昨日の記事の末尾に記した問いに対する答えが『ヨハネの黙示録』の解説文の中に示されているわけではなく、私自身がそれに答えることができるわけでももちろんない。ただ、気にはなるのだ。西欧世界が最初から孕んでいた根本的な矛盾がヨハネ黙示録に対する態度に顕れているのではないかと思うからである。
以下は、誰にも話を聞いてもらえない哀れな老生の妄想的戯言である。
古代ギリシアに淵源するロゴス中心主義から逸脱するものを美術の世界に回収し、そこにいわば封じ込めることで、キリスト教西欧世界に理性中心主義が確立したとすれば、それは、非理性的なものを回避し、向き合うことを拒否し続けるかぎりにおいて維持され得る。非理性的なものを美術の世界でも排除した東方教会は、まさにそのことによって、非理性的なものと正面から全面対決することを選択したのに対して、西方教会世界における黙示録的図像の豊穣さは、西方教会が本来正面から対決すべきものをイメージの豊穣さの裏に隠蔽したことを意味しているとは言えないだろうか。
ここから以下のような「黙示録的」とも言えなくもない妄想的飛躍が生まれたとしても驚くには当たらないのではないだろうか。
西欧的理性中心主義がもはや通用しなくなった二十一世紀の世界を襲いつつある種々の災厄は、その「つけ」が回ってきたことを意味している。とりわけ、非西欧的世界は、本来自分たちにはその支払の義務のない「つけ」をグローバリゼーションという名目で西欧世界から押し付けられている。このような不当で歪んだ世界は終わりにしなくてはならない。キリスト教的黙示文学が描き出す終末論的世界像が終焉した後の二十一世紀の現代にこそ、真に黙示録的な世界が到来している。