内的自己対話-川の畔のささめごと

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テキストの地層学と精神史的アプローチ(3)

2016-07-01 05:19:09 | 哲学

 一昨日から掲載を続けている発表原稿は、発表時間二十分という前提で書き始めたので、論旨を簡潔明瞭に示すことに重きが置かれ、聴き手に効果的に問いかけるために場合によってはいささか誇張された表現が選択されている。和辻のテキストを引用しつつ、そのそれぞれの引用箇所に即して丁寧に論証を積み重ねていくのが論文の本来あるべき姿であろうが、それはまた別の機会に譲らなければならない。

3 ― 時代精神の抽出方法 ― 本居宣長「もののあはれ」論批判を通じて

 しかしながら、もし和辻が『源氏物語』の文献学的なテキスト分析に終始していたのならば、いかなる意味でもそれを将来の倫理学の方法序説として読むことはできないでしょう。そのような読み方が可能になるのは、論文「『源氏物語』について」を論文「「もののあはれ」について」と併せ読むことによってです。
 『源氏物語』の成立過程をテキストに即して解析することを通じて、そこに見いだされた重層的なテキストの生成がどのような「理念」によって導かれていたのかという問いが和辻に生まれます。一個の作品内の異なったテキスト層の解析が、その重層性を可能にした精神環境特性をどのように特定するかという問いへと和辻を向かわせたと言えるのではないでしょうか。
 この問いの答えを見いだすために、和辻は本居宣長の「もののあはれ」論を論文「「もののあはれ」について」で批判的に検討します。
 私たちのここでの主たる関心は、同論文における和辻の宣長説批判の妥当性を吟味することにはありません。本発表のここでの目的は、和辻が「紫式部を初め多くの文人に内在してその創作を導いたところの,一つの「理念」」と自ら呼ぶものをどのような作業を通じて抽出しているかを考察することにあります。言い換えれば、和辻がどのような手続きを経て『源氏物語』を生み出した時代に固有な精神を抽出しているかを考察することにあります。
 なぜなら、ある時代の文芸作品の生成環境特性を時代精神として抽出する試みを通じて、その時代と社会に支配的な価値の抽出方法を確立することは、来るべき倫理学的体系構築のための準備作業となりうると私たちは考えるからです。
 同論文で、和辻は、宣長がこの語に与えた文芸理論の根本概念としての価値規定の丹念な分析を通じて、規定相互間の矛盾点を明らかにしていきます。
 和辻による宣長の「もののあはれ」論批判の要点は以下の点にあります。
 本来各時代に固有な意味論的制約を負わされているはずの言葉の一つである「もののあはれ」を一般文芸理論の根本概念として普遍化・理想化することによって、しかもその普遍化・理想化の過程で、本来ある特定の時代と社会条件に固有の精神的傾向に過ぎないものをそこに混入させるという論理的不整合に陥り、その結果として、平安時代において文芸作品を産出させたその時代固有の精神としての「もののあはれ」の特異性を覆い隠すことになってしまった。
 和辻の批判的分析の試みは、宣長によって文芸一般を基礎づける根本概念として昇華された「もののあはれ」を、その普遍的価値概念の地位から、時代精神を表現する歴史的に限定された特殊な、しかしその時代の文芸において生産的な「理念」の地位へと格下げすることだったとも言えます。
 宣長によって人間の本性そのものにまで拡張解釈された「もののあはれ」は、そのことによって、各時代精神の固有性・特異性を把握するためには有効性を持たない一般概念に転化させられてしまいました。本来時代的諸条件に制約された特殊理念であった「もののあはれ」のそのような一般・普遍概念化を批判しつつ、和辻は、それぞれの時代の諸条件によって限定された特異性を有する時代精神をその時代の社会的諸条件から抽出する方法の具体的適用例をこの論文において提示しています。
 もちろん、和辻自身による「もののあはれ」の再定義は、ドイツ・ロマン派的な「永遠の根源への思慕」「無限性の感情」などの概念に依拠することでなされていますから、その妥当性如何は当然問題にされるべきでしょう。しかし、この問題は別途検討されるべき問題ですので、本発表では立ち入りません。






















































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