内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(4)

2013-06-16 21:00:00 | 食について

 東京の実家には8年前に三ヶ月あまり帰国した時にまとめて送り返した本がまだ数千冊書庫に残したままになっているのだが、その大半は仏語の本。その中のいずれかをこちらでまた参照する必要が生じても、まさかその度に送り返してもらったのでは送料も嵩んでしまうので、お願いしにくい。結果として、研究上の必要に迫られて随分こちらで買い直すはめになった本もあり、何とも無駄な出費だとその都度自分で腹立たしくなる。しかし、とにかくこれらの本は必要とあればすぐにこちらで手に入るからいい。ところが、日本の我が蔵書の中には、現在こちらで在庫切れ、あるいは絶版になっている本もあり、これは送ってもらうか、帰国の際に自分でまたこちらに持ち帰るしかない。ここ数年、年2回は帰国するようになったので、その度に重量制限ぎりぎりまで本を詰め込んで帰ってくるが、本は重たくて一人では大した量は持ち帰れない。他方、今のアパルトマンではこれ以上蔵書を増やすわけにもいかないから、大量に持ち帰ることはいずれにせよ非現実的で、これからは毎回よく考えて本を選ばないといけない。日本語の本にしてもそれは同様で、この夏の帰国の際にもひとしきり選択に悩むことになりそうだ。
 ただ、今回、どうしても28日の発表前に読んでおきたい西谷啓治著作集第10巻『宗教とは何か ― 宗教論集Ⅰ』(創文社、1987年)を実家に頼んでEMSで送ってもらい、それが金曜日に届いた。西谷啓治の代表的著作の一つである同書の全6章のうち最初の2章以外はすべて「空」をそのタイルの中に含み、特に第3章「虚無と空」と続く第4章「空の立場」において、西谷固有の「空」論が展開されている。上田閑照によれば、「空」を「思索の根本範疇とした哲学者は西谷が初めてである」(『哲学コレクションⅠ 宗教』、136頁)から、発表の際に言及しないわけにはいかないだろう。ちなみに同書の英訳と独訳は1982年、スペイン語訳が2002年、イタリア語訳が2004年に出ている。フランス語訳は、私がパリでその5人の責任者のうちの1人である研究会の別の責任者の1人でもあるベルギーのルーヴァン・カトリック大学の哲学教授が、日本人の同僚の協力を得て、ようやく着手したと昨年6月の研究会の席で本人の口から聞いた。彼には11月の研究会でその『宗教とは何か』について紹介的な発表もしてもらった。近い将来の出版が期待される。

以下は「食をめぐる哲学的考察」の第4回目。

 都市生活を送る人たちにとって、食材・食料品は、生産現場から流通過程を経て供給されるのが普通であり、それら食材・食料品が生産される現場は、店頭に並ぶ商品としてのそれらの向こう側にいわば隠されている。食の安全性が問題視されるようになって、私たちは産地及び生産過程により注意を払うようになったが、それはあくまで自分たちが消費者として購入する商品としての食の安全性が問題になっているということであり、食を通じて私たちが置かれている世界との関係の総体の一部しかそこでは問題化されていない。

 もちろん、商品としての食べ物であっても、そこには、食材と健康との直接的な関係、つまり身体の健康に直接影響を及ぼすものとしての食べ物との関係という意味での直接性も内包されてはいる。とはいえ、それを含めたとしても、食の消費過程での問題しか取り上げられないかぎり、世界と私たちとの食を媒介とした関係の全体が視野に収められているとは言いがたい。
 では、消費過程だけでなく、生産過程をも考慮すれば、食を介しての私たちの世界との関係を全部覆いつくしたことになるだろうか。いや、それでもまだ不十分なのだ。と言うよりも、食の問題をその生産・消費過程の全体において問題化することは、それはそれとして私たちの食生活にとって重要な課題であることは勿論だが、それだけでは、それとは次元を異にした関係性がまったく視野に入ってこないのである。
 その関係性とは、食生活において形成される、世界と私たちとの存在論的な関係性である。これがすっかり抜け落ちてしまっているのだ。食についての既存の専門的研究は、それが栄養学、流通経済学、文化人類学、民俗学、社会学などのどの分野に属するものであれ、この関係性を主題化することは方法論上できない。この存在論的関係を問題化し、それにアプローチするための方法論は哲学にこそ求められなくてはならない。より正確に言えば、この関係性は現象学的存在論の領域に属する問題なのである。
 私たちが日常、食材・食料品と見なしている種々の対象は、私たちのそれらに対する関係とは独立に、それ自体が実体として存在するものではない。それらは〈食する〉ことによってもたらされる行為的連関の中でのみ、〈食べられるもの〉として私たちに立ち現われ、与えられてくるのである。例えば、熱帯に自生する椰子の実やバナナ、森林地帯のキノコ類は、人間に食べられることによって、人間にとっての食べ物としてこの世界に現前するのであって、それらが〈食する〉という行為の対象となることによって、現象世界の構成が変化するのである。あるいは、お伽話に出てくるような、すべてお菓子でできたお城を想像してみよう。普通の城のように石でできていると思ってその城を見ていたときと、それが全部お菓子だとわかった後とでは、そのお城そのものだけではなく、辺りの知覚風景全体も一変してしまうに違いない。
 しかし、〈食する〉ことによってもたらされるのは、単に世界の見え方が変るというだけのことではない。諸々の食べ物は私たちが生きている世界の一部をなしている。私たちがそれらを体内取り込むことによって、それらは私たちが生きるエネルギーに変換される。〈食する〉ことによって世界の一部が生命体を養うエネルギーに変換されるこの過程は、私たちの体の内部で起こる現象だが、それは取りも直さず、私たちがそこにおいて生きている世界における現象である。私たちが何をどう食べるかということは、世界の世界自身に対する関係の表現の一つなのである。


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