内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

苦痛において自覚される孤立した現実の私 ― 受苦の現象学序説(9)

2019-05-20 22:00:29 | 哲学

 以下は、 « I. La description de la douleur » の第二段落の内容の私なりの咀嚼あるいは曲解である。今回の連載では、今後、仏語原文引用は必要最小限に留める。原文にご関心のある方は、一昨日の記事に貼ったリンクからダウンロードされたし。

 痛みは自己意識と緊密な関係にある。認識や意志は、私たちの活動を外部の対象へと向かわせる。それは私たちを己自身から遠ざけ、私たちの気を紛らわせる。認識や行動に没頭するとき、私たちは我を忘れる。理解するときに、あるいは創造するときに、私たちが経験する喜びは、自分から解放されることから生まれる喜びでもある。
 ところが、感受性は、私たちを私たち自身に向き合わせる。この点、喜びと痛みとは大いに異なる。喜びは自ずと外に向かって拡張される。喜びには、私自身を超えて広がってゆこうとするものがある。私たちが幸福だったと気づくのは、私がもはや幸福ではなくなったときである。幸福は、世界と私たちとの間に調和を創り出し、その調和の中に私の意識は溶け入ろうとする。
 しかし、痛みは、私たちを他から隔離する。苦しむときは独りだ。私が「我思う故に我あり」、あるいは「我動く故に我あり」と言うとき、私は私自身の実在のうちにそれよりも広大な実在を発見し、それに参加していることに気づいている。世界と交流しながら私は実在している。
 ところが、痛みのうちに私に示される実在は、個としての私の実在であり、その特別で唯一なものにおいてであり、私は世界との交流を止める。そのとき、世界が私に現前するのは、私を虐げ、私が自分のうちに閉じこもるのを強いるためだけである。
 しかし、痛みが私に「痛い」と言わせるとき、私が表現しているのは、単に一定期間持続する苦痛、つまり痛みがなくなるまでの状態ではない。痛みを表明することで私が言い表しているのは、まさにその痛みがある場所に現実の私が現前していることである。この痛みにおける現前において、現実の私は存在と生命に根ざしている。
 一切の制御装置を外された権力意志が、弱きものたちに対して、彼らを殺さずに、残虐な苦痛を与えるのはなぜか。苦痛を与えることによって己の他者に対する絶対的な優位性を示すためである。それは、形而上学的とも呼べる優位性であり、他者の死によって得られる優位性に勝る。なぜなら、苦痛を与えることによって、孤立した自己存在にその絶望的な孤立を自ら証言することを強いるからである。