内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

あへて獨斷を避けず

2016-01-08 10:51:42 | 読游摘録

 昨日の記事の中で引用した塚本邦雄『王朝百首』の「はじめに」は、絶美の古歌の花筐から一首また一首と花開かせる本文に対して、その夢幻美の世界へのあらいがたく魅惑的な導きの言葉となっている。上代から近世までの日本詩歌の代表的な歌集等を列挙した後に、塚本はこう記す(原文の漢字はすべて正字なのであるが、以下の引用ではそれを完全には尊重できなかったことをお断りしておく)。

これらすべてが私たちのもつ繚乱たる詩華の遺産であることなどほとんどの人に無緣となりつつあるのかも知れない。惜しんでもあまりある傳統の抛棄と言へよう。あわただしい日日のひととき、ふと目を瞑つて私たちの血のはるかな源にかくもうつくしい詩歌が生まれてゐたことを思ひ起こさう。古典は意外に親しく新しいものだ。業平も小町も、定家も實朝も、私たちが望むなら明日からでも時間の霞を越えてかたはらに立つてくれよう。彼らは皆私たちの兄となり姉となつて、日本の言葉のさはやかさ、あてやかさを教へてくれるにちがひない。西歐の詩歌に翻譯で親しむのも揄しいことであるが、それと同時にあるいはその前に、私たちの言葉とあたたかい血の通ひあふすぐれた韻文定型詩を心ゆくまで味はつてほしい。

 『王朝百首』の初版が出版されたのは、一九七四年のことであり、それから四十年余りが経っているわけであるが、上の言葉は、今のような国際化の時代であればこそ、なおのこと切実さを増していると私は感じる。
 塚本邦雄の願いは、しかし、いわゆる伝統への手放しの讃仰と表裏をなすものではなく、伝統へのもたれかかりの決然とした拒否と飽くなき詩美の探求としての私撰という形で表現される。

異論を承知で言ふなら、百人一首に秀歌はない。あるとしても稀に混入してゐる程度だ。秀歌凡作の判定基準は現代人の美學を通してなほ詩的價値を持つ作品を言ふ。

 塚本邦雄は、しかし、古歌を十全に鑑賞するには古典文学ならびに有職故実、当時の慣習等に精通していなければならないことを無視してこう言っているのではない。

しかしその約束を超えてぢかに私たちの心を搏ち魂に染み入る歌、まことに言語藝術の精華と呼ぶにふさわしい名作はたしかにあるはずだ。百人一首にはそれが乏しい。

 この認識が自ら私撰詞華集を編むという願いを生み、それを実現したのがこの『王朝百首』なのである。

私はあへて獨斷を避けず、私自身の目で八代集、六家集、歌仙集、諸家集、あるいは歌合集を隈なく經巡つて、それぞれの歌人の最高作と思はれるものを選び直し、これを百首に再選して『王朝百首』と名づけてみた。私の久しい願ひの一つであり、現代人に贈る古歌の花筐である。






































 


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