内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本学という亡霊から学問を始めることはできない

2021-06-24 23:50:45 | 雑感

 ここ数日、夜半に雷雨あるいは強雨が続いている。早朝には上がっていることのほうが多かったが、今朝方はまだ音を立てて降っていた。さすがにウォーキング・ジョギングは諦めた。そのために目を覚ましたのだから、諦めたとなれば、もう少し寝ていてもよさそうなものだが、すでにすっきりと目覚めてしまったから、もう眠ろうにも眠れない。起き出して学生の卒業小論文を読み始めた。
 その論文のテーマは、現代日本におけるプラスチックの過剰消費の実態とそれに対する対策である。特に、地方自治体レベルでの削減対策の実例研究に重点が置かれている。日本語の最新の資料をよく調べて書いている。構成・文章ともに明解そのもの。だが、分析としては踏み込みが足りない。論文というよりは、調査報告書である。
 しかし、それをこの成績に秀でた学生の側の難点として責めることはできない。なぜなら、何らかの専門性をもった学術的方法を身につけることなしに、問題に立ち向かわざるを得ないという日本学科の弊がその原因だからである。自然科学の分野ではまったくありえない話であり、人文社会学系であっても、方法が確立している分野では、こんなやり方は通用しない。
 だから、私は日本学科で勉強したいという高校生たちにこう繰り返してきた。日本学科に来る前に、ちゃんと専門性の確立した分野で勉強しなさい。そして、その分野の勉強を続けていくために日本学科で勉強することが有用ならば来なさい。そうすれば、日本学科で君たちが身につけることが将来君たちの専門の分野で生かされることになるだろう。
 上掲の論文に即して言えば、こういうことである。社会生態学、流通経済学、環境政策学などの分野で、まず基礎知識と研究方法を身につける。その上で、特に日本の実例に興味を持ち、それを研究対象としたいと思う。そのためには日本語の資料を読みこなし、日本語を使って現地調査をする必要がある。だから、日本語及び日本文化を勉強する。こうして身につけられた日本語及び日本についての知識は、自分の専門分野で自分の研究領域を特化するために役立つ。
 では、逆は駄目なのか。まず日本学科で学んでから、何らかの専門分野に進む。もちろん不可能ではない。しかし、ある特定の学問分野で方法論的な基礎訓練をまず積むのが、将来どの道に進むにせよ、より合理的な順序ではないだろうか。
 これはこのブログでも以前に何度か話題にしたことだが、「日本学」などという学問は存在しない。なぜなら、そのための何らの学的方法も存在しないからである。亡霊のような「虚学」から学問の訓練を始めることはできない。
 論文を八時過ぎには読み終えた。窓外に目を転ずる。雨が上がり、晴れ間が見えるではないか。さあ、ウォーキング・ジョギングにでかけよう。


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