内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「身すがら」という言葉について

2021-09-26 23:46:09 | 日本語について

 金曜日に審査があった修士論文の中に、馬場あき子の「太宰治と日本の古典―なぜお伽草紙か」(『國文學 : 解釈と教材の研究』學燈社 1974年2月号掲載)から以下の引用があった。

それは厭戦の情に発する孤独なユートピアへの脱出であるとも、まるごとの全き人間性を、身すがらに抱いて逃亡したい異郷への憧れであるとも考えられよう。〈お伽草子〉という甘やかなふしぎな時空の選択はそこに浮かび上がってくるのである。

 この引用の仏訳に間違いがあったので審査の際に指摘した。「まるごとの全き人間性を」を「逃亡したい」の目的格として訳してしまっていた。それは無理だろう。やはり「抱いて」の目的格と取るのが妥当だ。でも、一読しただけでストンとわかる文とは言えないかも知れない。
 この引用の中の「身すがらに」という表現がとても強く印象に残った。「身すがら」は近世語で、名詞あるいは形容動詞として機能する。古語辞典には、用例として、『奥の細道』の草加のくだりがよく引用される。「只身すがらにと出でたち侍るを」(ただこの身一つだけで行こうと出発しましたが)。「身すがら」には、「(家族・親類などがなく)自分ひとりで生活していること」の意もある。近松門左衛門の『心中天網島』に「われら女房子なければ、舅なし、親もなし、叔父持たず、身すがらの太兵衛と名を取った男」とある。
 「すがら」は上代から使われている。副詞として「その間中。始めてから終わりまでずっと」の意では、「この夜すがらに眠も寝ずに」など、万葉集に用例がある。接尾語として「…の間中ずっと」の意では、「道すがら面影につと添ひて、胸もふたがりながら」という用例が『源氏物語』(須磨)にある。「…の途中で」の意もある。『増鏡』の「道すがら遊びものども参る」がその一例。この意味では私も使うことがある。
 『新明解国語辞典』第八版(二〇二〇年)には、ちゃんと「身すがら」が載っており、「孤独で、天涯無一物の境涯」「荷物などを持たず、からだ一つのこと」とあるから、まったくの古語というわけでもないのだろう。私自身は使ったことがない。これを機会ににわかに使ってみようとは思わないが、味わい深い言葉として心に刻まれたことは確かである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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