側から破壊しようとしているという恐怖感でした。私はそこに狂気を垣間見ました。2007年4月に感じた恐怖感が自ずと想起されましたが、今回はその時よりはるかに深い絶望感を伴っていました。居ても立ってもいられないのに、誰にも助けを求めることができない。周囲の世界はすべて私に対してまったく無関心。あたかも決して抜け出すことのできない、自分の身体一つがようやく収まるだけの小さな透明なカプセルの中に閉じ込められているかのようです。もうかなり危機的な精神状態に自分は追い込まれていると、はっきりと自覚できました。」
 この文章に記述された精神状態を一言で言い表すならば、「言葉の内圧の脳内での異常な高まり」とでもなるだろうか。その時、本来人に向かって発され、その人によって受け止められることによって生命を持つはずの言葉が、その相手の決定的な不在ゆえに、私の口から声となって出ることができず、行く先を失い、私の内部に閉じ込められたままとなり、いや、その時の鋭い身体感覚により忠実に記述すれば、脳内に犇めき合い、内側から脳を圧迫して、じっとしていることさえできず、たとえ短時間であれ、冷静な思考力を一切奪ってしまったのである。叫び声をあげたい衝動をやっとのことで抑えたその時の精神の動顛が思い出されると、今でも心臓の動悸が始まるのがわかる。
 このような危機的精神状態に置かれて、ほとほと身に応える仕方で痛感させられていることは、何を今さら自明なことを言うかと良識ある方々からは軽蔑されてしまいそうだが、言葉は、本来的に自分に向けて内語されるためにあるのではなく、他者に向けて発され、その人によって聴かれ、あるいはその人のもとに何らかの仕方で届き、その人からそれに対して何らかの応答があってはじめて、命がこもり、人を生かすものなのだということである。そのような本来的に他者を志向する言葉は、その志向対象を失うとき、反転して発話者(というより発話を禁じられた者)の精神に破壊的に作用するようになる。


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