内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「私」は « I » でも « je » でもない ― 日本語についての省察(2)

2013-06-27 05:00:00 | 日本語について

 同じ語族に属する言語間であっても、単語レベルで一対一対応をさせることは厳密にはできない。どうしても意味にズレが出てきてしまう。ところが、名詞レベルではそれが比較的容易にできそうに思われてしまう。特にラテン語起源の語を多数共有しているイタリア語・スペイン語・フランス語などの言語間では、同じラテン語に由来する語源的意味を共有している単語は多数あり、それらの単語間に簡単に対応表を作ることができるだけでなく、それらは語形もとても似ている。例えば、「沈黙」を意味するフランス語は silence、イタリア語は silenzio、スペイン語は silencio。しかし、同じ推論をそれらの言語と日本語との間に適用することはもちろんできない。一般名詞に関しては、それは容易に想像できるだろう。例えば、フランス語の pomme は、仏和辞典を引けば、「リンゴ」が最初の意味として出てくるが、次には「じゃがいも」(pomme de terre)と出てくる。しかし、日本語の「林檎」には「じゃがいも」という意味はない。「林檎のようなほっぺ」をした可愛い赤ちゃんは日本にはいるが、 "Quelle pomme, ce type !" とフランス語で言えば、「なんて間抜けなやつなんだ、あいつは」ということになってしまう。
 それでは人称代名詞はどうであろう。どんな言語だって「私(たち)」「あなた・君(たち)」「彼・彼女(たち)」を示す言葉は必要だろうから、人称代名詞に関しては、どんな言語間にも簡単に一対一対応はつけられそうに思われる。実際、フランス語初級の最初の授業では、「『私』はフランス語で « je » と言います」、と習うのが普通である。しかし、私の日本語の授業はそれを否定することから始まる。「日本語には、君たちフランス人が言う意味での人称代名詞は存在しない」といきなり断言する。そうすると、何も知らない学生たちは、それでなくても大きい目を更に大きく見開いて「意味不明」という顔をするか、そんなこと「ありえん」と、愕然として口をあんぐり開けるかするが、ちょっと勉強してきた生意気な学生(ちなみに、生意気でもなく、ひねくれてもいない、「素直な」フランス人学生を見つけることは、無口で控えめな「大阪のおばちゃん」を見つけることと同じくらい難しい)は、「先生、 « je » は『私』じゃないんですか」とすぐに食って掛かってくる。飛んで火にいる夏の虫とは、このような学生のことである。「じゃあ君に聞くけれど、『わたくし』『僕』『俺』『おいら』はフランス語で何に対応するのかね。」「それも、みんな « je » です。」「しかし、『私』と今挙げた4つの言葉は同じ使い方かね。つまり、いつでもどこでも交換可能かね。」「いいえ…」「友達同士では『俺』を使う男性でも、営業でお客様に対応するときには絶対に『俺』とは言わない。言えば、即契約破棄だろう。ところが、君たちフランス人には選択の余地がない。欧米人は皆同様だ。友達同士だろうが、上司とだろうが、大統領とだろうが、そして神の前でさえ、君たちは自分のことをフランス語で話す時は « je »、他のヨーロッパ言語にしたところで、それに相当する、各言語に一つしかない人称代名詞一人称単数を使うしかない。最後の審判の日まで、君たちは自分のことを« je » と言い続けるように宣告されているのだ。それは君たちにとって、逃れようもない原罪のようなものだ。ところが、日本語では、相手との関係によって、自分を指し示す言葉を変えなくてはならないし、自分のことだとわかりきっているときには自分を指す言葉を使わないのが普通だし、使い過ぎると相手に耳障りだったり、自己中心的なやつだと思われたりしかねないから、その使用を避ける傾向さえ顕著に見られる。日本人にとってそれはあまりにも自明なことなので、いちいち意識しているわけではないが、『私』あるいはそれ以外の自分を指す言葉を使わずに、何時間でも会話することは不可能ではない。ところが、君たちはどうだ。« je » を使わずにどれだけ会話できるか。5分もすれば、窒息して死にそうになるだろう。つまり、君たちは « je » なしには生きられない。しかし、日本人は『私』なしでも生き延びられるのだ」と一気にまくしたてる。もちろんこれは言い過ぎである。しかし、欧米人たちへのルサンチマンから生まれた暴言でもない。フランス人といえども、さすがに初々しい新1年生に向かって、しかも最初の授業で、このような挑発的な長広舌をふるう目的の一つは、日仏語間の人称代名詞の機能の違いについて、語学的に初歩の段階から学生たちの注意を促すことにある。しかし、それだけではないし、それはむしろ私にとって副次的な問題である。ちょっと大袈裟な物言いを許していただけるなら、このような「過激な」説明をあえてするのは、言語間の違いの背後にある、いわば文明論的な共約不可能性について、語学の学習を通じて、つまり具体的な事例を通じて、学生たちに自覚的に考えてほしいからこそなのである。


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