内的自己対話-川の畔のささめごと

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日常を長期間に亘って浸すような恒常的な予期悲嘆としての「かなし」

2023-12-24 00:00:00 | 雑感

 昨日の記事で言及した「予期悲嘆」という言葉は、例えば、この医療関係のサイトでは次のように説明されている。

 予期悲嘆とは、患者さんやその家族が死を予期したときに生じる正常な喪のことをいいます。予期悲嘆では、患者さんの没後に家族が経験するものと同じ症状が数多く現れてきます。この悲嘆には、予期されている死に関する思考や感情、文化的・社会的反応で、患者さんとその家族が感じるもの全てが含まれます。

 予期悲嘆では、抑うつ、死にゆく人に対する極度の心配、死に対する準備、その死がもたらす変化への適応などが起こってきます。予期悲嘆には、この喪失という現実に家族がゆっくりと時間をかけて慣れていくことを可能にするという効用があります。また、死にゆく人に対してやり残していたことを済ませておくことも可能になります(例えば、「お別れの言葉」、「愛の言葉」、「許しの言葉」を伝えるなど)。

 予期悲嘆は必ず生じるわけではありません。また予期悲嘆とはいっても、死の後に経験する悲嘆と同種のものを死の前に経験するということではありません。人が経験する悲嘆には決まった量はありません。そのため、死の前に悲嘆を経験したとしても死の後の悲嘆の期間が短くなるわけではありません。

 この説明に従えば、予期悲嘆は、間近な死が予期されたときに起こることが多いのということになるのだろうけれど、死は不可避である以上、必ずしも間近な死に対してばかりとは限らないのではないだろうか。日常を長期間に亘って浸すような恒常的な予期悲嘆は何と呼べばよいのだろうか。
 『古典基礎語辞典』(大野晋・編、角川学芸出版、2011年)の「かなし」の項には以下のような解説がある。

愛着するものを、死や別れなどで、喪失するときのなすすべのない気持ち。別れる相手に対して、何の有効な働きかけもしえないときの無力の自覚に発する感情。また、子供や恋人を喪失するかもしれないという恐れを底流として、これ以上の愛情表現は不能だという自分の無力を感じて、いっそうその対象をせつなく大切にいとおしむ気持ちをいう。自然の風景や物事のあまりのみごとさ・ありがたさなどに、自分の無力が痛感されるばかりにせつに心打たれる気持ちをもいう。

 「かなし」という言葉に日頃から馴染んできた古代の日本人たちは、「予期悲嘆」を基底的な感情として日々を生きていたとも言えるのではないだろうか。そういう古代人たちに私は限りない愛おしさを感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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