今日の記事のタイトルを構成する二概念「聖体拝領」と「共産主義」とを日本語の中だけで考えると両者の共通点が見つけにくいかもしれない。前者はまぎれもなくキリスト教の根本概念の一つであり、後者は明らかに社会・経済・政治的体制の一つを指す。両者のどこに共通点があるというのか。
しかし、例えば、フランス語で両者について考えるとき、前者は « communion »、後者は « communisme » であるから、文字面からだけでも両者の共通性は目に明らかであり、実際、「ある同じ〈もの・こと〉を共有する」ことという意味を両語はまさに「共有」している。
両者の間に「共同体」という言葉を置いてみよう。フランス語では、« communauté » であるから、三者が「近接的な」類語であることは一目瞭然だ。
そして、その語源的な共通性とは別に、現在において認めなくてはならない三者の共通点は、いずれも今の「流行り」ではないということだ。
こんなことをジャン=リュック・ナンシー先生の La Communauté désavouée (Galilée, 2014) を読みながら一昨日来考えている。