内的自己対話-川の畔のささめごと

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科学思想史家としての志筑忠雄(10)― 科学的態度としての「不測」

2023-08-21 06:32:30 | 読游摘録

 池内了氏はけっして手放しで志筑忠雄の天文・宇宙論を称賛しているわけではない。心遊の術をもってしても陰陽五行説や理気論の立場に制約されて徹底した地動説には至り得ず、地動説・天動説は相対的な見方の差異でしかないという中途半端な折衷案に志筑はとどまる。その限界を池内氏は次のように指摘する。

 志筑は、出発点では地動説ですっきり惑星運動を説明し、恒星が点々と分布する無限宇宙論にまで到達したのだから、天が動くということにはならないはずである。しかし、その立場を貫くことができず、陰陽五行説との妥協を図ろうとしたことは、なんとも残念である。時代が課した限界というものだろうか。(122頁)

 もう一点、取り上げたいのは「不測」という考えである。科学の研究においては、そもそも答えがわかり得ない問題、解けない問題があり、それを志筑は「不測」と呼んだ。物理学の理論は「なぜ」という質問には答えられないが、「こうであれば命題が証明できる」のだから、それで満足すべきであると志筑は述べている。つまり、「なぜ」に答えられない「不測」はいくらでもある。この点について志筑は次のような考えを示している。

重力がなぜ引力であるかは不測で、不可思議で計り知れないことである。西洋の人にとっても不測であろう。およそ、人は誰もが知らないことを「不測」とし、知ることができることは不測ではないとしてきた。しかし、「未だ知らないこと」は不測ではないが、「知った」としても不測のこともある。また、不測ではないとしても、別の不測と結びつくと本当の不測になってしまう。(138頁)

 池内氏は、このような志筑の態度について「いささか哲学じみた自問自答」とやや揶揄するようなコメントを付しただけで、志筑が宇宙に関して列挙している不測の例へとすぐに話を移してしまう。しかし、天文・宇宙に関する「なぜ」に対してばかりではなく、より一般的かつ基本的な学問的姿勢として、この「不測」の知はとても大切なのではないかと私は思う。「不測」に対してどこまでも謙虚にそれを認め、知の探究はその限界内において行われるべきだという姿勢において、志筑は「科学的」であったと言えるのではないだろうか。
 第二章の最終節は、志筑が宇宙の構造形成について持論を展開した「混沌分判図説」の紹介に当てられている。その紹介を池内氏は次のように締めくくっている。

志筑は、おそらくケールの原本に従ってニュートン力学の紹介を忠実に行ってきたのだが、やはり自分の意見を付け加えたくなり、重力によって天体が形成される過程について自らの所論を「混沌分判図説」として述べたのだろう。重力と遠心力が拮抗しつつ太陽系ができていく状況は、訳出した内容の具体的応用であるからだ。志筑の物理学に関するセンスの良さが強く印象に残る。(147頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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