3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(5)
西田において、自覚が私たちの身体的自己において行為的直観と同一化されるのは、世界が私たちの行為的・受容的身体にとって自己形成的な形の世界として己自身に対して現われるときである(本稿第二章3.1「歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚」参照)。このとき、私たちの行為的・受容的身体は、そこから世界が己自身を見る一つの自己形成的な見る形である。しかしながら、自覚が否定的自覚として私たちによって哲学の方法として実行されるとき、自覚が行為的直観と区別されるのも、この私たちの身体的自己においてのことなのである(本稿第二章3.2「自覚と行為的直観との方法論的差異」参照)。
私たちの身体的自己は、世界構成の方向において自覚と行為的直観とが同一化される場所であり、自己回帰の方向においてこの両者が区別される場所である。それゆえ、それ自体が他に還元不可能な固有性を有った空間であると考えられなくてはならない。外から見られた行為的身体に還元されることもなく、自覚せる自己として己自身を経験する距離なく延長もないような自己そのものに還元されることもない。
私たちの身体的自己は、一つの媒介的な有限空間であり、その都度の特異性を有ち、掛け替えがない。これこそ自己身体の内的空間に他ならない。それは、内側から己自身を様々な仕方で持続的に感じる空間であり、この空間においてこそ、自己は、否定的自覚によって己自身を純粋な内在性として感じることができ、それと同時に、世界は、己の外に絶対的超越として現われうる。
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