内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(3)

2013-06-15 20:00:00 | 食について

 14日は前日よりはいい天気。午前中は薄曇りだったが、午後になって晴れ間が広がり、夏雲が隆起する。気温は低めに推移。日中でも20度超すか超さないかといった程度。朝の日課の水泳はいつも通り。その後は一日原稿書きに集中するつもりが、なんとなく気乗りがせず、井筒俊彦のエッセイ「詩と宗教的実存 ― クロオデル論」(初出1949年,『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』慶應義塾大学出版会、2009年、332-349頁)に引用されていて、かねてより気になっていたポール・クローデルの劇作品『都市』(第二稿)の一節を手持ちのプレイヤード版で探し、見つける。同エッセイに引かれたクローデルの他の作品の原典箇所もついでに特定しておく。井筒俊彦は30の言語を解したという語学の天才(氏の才能はそれに尽きるものではもちろんないが)、クローデルの引用も当然自分の訳だろう。作品名のみで出典の明記がないので、クローデルの専門家でもない私には、長い作品の場合、出典箇所を特定するのに少々時間がかかった。一度こうして特定して記録しておけば、後日自分で引用する際に便利なので、ふと思いついた時には、他の作者、作品の場合にもそうしておく。
 勢いをかってというほどのことではないが、これも気になっていたラヴェッソンのデッサン論、正確には、『初等教育辞典』(1887年)の項目「デッサン」中の、ラヴェッソンが執筆した第2部「デッサン教育」の原文もネット上で探し、見つけておく。これはフランス国立図書館の電子図書館 Gallica から初版の写真版がまるごと無料で閲覧、ダウンロードできる。この「デッサン教育」でラヴェッソンが展開する独自のデッサン論は、ベルクソンが「ラヴェッソンの生涯と業績」で引用したことで有名になったが、哲学的に見て実に興味深い内容なのだ。これについては、11月初旬にパリの ENS で3日間に渡って開催されるベルクソン学会での発表の際に言及するつもりでいる。

 以下は「食をめぐる哲学的考察」の第3回目。

 食についての哲学的考察は、古代から現代までの哲学史を見渡しても、ほとんど見出すことができない。いったいなぜなのだろう。生きることそのことの在り方を根本的問うのが哲学であるとすれば、その生きることにとって不可欠な〈食べる〉という行為についての哲学的考察も当然あってしかるべきなのに、「食の哲学」と呼べる分野がないどころか、そもそも食についてまとまった考察をした哲学者がかつていたかどうかさえおぼつかない。哲学者たちのこの食に対する徹底したとも言える無関心はどう説明されるべきなのだろうか。
 確かに、哲学において食を問題としようとすると、そのアプローチの仕方如何にかかわらず、対象の特定が難しいということもあったかもしれない。例えば古代のストア学派にとっては、食行為が与える感覚の快楽から、他の快楽からと同様、いかに自らを解放するかということがむしろ問題になるだろう。精神の肉体からの独立と前者の後者に対する優位性を説く二元論にとっては、食行為など真剣な議論の対象とはなりにくいであろう。さらには、「何を食べようかと思い煩うな」と説くキリスト教にとって、食に執着することは罪でさえあるだろう。中世の教皇たちがどれほどの食に関しても贅沢三昧だったかはここで問わないことにするが。存在論における食の位置など、そう聞いただけで専門家たちは笑い出すに違いない。認識論において食行為の問題が取り上げられたということもないであろう。倫理学の分野で食行為が考察の対象になったという話も聞いたことがない。社会哲学的な研究ならば、そこで食生活が重要な考察対象となってもよさそうだが、やはり等閑視されているようだ。二十世紀以降盛んになった身体の哲学においても食の問題が特に取り上げられていないのはどうしたわけであろう。そもそも、近世以降繰り返し論じられてきた感覚論においても食行為が特に論じられてこなかったということは、むしろ重大な欠落とさえ言わなくてはならないのではないだろうか。
 私たちは今地球規模での大きな歴史的転換期を生きていると言われることがよくある。その当否はともかく、環境問題が二十一世紀の最重要課題の一つであるならば、身体とその環境世界との関係が最も直接的な仕方で成立する場である食の問題も、まさに不可避の問題になってくるであろう。つまり、今私たちが生きつつあるこの二十一世紀が私たちに突きつけつつある諸問題は、食が未開拓の哲学的考察の領野であることを自覚させようとしていると言えないであろうか。
 少なくとも、差し当たり、次の二つの問題系を、食を主題とした哲学的考察の対象として措定することができるだろう。
 一つは、外なる環境世界と身体との相互的な包摂関係の考察。食することによって、私がそこにおいて生きている世界の一部が私の身体の内部に取り込まれ、それが私の身体を生かす。そのようにして生かされている私が世界において働く、あるいは世界に働きかけ、新しい形をそこに与える。つまり、食べることによって世界の一部を身体内に取り込むことによって、この身体に世界を変えうるエネルギーが、世界内存在であるこの私の身体において生まれる。
 もう一つは、食における五感協働。食におけるほど私たちの五感が見事に協働している時が他にあるであろうか。食材に触れる、食べ物の色・形を見る、その香りを嗅ぐ、調理の際に音を聞く、そして口で咀嚼して味わう。まさに触覚・視覚・嗅覚・聴覚・味覚の共同作業の現場が食である。よく食べるとは、その意味でよく生きることにほかならない。


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